忌明
小狸
短編
「そんな意味のないことをするのはやめなさい」
そんなことを言う、祖母であった。
父方の祖母であった。
であった。
過去形である。
祖母は、五年前に老衰で亡くなっている。
私の家は、祖母と、母と、父と、弟と、私の五人暮らしであった。
苦手でもないが、得意でもなかった。
嫌いでもないが、好きでもなかった。
適度で適当な距離感でもって、私に接していた。
元気だった頃には、そんなことを良く言われた。
――意味のないこと。
それは祖母の中では大抵において、小説を書くことを意味していた。
私は小説を書くことと読むことが好きだった。
小説を読むことは、推奨されていた。元々母が幼稚園の先生だったこともあり、絵本から入り、それからずっと読み続けていた。
しかし小説を書くこと――となると、話は別であった。
私が机に
基本的に、孫には優しいのである。
ただ、しばらく見て、私が小説を書いていると知ると、少しだけ抵抗のある表情をする。
そして、こう言うのだ。
「そんな意味のないことをするのはやめなさい」
私は、そんな祖母のことは、別に嫌いではなかった。
長いスパンで見れば、成程小説を書くなどという非生産的行為に、意味はないのだろう。
勉強をした方が、今もこれからもこの先も、きっと役に立つ。
親たちはそう思い、私達子どもに色々と言ってくる。
それは自身との対比でもあり、投影でもあるのだろう。
できるだけ子どもには幸せになって欲しいと願うのが、一般的な家庭像である。私の家も、その例外ではなかった。
まあ、決してそれが普遍であるとは思わないけれど。
ならば意味のあることは何か。
それは勉強だとか、読書だとか、運動だとか、そういう比較的積み重ねの結果が分かりやすい、努力が報われやすいことなのだろうと思う。
あるいは、学校で表彰されるようなもの、美術系・書道系くらいだろう。読書感想文があっても、小説を書く機会というのは、存在しないことの方が多い。
そこそこの高校、大学に入学できたのも、その積み重ねのお蔭である。
意味のあることと、意味のないこと。
たとえ、身の回りの人から理解されないとしても。
誰かにいつか、きっと届く。
なーんて。
そんな考えが希望的観測で、虚構で、幻想であるということも、私は知った。
現実は厳しい。
普遍であることを強要され、一般の
そんな世の中で、そんな社会である。
それでも。
現に私が小説家になることができたのは、あの頃必死に、夢中に小説を書いていたからである。毎度10万字以上の小説を上梓することができているのは、間違いなく、あの頃ずっと書いていたから、書き慣れていたからということに他ならない。
祖母にとっては、意味のないことだとしても。
私にとっては、意味があったのだ。
私がそう思いたいだけかもしれないし、そんな過去の自分を肯定したいだけかもしれないけれど、時々、考えるしまうのだ
もし、小説家になった私を、祖母が見たら。
喜んでくれるだろうか。
意味のないことを積み重ね続けた私には。
果たして。
意味はあるのだろうか。
――なんて、ね。
そんなものを想像したところで、どうしようもない。
思考も、思索も。
考慮も、考察も。
意図も、意味も。
生きている人間のためのものだ。
今だって、私が祖母の思考を想像しただけに過ぎない。
私は私で、良いのだ。
そう思いたい。
今日は祖母の、十三回忌である。
私は目を閉じた。
(「忌明」――了)
忌明 小狸 @segen_gen
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