第15話
一段一段、常にはあり得ない慎重さで下りきり、地上に着いたところで二人揃ってほっとした息をついてしまった。
あまりに揃ったタイミングに顔を見合わせ、理人と弘瀬は小さく笑った。――笑えた。
(とりあえずは、大丈夫そうだな)
やっと感覚が平常に戻って来た。そんな気がする。
道行く人の邪魔にならないよう、端の方に移動をして比奈を待つ。その間に、気になったことを質問してみた。
「階段から落ちたのは、偶然ですか?」
「……」
理人の問いに弘瀬は顔を青ざめさせ、きゅっと自らの服の裾を握る。
「……確信はないのですが。押されたように、思いました」
偶然ぶつかったか、それともその体で誤魔化して故意に突き落としたか。判断が難しい程度の接触だった、ということだ。
「相手は見ましたか?」
「いえ。画面に集中していて、つい」
弘瀬の、周囲への注意が疎かになっていたことも、都合がよかったことだろう。
(俺も弘瀬さんしか見てなかったからな……)
手を挙げた人間が間違いなくその場にいたはずなのに、手掛かりさえ得ていない。己の不甲斐なさに苛立った。
(まあ、今回は特殊ケースだとしても)
「あんな階段の際でスマホに意識を向けるのは、危険だと思いますよ」
「はい。すみません」
自分の行動が愚かであった自覚はあるらしく、弘瀬は恥じ入った様子で謝罪した。
「貴方に会って、また少し迷ってしまって」
「……私に?」
「実は、少し前から付けられているような気がしていて」
「!」
声を小さくしてそう告げた弘瀬は、理人を見上げてその反応を窺った。
「笑わないでくれますか?」
「とても笑えませんね」
ましてたった今、害された相手を前にして。
「所詮気がするというだけですし、実害があったわけでもなくて……。こういう話って、警察に持ち込んでもどうにもできないってよく聞きますし」
「おそらく、そうですね」
害意を向けられていることを明確に証明できればまだ聞いてもらえるかもしれないが、『ような気がする』ではまず取り合ってもらえまい。
「まして、その。谷坂君がわたしに好意を持っていて、それで殺されそうになった直後ですから。わたしみたいな平凡な人間が、そんな頻繁に狙われている気がするとか、言い難いですし……」
失笑されるかもしれない、と恐れたようだ。
弘瀬が直近の感覚を話した後、理人の反応を気にしたのはそのためだろう。
「そんなことを考える方が、無神経なだけです。たとえ考えたそのままを言われたとしても、弘瀬さんが気にすることはありません」
「そう、でしょうか」
「貴女は日常に怯えても仕方ないだけの経験をさせられてしまったんです。本当にただの気のせいでも、貴女が物音一つ、すれ違うひと一人に怖れを感じるのは自然なことだと思います」
きっぱりと言い切った理人に、弘瀬はようやく、ほっとした顔を見せた。
「ありがとうございます。やっと決心がつきました」
「警察へ行きますか?」
「いえ。わたしが勇気を出そうが出すまいが、起こっている事態は変わらないので……。警察の答えも変わらないと思うんです。狙われてたりする証拠も、心当たりもないですし」
真剣に取り合ってくれる人もいるかもしれないが、それでも対応は難しいだろう。何しろ、事件ではないのだから。
「では?」
「……貴方は、フラワーガーデンで警備をしていた、警備会社の方ですよね?」
「ええ、そうです」
羽々祢フラワーガーデンの下見中に弘瀬と顔を合わせたとき、理人は私服だった。
しかし表向き用の制服を着た比奈と一緒に行動をしていたので、弘瀬の中で一括りになっていてもおかしくはない。
そして部署は違うが、理人もナイツオブラウンドの社員――もとい、団員であるのに違いはない。
「個人でも、警護をお願いできるでしょうか」
「っと、それは……」
(まずい。事業内容、まだ把握してない……)
どうやら弘瀬がスマートフォンを見ていたのは、ナイツオブラウンドを調べるためか。
自分の立場を含めて弘瀬に説明をしようとしたところで、一台の車が二人の前に留まった。
「お待たせしました!」
ウィンドウを下げて声をかけてきた比奈を見て、理人は自然と微笑を浮かべる。
どうやら、弘瀬の疑問に答えるのに相応しい人材も来たようだ。
幸いにして、理人も弘瀬も外傷以上の深刻な怪我はしていなかった。
検査と、念のために一晩経過観察を含めた入院をして、しかし何事もなく朝を迎えた退院のとき。
受付で清算をしている弘瀬と、ばったり出会った。
「あ。お、お早うございます」
「お早うございます。その様子だと、弘瀬さんにも大変な怪我はなかったのですね?」
「はい、わたしは全然……。すみません、庇っていただいたせいで」
理人自身は多少の擦過傷と打撲を負ったが、治る怪我なので問題ない。部位が散らばっているせいで大怪我にも見えるが、中身は見た目程ではないのだ。
「なら、よかった。庇った甲斐がありましたね」
「本当に、ありがとうございました」
満足気な微笑を浮かべて言った理人に、弘瀬は仄かに頬を染め、深々と腰を折って礼を言う。
「少しお話させていただいても大丈夫ですか?」
「勿論です」
受付の前で長々と立ち話はあらゆる人に迷惑となるので、待合室の椅子を拝借することにした。互いに清算を済ませて移動する。
「そう言えば、自己紹介がまだでしたね。香久山理人といいます」
「弘瀬歌織です」
フラワーガーデンの一件に立ち会ったおかげで、弘瀬は理人が自分の名前を知っていることを不思議がらなかった。とはいえ、比奈の下調べによって下の名前も知っていた事実は、特に言わなくてもいいだろう。
「昨晩、比奈さ――木嶋さんと、契約の話をされていたようですが」
「はい、やはり護衛をお願いしようと思いまして」
「それがいいと思います」
弘瀬は突き落とされたかどうかの自信はないと言っていたが、前々から不穏な気配を感じていたのなら、おそらくそれは気のせいなどではない。
悪意が彼女の側にあるのだ。
「心当たりは、ないんですよね?」
「はい、まったく……」
今の世の中、大した関わりもなく、当人が意識していないところで目を付けられることも皆無ではない。弘瀬がその類の人間に目を付けられた可能性も否定はできない。
だがそれよりも、優先して考えるべき事象がある。
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