搾精の人(健全)

 朝起きて、顔を洗って、ご飯を食べて、歯を磨いて。

 日曜日だからと毎日のルーティンが変わるわけではない。昨日とほぼ同じ工程を繰り返し、パソコンを立ち上げ携帯を手に取る。

 LARNを開きながら、改めてと今日の予定を確認する。



< 搾精の人 ✉ ☏ ―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――


【2028年9月22日(金)】


メールで送ったので

明日か明後日かに確認

していただけると助か

ります。お願いします

【既読 22:40】



【2028年9月23日(土)】


確認しました。

少々お時間をいただきま

す。日曜日には具体的な

お話ができるかと思われ

ます。

お待ちください。

【00:25】



ありがとうございます。

【既読 08:30】



優理君。

昨日のご依頼について

話がまとまったので、

明日ご自宅に伺おうと

思うのですが……。

どうでしょうか?

【20:00】



え、僕の家ですか?

【既読 21:00】



はい。午前中にでも

伺えればと思うので

すが、ご在宅ですか?

【21:02】



はい。家にいます。

なら10時頃でいいですか?

【既読 21:10】



よかったです。

それなら明日、日曜日

の午前10時に伺います。

よろしくお願い致します。

【21:12】



わかりました。

気をつけて来てください。

お待ちしています。

【既読 21:15】



【メッセージを送信】

―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――




 今日の午前十時。およそ二時間後には搾精の人――朔瀬さくせが来る計算だ。

 頼んだことは簡単な性格診断や身分証明のできるサイトの作成、管理みたいなものだったが……自分で考えていて、結構難易度高いか?と思ってしまった。


 性格診断はともかく、身分証なんてものは個人情報の塊だ。インターネットでそれを扱うとなると、セキュリティでしっかり固めないとよくないことになる。主に法律的に僕が裁かれる。


「……」


 微妙に冷や汗をかきながら、優理は首を振る。

 曲がりなりにも相手は国家機関なのだ。そういう細かい部分はしっかりやってくれるだろう。お金は……。


 ささっと携帯で調べてみて、最低三十万以上と見た。条件的に優理の場合は簡易なものでよさそうなので、セキュリティ以外はお安くできるだろう。個人情報のことを考えても五十万あれば大丈夫、と思いたい。

 大学生にはきつい金額だが、優理は特別だ。


 配信で稼ぎ、ボイスで稼ぎ、なりきりチャットで稼ぎ。

 前世の年収は既に超えている。これが性を切り売りする生き方かと、少々アンニュイになる。まあ楽しいしいいかとすぐ開き直った。


 ひとまずはもう、朔瀬に任せてしまったものは仕方ないし、詳しい話は会ってから考えよう。




 九月二十四日、日曜日、午前九時五十五分。


 ピンポーン、とチャイムの音が聞こえた。モニターにはエントランスホールで姿勢正しく灰色の鞄を前に提げ、直立で待つ女性の姿が映っていた。

 インターホンのマイクをオンにし、入ってくださいと伝えてから自動ドアを開ける。開閉ボタンが個々の部屋に設置されているのはセキュリティのちゃんとしたマンションならあるあるだろう。ちなみに前世の優理の住居にそんなものはなかった。


 待つこと一、二分。

 再びインターホンが鳴るので、返事はせずぱたぱたと部屋を小走りに玄関ドアを開けた。ゆっくり、ぶつかったら危ないのでゆっくりだ。


「優理君、おはようございます」


 透き通った綺麗な声で挨拶してきたのは女性だった。まごうことなき、男である優理に話しかけてきている女の人。


 顔を見ると、深い知性を湛えたコーヒーブラウンの瞳が見つめ返してくる。薄っすらエメラルド色に輝いて見える、吸い込まれそうなほど綺麗な瞳だ。

 頭の横で結ばれた濡れ羽色の髪が滑らかに流れ、さらさらと肩に落ちている。緩くウェーブのかかった髪から覗く形の良い耳がちょこんと愛らしさをアピールしている。


 挨拶と共に浮かべた微笑は健康的に赤い唇が目立ち、艶やかなリップの色が目に悪い。もちろんエッチな意味で。ドキドキと胸が高鳴る。


 背は優理より少し高く、それでもほとんど同じ程度。

 すらりとした体形は紺色のビジネススーツで引き立てられ、肉体美のシルエットがはっきりと写し出されていた。特に肩から腰にかけてのラインが美しく、いつ見ても"デキル女"がよく似合う人だった。


 パンツスーツに包まれた脚は細くしなやかで、全体的にほっそりしているのに胸の膨らみがちゃんとあるのは女性ならではだろう。優理の女装姿とは全然違う。


「お、おはようございます。朔瀬さん……えっと、入ってください」


 美人過ぎる相手から目を逸らし、わざわざ来てくれた人を招き入れる。


 朔瀬と優理の付き合いは高校を卒業して以来なので、時間にしてもう一年以上になる。その以前から名前だけは知っていたが、直接面識を得たのは一人暮らしを始めてからだ。


 一年経っても、この人との話はかなり照れくさいものがあった。

 特に優理として真っ当に女性と接していない期間が長ければ長いほど、女性としての魅力が強烈に心を揺さぶってくる。

 とはいえ、いつまでも緊張していたって仕方ないので、冷蔵庫の前で軽く深呼吸しながらお茶を取り出す。


「粗茶ですが」

「ありがとうございます。いただきます」


 玄関からリビングまでの距離などあってないようなものだが、そもそもこの家に人を入れること自体がレアなので割と緊張している。


 配信用の諸々が置かれた壁際の机より離れ、ちょうど部屋の真ん中辺りに設置した食事用のテーブルへ。

 一人暮らしだからテーブルも小さく、フードコートに置かれた二人分に足りない程度の大きさしかない。そして座椅子形式なので椅子はない。朔瀬には絨毯の上にクッションを置いて座ってもらっている。


 正座も絵になる人だ。

 無音でお茶を飲み、優理と目が合うと穏やかに微笑んできた。ドキリと心臓が跳ねる童貞である。


「優理君、美味しいです。ありがとうございます」

「いえ……ただの市販のお茶ですから」


 頬を掻き、軽く首を振って対面に腰掛ける。

 正座なんて慣れていないので胡坐だ。


「朔瀬さん、お久しぶりです。……ちょうど一か月振り、でしょうか」

「はい。八月の二十六日にお会いして以来ですね。優理君は体調崩さず過ごせていましたか?」

「僕は全然。元気も元気ですよ。風邪とかも引かなくてよかったです。病院に行くのもちょっと手間ですから」

「そうですね。医療機関であっても目を惹くのは間違いないでしょう。体調の悪い時はいつでもご連絡ください。優理君の生活のサポートも私の仕事ですから」

「あはは、はい。ありがとうございます、朔瀬さん」


 表情に心配の色を混ぜる女に、優理はからりと笑った。緊張が解けていくのを感じる。

 確かに外見は最高に美人だろう。それこそ優理の思い描く理想の綺麗系お姉さんそのままだ。だが、だからといってこの人相手に緊張する必要などなかった。


 これまでずっと誠実に真っ直ぐに、学生の優理を一人の人間として見て接してくれていたのだ。男女だとか性欲だとか、欲望のアレコレ無しに素の優理と――傘宮優理という男と当たり前の信頼関係を築いてくれた。

 それだけで十二分に信頼に値する。


 心の奥底で欲情していたとしても、それを表に出さず話していれば、それはもう欲などないのと同じだ。まあ優理としては、既に一定以上親しくなって信頼しているので、ここからエッチ度の高い関係になってもいい。むしろお願いしたいくらいなわけだが。


 ある程度信頼関係を作ってからでないと及び腰になる不安塗れの面倒くさい男である。


「あーでも、本当、朔瀬さんが僕の収精官でよかったです」


 ぽろりとこぼれた言葉は本音だった。収精官(精子回収の担当者)なんてものは本来もっと他人行儀であり、男性の多くは自分から国の専門機関に行って提出している。収精官など要らない、面倒くさい、鬱陶しい、帰れ、そんな言葉が投げ付けられることもしばしばあり、職務の一環であっても拒否する者が多かった。


 優理の場合、女性不信の払拭とあわよくば懇ろの関係になれやしないかとの邪心があり、自分から収精官に精子の回収を願い出ていた。結果、今に至る。


 エロティックな関係にはならなかったが、自分でもまともに女性と仲良くなれるんだ……!と少しの自信を得られた一年であった。こうして改めて考えると、なかなかに感慨深い。


「――――」


 気恥ずかしくて目を逸らしていたが、反応のなさが気になりちらと前を見る。


「朔瀬さん?」

「はい」


 今一瞬、何かすごいものが見えたような気がした。具体的にはものすっごくだらしない笑顔というか、にへらぁみたいな恍惚とした笑みというか……いや、さすがに気のせいか。


 真顔で返答する朔瀬からは一切おかしな雰囲気は感じられなかった。しいて言えば頬が上気して薄っすら赤くなっている程度。色っぽい。


「いや、なんでもないです。朔瀬さんが収精官でよかったなと思いまして」

「――それは、はい。よかったです。優理君以外に収精官を肯定的に見てくださる方はいらっしゃらないので、そう言っていただけるととても嬉しいです」

「え……そうだったんですか?」


 ほんのり苦笑気味に、朔瀬が言う。


「はい。男性である優理君に言うことでもありませんが、優理君はとても珍しい……そうですね、特別です」

「そ、そうですか」


 唇の前で人差し指を立て、特別ですと。

 大人っぽいお姉さん感強い人がやる、茶目っ気たっぷりの仕草は破壊力抜群だった。童貞には効く。


 顔が熱くなるのを感じ、とりあえずこのままではまずいと無理やりに話題を逸らした。そろそろ本題に入ろう。これが目的だったのだ。


「え、っと、さ、朔瀬さん。一昨日話したことですけれど……」

「はい。少々お待ちくださいね」


 言って、鞄を開く。正面から見ていると頬にかかった髪と垣間見えるうなじの白さがやたらと色っぽかった。えっち過ぎるでしょ……。


「こちらですね。紙媒体では持ってきませんでしたが、大丈夫でしたか?」

「え、はい、はい。全然大丈夫です。全然全然」


 こっちの心臓は大丈夫じゃありませんがね。と軽口を叩けるはずもなく、こくこく頷いて机に置かれたタブレット端末を見る。


 時代だなぁ、なんて少々年寄り臭いことも考える。

 あまり前世と変わらない技術レベルではあるが、数少ない男性のための技術は結構進化している。例えば五感誤認のアクセサリーだったり、精子保存のための超小型瞬間冷凍庫だったり。


 タブレットは前世と同じようなものだが、ちょうどタブレット端末が日常に溶け込み普及してきた辺りで優理(前世)は死んだのだ。今は時代の最先端を生きている。それがなんだか不思議な気持ちだった。


「優理君、こちらからだと説明しにくいので、私もそちら側に回ってよろしいでしょうか?」

「え?ええ、はい。構いませんけど……?」


 ちょっと気を逸らしていたら、急にそんなことを言われて驚く。普通に肯定した後、どういうことだと疑問に思った。

 ただまあ、そんな疑問を抱いている暇もなかったわけだが。


「失礼致します」

「――……ぇ」


 掠れた声が優理の口から漏れた。

 真横に、それもこうなんというか、膝が当たるような距離に朔瀬が座ったのだ。


 タブレットを開き、同じ向きから二人で見ようとの話だろう。わかる。言いたいことはわかるが、ちょっと状況がよくわからなかった。


 横を見て、急な距離感に脳がバグる。

 うわ、肌綺麗すぎ。髪の毛つやっつや。石鹼よりフルーティーな良い匂いがする。顔ちか、睫毛なっが、美人すぎ、やば。


「優理君?」

「――はい!なんでしょう!はいっ」


 名前を呼ばれて意識を取り戻した。同時に、近い距離で下の名前を呼ばれることに嬉しくなった。


 今ならユツィラリスナーの気持ちがよくわかった。ごめんみんな、今まで名前呼び面倒くさがって。こんな気分だったんだね。次の限定配信で読むから許して。


「ふふ、いいえ。なんでもありませんよ。説明を始めましょうか」


 くすりと笑って、ほっそりとした指でタブレットを動かしていく。

 笑顔に見惚れたのは当然として、これはワンチャンスあるのでは?と煩悩ばかりが頭に受かんでくる。即座に仕事仕事仕事、と自分に言い聞かせた。


 所詮仕事。そう仕事だ。仕事で来て、仕事で年下のお子様と話しているだけ。貴重な男だから、大事な仕事だからなのだろう。そう思うと冷静になってきた。というかちょっと悲しい。


 悲しみは振り払い、いつもより速い鼓動で朔瀬の話を聞いていく。


 朔瀬曰く、優理の求める「ユツィラのリスナーから恋人候補探して最終的にイチャラブできる相手見つけちゃおう大作戦!」自体はそう難しくないらしい。


 当然タイトル名はこんな恥ずかしいものじゃないが、最終的に優理が望むのは女性とのイチャラブなので間違ってもいない。


 ユツィラへの好意を示す性格診断・アンケートは既存のものから内容を差し替えるだけなので、お金もそうかからない。過去のコメント歴を拾うのも簡単だ。何せ優理は「Yutchura_live」のオーナーなわけだし。


 問題はやはり身分証明、個人情報保護についてだった。


 セキュリティの強化ならそこまでお金がかかるものでもない。過程や方法はどうあれ、男が積極的に子作り(最終的には)をしようとするのを邪魔するほど国に余裕はなかった。緩やかとはいえ少子化が進んでいるのだ。国からすれば一人でも多く結婚出産してもらいたいところである。


 個人情報の取り扱いは難しく、単純に提出されました、確認しました、じゃあ破棄しますね終わり、とはいかない。

 万が一にも流出があればおしまいだ。リスナーから同意をもらい、身分証の確認をする人間は制限し、保管場所は厳重にする必要がある。


「――ですが、曲がりなりにも優理君は婚活中の男性です。結婚、延いては子作りのための活動とするならば"男性妊活補助制度"が利用できます」

「あ、そういう感じになるんですね……」


 ちょっとびっくりしてしまった。

 いやまあ、確かに本当の最終目標を考えればそこに行き着くわけだが……恋愛のれの字も知らない童貞に婚活だ妊活だ言われても困る。

 というか、あるのだろうなと思っていたがやはりあるのか。男のための子作り制度……。男性不足の深刻さを再度知った気分だった。


「はい。優理君はまだ二十歳ですから、あまり想像がつかないかもしれませんね。ですが、この制度を使えば全面的に国の支援を受けられます。お試しプランもあるので、是非ご一考ください」


 お試しってなんだよ。一般成人男性の素直な気持ちである。

 とりあえず続けて色々話を聞き、結局お試しプランで国の支援を受けることにした。


 配信者、なりきりチャット、ボイス投稿、女装大学生に加えて婚活者の称号まで手に入れてしまった。

 いったい優理はどこに向かっているのか……。僕が一番知りたいんだよね、どこ向かってるのか。とは美人な収精官にまんまと乗せられた童貞の呟きである。


 無論のこと、朔瀬に一切悪意などなく、完全な善意であることは言うまでもない。




――Tips――


「収精官」

性欲逆転世界において男性の精子を回収する役目を負った公務員の職務に付けられた名称。

収精官は公務員の公務の一つを指すので、収精官という職業があるわけではない。

性欲の薄い男性には鬱陶しいと言われ、実態を知らない一般女性には嫉妬される悲しい仕事。眉唾物だが、収精官と提供者が恋仲になることがあるとかないとか……。

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