第9話
「何か、あったのでしょうか」
「大した用でなければいいんですが。今このエリアを担当しているのは……」
「比奈様です」
「……そうでしたね」
自分の記憶と見事に合致した答えに、理人はあまり嬉しくない気分でうなずく。
呼び出されたということは、想定外のトラブルが起こったと見るべきだ。比奈は仕事を紹介してくれた恩人だし、好感を持っている知人でもある。当然、心配ぐらいはする。
そして気になることがもう一つ。
(比奈さんが呼び出されているということは、このエリアには担当者がいないってことで……)
別区画の者が足を延ばすだろうが、空白時間が増えるのに間違いはない。
とはいえ、空白ができたところで然程の問題はないはずだった。一分一秒の隙も見せられないような、命を狙われている要人の警護というわけではないのだから。
(変に気になるのは、俺が現場初仕事だからかな)
些細なことが引っかかる。それが過敏になっているせいではない、とは言い切れまい。
(まあ、俺がここで気を揉んでも仕方ないんだが)
理人は警備部の所属ではないのだ。今日のイベントが終わり、落ち合った比奈から『大したことじゃありませんでした』と言ってもらえるのを願うしかない。
息をつき、気持ちを切り替えようとしたところで。
「きゃーっ!」
「きゃあああッ!!」
ほぼ同時に、別方向の二か所から悲鳴が上がる。
偶然だろうか。それぞれ、相原のスペースと弘瀬のスペースの方角からのように理人には聞こえた。
瞬間、柔らかく優しかった櫻の周囲の空気が、刃物のように鋭く研ぎ澄まされる。
「香久山様。わたくし、弘瀬様の元へ向かいます。申し訳ありませんが、香久山様は相原様の様子を見に行っていただけませんか? 遠くから、状況を確認するだけでよいのです」
「わ、分かりました」
遠目から事態の推移を見続けるだけなら、自分にもできるだろう。そう判断して理人はうなずく。
「重ね重ね、感謝いたします」
業務外の役目を了承した理人へと礼を告げ、櫻は駆け出す。
不在のカードをカウンターに立て、理人もすぐに動き始めた。幸いと言うべきかどうかは微妙だが、下見のときに一騒動あったおかげで、相原の展示スペースの位置はよく覚えている。
(さっきの悲鳴、多分、弘瀬さん本人のものだった)
櫻が自分でそちらに向かい、理人を相原の方へと行かせたのはそのためだろう。
弘瀬の方は、現在進行形で何かが起こっている。
しかし、相原の方は――
理人と同じく悲鳴を聞きつけたのだろう人々が、すでに展示スペースに集まって、人だかりができていた。
これが作品を見に立ち止まった人々の列ならば、相原も嬉しかったに違いない。
「すみません、警備会社の者です。通してください」
シャツにベストにリボンタイ、という格好の理人に胡乱げな視線を向けてくる者はいたが、制止まではしてこない。そのうちにと、人混みを掻き分けどんどん奥へと進む。
「う……っ」
そして目の前に現れた光景に、絶句する。
自らの作った庭の中で、相原は仰向けになって倒れていた。表情は驚愕のままで固まっている。
外傷は左胸の一ヶ所のみ。少なくとも、他の部分からの出血は認められない。
今はもう大人しくなっているが、大量の出血。もし生きていればとても黙って転がってなどいられない。そして周囲の地面にはもがいた痕もなく、彼女自身を染めている量に比べ、落ちている血の量は妙に少ない。
相原桂華は、すでにこと切れていた。
(ええと。こういうとき、どうするべきなんだ? 警察に連絡して、それから)
「すみません、通ります!」
理人が軽く混乱状態に陥っていると、人垣の中から比奈が姿を見せた。
「比奈さん」
話し合える相手が現れたのにほっとしたのは、仕方のないことだろう。
「ここは立ち入り禁止です。間もなく警察が到着しますので、道を開けてくださーい」
叫びながら、比奈は規制のために立ち入り禁止を示すテープを張っていく。
知人が近くに来たおかげだろうか。理人の脳も、ようやく形となる思考を再開する。
「確か、制作中に使われていた目隠し用の衝立がありますよね。並べておきますか?」
「そうしましょう。この辺まではもう踏み荒らされてしまっていますし、現場保存とか今更です。今は故人の尊厳を守りましょう」
「はい」
理人にも比奈にも、相原への好意はない。むしろどちらかといえば悪印象しか残っていない。
だが、それとこれとは話が違う。このような形で見世物にされるいわれは誰にもない。
比奈がテープを張った内側に衝立を並べ、途中から比奈も加わるとすぐに簡易の目隠しは完成した。
そうやって現場が覆い隠されれば、現金なもので人混みがパラパラと散っていく気配がする。粘られるよりも断然いいが、うそ寒い気持ちになるのも誤魔化せない。
「……大変なことになっちゃいましたね」
人目がなくなったことで、比奈も少し落ち着いたようだ。力が入って強張っていた肩が、いつもの高さにまで落ちる。
「本当に。……もしかして、よくあることですか?」
「無いです!」
力を込めて否定をしてきた比奈に、理人は心から安堵した。もし肯定されていたら、再度の離職を考えていたことだろう。
「堂々としていて手馴れている様子だったので、つい」
「全然です。一応マニュアルにはあって、訓練はしますけど。ほら、手が震えてテープもガタガタですよ」
「……なるほど」
壁から壁へと張られた規制のためのテープは、始まりと終わりの高さが大分違う。そういうものかと思っていたが、違ったらしい。
「理人さんこそ、ずいぶん冷静に見えますよ? それと、どうしてここにいるんですか?」
「頭が真っ白になっているだけですね。ここにいるのは、店にいるときにこちらからと弘瀬さんの方からと、二方向からの悲鳴がほぼ同時に聞こえたからです。櫻さんは弘瀬さんの方へ行きました」
「えっ。ひ、弘瀬さんの方も何かあったと!?」
こんな大事件、一つでも大事だ。だというのにまだもう一件起こっているかもしれない――と聞かされて、比奈は顔を青ざめさせる。
「大したことでなければいいんですが。大したことのない状況で上がる悲鳴じゃありませんでしたからね」
この短時間で、関係のある人間が二人事件に巻き込まれている。
「こちらの一件と、繋がりがないとも思えません」
「うーん……。でも、どんな繋がりならこうなるんでしょう」
相原だけなら、分かる。彼女はあまり人好きするタイプの性格はしていないようだった。どこで反感を抱かれたとしてもおかしくない、と短時間の接触で理人に思わせてしまうぐらいには。
だが、弘瀬が絡むと不可解になる。
もし相原殺害と弘瀬が害されたのが同じ者の犯行であるのなら、それによって利を得る者がいるか、もしくは二人に対しそこまでの怨み、憎しみを持つ者がいるということだ。
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