隣の旦那様と夢見る乙女1
今日は日曜日。
収精官の
優理はぼんやりと、具体的には五、六時間ほどだらけていた。
既に時刻は十七時を回り、カーテンの外は暗くなってきている。
まだリスナーへの説明という大仕事が残っているわけだが、普通に面倒くさくてやる気が出なかった。困ったことに、香理菜という女子友とデートして、朔瀬という美女と近距離お喋りをして、優理は割と満足感を得てしまっていた。
「もう……いいんじゃないかな……」
どこかで聞いたことのあるセリフを吐きながら、優理はベッドでごろごろする。現代の人間らしく、携帯を開いて電子の海に飛び込む。
気分転換のための手段なら山ほどある。
SNSを開き、見るのはユツィラ――ではなく、エロ侍従――でもなく、隣の旦那様だった。
隣の旦那様のSNSは少々特殊で、個人チャット用スペースと誰でも書き込める全体チャットスペースの二つがある。どちらも優理がお金を払って借りているチャットスペースであり、本人確認の書類審査とメールアドレスやパスワードの登録などが必須となっている。
本人確認などは当然優理がやることではなく、チャットサーバーを運営する組織が担当している。
優理の前世で言うマッチングアプリや通販サイトのような形式だ。これのおかげである程度の冷やかしや面倒な手合い(詐欺や荒らし)は防ぐことができる。
それでも本気でえちえちボイスチャットを求めていない相手や度を超した変態はいるが、そこはもう優理が見極めていくしかない。
ひとまず、と全体チャットを開く。
▼夢見る誰かの全体チャット▼
アザレア:私を満たして、貴方を満たして。貴方の愛で私を溺れさせて。お願い、私を見て、私だけを、貴方だけの私を見て。
チューリップ:口付けを。甘く痛く、痺れる口付けを。恋をさせて。愛をさせて。貴方の唇に恋をする私を、あなたの心に愛をする私と淡い口付けを。
プリムラ:ねえ、見てる?私は見てるよ。ずっとあなたを見てる。ずっとあなたを待ってる。あなたの目が私に向くのだけを、ずっとずっと、日が昇って沈んで、また昇って、空の色が変わって季節が移り変わってもまだ、私は見てるよ。ねえ、あなたは私を見てる?
マーガレット:愛してるは言えないの。本当の愛を知らない私は、本当の愛を知るためにあなたを探しているの。だからまだ、愛してると言えないの。だからいつか、愛してるを言わせて。
ビデンス:待って、待って、待ち焦がれて。夢を見て、夢を見て、夢を持ち続けて。私が忘れるまで、私が失うまで、私はいつまでも夢を待ち続ける。
ゼラニウム:昨日が終わって、今日が始まって、今日が終わって、明日が始まって。代わり映えのない日々にあなたの光が差し込む。誰かの生に色を付ける、光の色が付く。華やいだ明日を生きるのは誰。私かな。それともあなたかも。
―――――。
――――。
――。
「……うーん」
相変わらずすごいチャット欄だなぁと、優理は他人事のように思った。
別にアレしろコレしろと言ってこんなポエミーなボイスエッチ募集覧になったわけではない。
ここに載せている時点ですべて優理宛なのだし、取り繕う必要はなければ馴れ合う必要もない。だからといって、ユーザーからすれば名前も知らぬ不特定多数の女に自己紹介を読まれたくもない。
優理――隣の旦那様もここで自己紹介をしろとは言っていない。ただここに文章を書き込んだ人のプロフィールは見に行くよと周知しているだけ。事実、顧客のほとんどはこのチャット欄から成っている。
募集……というよりアピールする人たちは、どうにかして優理の目に留まろうと色々考えた。結果、こうなった。
「……みんないいポエム書くなぁ」
優理自身、エロ侍従としてポエミーなボイスを投稿もしているので気持ちはわかる。
だからこそ、目に入ったポエムな文章の人に興味が出て通話しようと思ったのだ。それが数回続き、誰が言い出したか隣の旦那様=ポエム好きが広まってしまった。まあ事実なわけだが。
その末路が今のチャット欄である。
別に今日はエッチボイスなりきりチャットの相手を探そうと思っていたわけではない。配信モチベーションがなく、気晴らしでチャット欄を見に来ただけだ。しかし、こうして見ていると少しはやる気が出てくるというもの。もちろん隣の旦那様としてのやる気である。
「おー、これいいな……」
▼夢見る誰かの全体チャット▼
アイリス:朝霧に愛が溶けていく。触れた指先の哀が静々と落ちていく。私と、貴方と。姿も、名前も、声も、何一つ知らない私たちのアイ。Iの欠片を見つけて。あなたの愛を、待っています。
結構かなり、いや正直めちゃくちゃ好きだ。
優理自身、愛についての綺麗な響きや言葉の羅列はかなり好きだった。ただの恋愛というわけではなく、日本語らしく愛情に哀情を重ねて、言葉の意味も含めた文章の作りこそを好んでいた。
短い文章で情景が想像できる。それも細かな空間の在り様が目に浮かぶ。
切なく儚い表現の最後に、真正面からぶつかってくるド直球な愛の言葉とは恐れ入る。とても良い。最高に良い。
名前の"アイリス"を長押しし、プロフィールを開く。
表示されたのは不思議な自己紹介の並びだった。
―――――――――――――――――――――――――
名前:アイリス
住居:雨降る街角
年齢:3歳
性別:女
恋愛歴:ありません。
趣味:愛を探すこと。
目的:愛を知りたくて。
隣の旦那様に求めること:私に愛を教えてください。
―――――――――――――――――――――――――
「……どういうことだろう、これ」
プロフィールまでポエミーとは思ってもみなかった。俄然、興味が湧く。
画面下部の"個人チャットに招待しますか?"をタップした。
数秒後、個人チャットのタブが自動で開かれる。
ぱっとホーム画面を押せばLARNのように複数の個人チャット欄が表示された。それぞれお相手の名前が記載され、一番上に"アイリス"、と先のユーザーの名前があった。
満足して携帯を放る――と、直前に見えた画面に違和感。再度画面を付け、違和感の正体を確かめる。
「はっや」
答えはすぐだった。
▼あなたのための夢見チャット▼
アヤメ:待っていました。
そんな言葉が書かれていた。
向こう側に通知が行ってまだ数秒のはずだというのに、まさかこのチャットアプリに張り付いていたとでも言うのだろうか。
微妙にホラーだが、優理はこの程度で怖気づくような男ではない。インターネットに限って百戦錬磨の漢である。
▼あなたのための夢見チャット▼
アヤメ:待っていました。
隣の旦那様:アヤメさん、初めまして。待っていたとは私のことをでしょうか?
アヤメ:はい。あなたを待っていました。
隣の旦那様:そうですか。それはお待たせしてしまったかもしれませんね。
こういうちょっと難解な人の相手をするのにはコツがある。
一つは否定しないこと。特に文章なんて感情が伝わりにくいのだから、できるだけ柔らかい表現でプラスに伝える必要がある。もう既にロールプレイは始まっていると言っても過言ではない。
▼あなたのための夢見チャット▼
アヤメ:はい。とても待っていました。ずっと待っていました。あなたを探していました。お名前を教えてください。
「ふむ……」
つい賢そうに呟いてしまう。
身を起こし、ベッドで胡座をかく。少し気分が乗ってきた。
このアイリス――アヤメという女は本当に幼いか、もしくは外国の女性の可能性が出てきた。日本語が拙いわけではない。しかし、わかりやすく同じ単語を連続して使うのは幼さ、もしくは日本語に疎い証拠だ。
日本語は話せるようになっても書くのは難しいと言うから、この線は意外に濃厚だろう。
自称三歳にしてはチャットのレスポンスが早すぎるので、あまり幼い説は押したくない。というか三歳ってなんだ。冷静に考えたらありえないだろう。
軽く頭を振り、返事を書く。
▼あなたのための夢見チャット▼
隣の旦那様:名前は教えられません。アヤメさんの呼びたいようにしてもらって構いませんし、私も喜んでそれを名乗りますが、私の名前を教えることはできかねます。
アヤメ:どうしてでしょうか。私はちゃんと名乗っているのに。
隣の旦那様:アイリスさんかアヤメさんか、どちらかが本名だとしても、私が教えるわけにはいきません。
アヤメ:私はアヤメ。アヤメです。アイリスは
途中で文章が止まる。悩んでいるのだろうか。
▼あなたのための夢見チャット▼
アヤメ:私はアヤメの方が好きだったのです。アイリスより、アヤメの方が良いと思いました。だから私はアヤメです。アイリスですけど、アヤメです。どうして私はアヤメと言ったのに、あなたは私にお名前を教えてくれないのですか。
今度はこちらの指が止まる。
どうして、どうしてか。
画面の先の彼女のことが、なんとなく少しだけわかった。
箱入り娘、お嬢様、名家の娘。そんなところだろう。それも年齢はかなり若い。下手したら未成年だ。その時点でエッチボイスチャットに繋げるつもりはなくなった。
確かに年齢認証を必要とするチャットアプリだが、権力者ならそれを掻い潜ることもできる。普段は気づかない優理でも、ここまで露骨だとさすがに気づく。
▼あなたのための夢見チャット▼
隣の旦那様:私はあなただけの私ではありません。隣の旦那様と言う存在であり、隣の旦那様だからこそこの場にいるのです。
アヤメ:納得できません。
隣の旦那様:なら、チャットは打ち切りますか?
アヤメ:いやです。まってください。わたいはまだみつけてないでうまだ
隣の旦那様:冗談です
再び返事が止まる。子供相手に少し言い過ぎたかな?と思うも、これくらいはまあと思い直す。
アヤメとのチャットが楽しくなってきた優理だ。
▼あなたのための夢見チャット▼
アヤメ:あなた、意地悪です
隣の旦那様:ふふ、すみませんね。さてアヤメさん。私をどう呼びたいですか?
アヤメ:意地悪な人
隣の旦那様:意地悪な人でいいんですね?アヤメさんがずっとそう呼ぶんですよ?
アヤメ:イヤです。呼びません。本当のお名前を教えてくれるまであなたのお名前は決めません。勝手にあなたが決めてください。
隣の旦那様:そう来ましたか
拗ねてる子供の姿が思い浮かぶ。
頬を緩ませ、名前について考える。
たまに、こちらが名前を決めてと言う相手もいる。基本的にはやりたいシチュエーションが決まっている人ばかりで、当然呼び方呼ばれ方も決まっている人が多い。
彼女はその少ない例外のようだ。
▼あなたのための夢見チャット▼
隣の旦那様:それなら、私のことは「アライン」と呼んでください。
アヤメ:外国の方だったのですか?
隣の旦那様:違いますよ。本名は教えないと言ったじゃないですか。
アヤメ:そうですか、アライン。あなたはどんなお顔をしていますか?
隣の旦那様:また急ですね。
アヤメ:教えてください
隣の旦那様:秘密です。私は男ですから、男らしい顔、とだけお伝えしておきましょう。
アヤメ:日本だけで1000万人以上いるお顔ですか。
隣の旦那様:ふふ、そんなにはいませんよ。
アヤメ:アラインはおいくつでしょうか。
隣の旦那様:いくつだと思いますか?
アヤメ:意地悪な人ですから、私よりは年上です。でもお年寄りに活動的な男性はあまりいないと見たので、たぶん二十代です
「おー……」
なかなか鋭い。
全体的に子供っぽいのに、節々からやたら知的な雰囲気を漂わせてくる。もしや親と一緒にチャットを――いやさすがにないか。
▼あなたのための夢見チャット▼
隣の旦那様:ふふ、さてどうでしょうね。
アヤメ:二十代なら日本の人口比率で見て、男性は一割程度しかいません。100万人ちょっとのお顔なら、頑張れば見つけられそうです。
隣の旦那様:いや無理ですよ。
アヤメ:ならどんなお顔か教えてください。
隣の旦那様:ダメです。
アヤメ:どうしてですか。ずるいです。卑怯です。秘密ばかりです。私はちゃんと本当のことを書いたのに、アラインだけ隠すのはずるです。横暴です。
隣の旦那様:本当って言いますけど、アヤメさんの三歳は嘘でしょう……。
アヤメ:本当です。身体は
またチャットが途切れる。
身体は、なんだろうか。身体は確かに三歳だけど、心は二十三歳とか言うのだろうか。背伸びする子供は可愛いから、そんな可愛い嘘には適当に頷いてあげたいところだ。
▼あなたのための夢見チャット▼
アヤメ:アライン。あなたは約束を守れますか?
隣の旦那様:ここでのやり取りは口外しないつもりですが、念押しするなら私もその旨を理解して話を聞きますよ。ボイスチャットに切り替えますか?
アヤメ:はい。お話したいです
隣の旦那様:わかりました。
普段ならもっと時間をかけてチャットをしたり、人となりがある程度わかるまでボイスチャットに移行などしないが今日は特別だ。相手は子供(おそらく)。何か相談事があるようなのだ。それも約束を求めてくるほど大事な話ときた。
優理とてこれでも二十歳の大人。立派に税金も精子も収めている一人の成人男性である。
前世と合わせれば最低でも四十歳以上になる。細かくは記憶が薄れているためわからないが、きっとそれくらい。大人として、子供の相談に乗ってあげるのは大事なことだ。
チャットアプリ経由でアヤメに"Call"をかける。
こういう電話の部分もLARNに似ているが、個人サーバーを借りて使える点がやはり違う。
携帯は音小さめでスピーカーモードにしておく。
プルプルと呼び出し音が部屋に響く。
『……ア、アライン?』
――Tips――
「なりきりチャット」
自分とは異なるキャラクターを演じるためのチャット空間。
性欲逆転世界では自称お姫様が大量に湧くカオス空間となっている。自称男がほとんどいないのは、男になりきっても性欲は満たせないから。
優理の開設した「夢見る誰かの全体チャット」はまことしやかにリアル男性が作ったと噂されており、期待半分で訪れた女性がポエっている。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます