ナイツオブラウンド株式会社
長月遥
報復のマリオネットは妄執の糸で踊る
第1話
「明日から来なくていいから」
顔をしかめ、心の底からの嫌悪を露わにしてそう告げた店主に、青年も負けず劣らずの態度で掛けていたエプロンを引っ掴み、脱ぎ捨てた。
「――お世話になりました!」
(あんたにじゃなくて、先代にだけどな!)
心の中で付け足してから、踵を返してバックヤードに戻る。そして着替えて店を出た。その間、一度たりとも振り返らずに。
感情そのままに渋面を作っているその青年は、二十の半ばに届くかどうかといったぐらいだろう。
黒髪黒目で、日本人としての平均よりも若干、身長は高い。顔立ちはそこそこ整っているが、特別目を引くほどの美貌というわけではなかった。
青年自身、容姿に特別な拘りはなく、食品を扱う店で働くのに相応しい清潔感に気を遣った程度だ。
これからは、店のイメージを損なわないようにと、興味ないながらも努力する面倒を掛けなくていい。
清々したと思うのと同時に、やはり寂しい気持ちもあった。
(マスターが今の店の在り様を見たら、何て言うだろう)
長年かけて培ってきた客の信頼を裏切る馬鹿息子と、店主を怒っただろうか。それとも任せたのだから自由にすればいいと言うだろうか。
青年には、分からなかった。もう聞くこともできない。自分を魅了したコーヒーを入れてくれたマスターは、去年、他界してしまったから。
はあ、と重たい息をつく。
「これからどうする……」
多少の蓄えはあるが、多少でしかない。すぐにも再就職へ向けて動き出すべきだが、気力がそれを許してくれそうになかった。
(とりあえず、今日は休もう)
悔しいのか悲しいのか、虚しいのか憤っているのか、とにかく心の中がぐちゃぐちゃだ。
はっきりしているのは負の感情に塗れている状態、ということで、次に何をするにしても、まずは冷静になるべきだった。
そんなことを考えつつ俯きがちに歩いていると、ふと人の影が前方に見えた。避けるために、進路を微妙にずらしながら進んでいくと。
「随分、気落ちされている様子ですね?」
「あ」
それは、知っている相手だった。
働いていた喫茶店で常連だった女性だ。明るめの茶色の髪に、澄んだ青い瞳。ただしその顔立ちは日本人に親和性が高く、ハーフというよりもクォーターぐらいだろう。
年齢は二十歳を少し超えたぐらい、と理人は見ていた。
「ええと、
「こんにちは、
名前で呼び合っているのは、仲が良いからではない。深入りしないために、お互い名字を名乗らなかった結果だ。
それでも固有名詞が必要だと感じるぐらいには、親しく言葉を交わした相手ではある。
理人は青年の本名だが、彼女が本当に比奈という名前かどうかは分からない。理人にとって、それは特に知る必要のない事だった。
「休みというか、その、実は……。辞めまして」
「ええ!?」
比奈が望んでいるのが自分の淹れたコーヒーであるのなら、伝えておくべきだろう――と、正直に打ち明ける。
辞めさせられたという事実をぼかしたのが、自身のプライドのためだったのか店のためだったのかは、理人にもよく分からない。
「い、いいんですか? あのお店の常連さんって、皆理人さんのお客さんですよ?」
「それは……。どうでしょう。先代の店が好きだから、という方が殆どだと思いますが」
「だから、先代さんの味と香りが楽しめるのは、理人さんのコーヒーだけなんでしょう。わたしは理人さんのコーヒーから入った人間なので分かりませんけれど」
「ありがとうございます」
先代の味を愛していた客が、比奈の言う通り自分の腕を認めて通い続けてくれていたのなら、勿論嬉しい。
そして同じぐらい、理人のコーヒーしか知らない比奈が常連になってくれたのも嬉しかった。それは間違いなく、理人自身が比奈を客として掴んだということだからだ。
「……ということは、理人さん、もしかして今はフリーですか?」
「ええ、まあ」
職を変えるだけ。珍しい事でもあるまいと、理人は肯定をする。と、比奈の瞳が輝いた。
「なら、ウチで働いてみませんか?」
「は?」
「実はわたし、こういう者ですが」
バッグを開け、比奈は名刺を一枚取り出すと、理人へと差し出す。
そこに書かれていた社名は『ナイツオブラウンド株式会社』。そして『警備部
(な……、ナイツオブラウンド株式会社……っ!)
有名すぎる騎士たちを示唆するその名前。ネタで作った冗談の名刺だろうと、理人は顔を上げて比奈を見る。
「ウチ、警備会社なんです」
――業種的には、それほど間違っていない名前なのかもしれない。
「福利厚生の一環で、今度社内にカフェを置くことになりました。そこで業者さんを探しているところだったのですが、もしよろしければ、理人さん、そこでマスターをやってみませんか?」
「いや。え、ええ!?」
話は、とてもありがたい。渡りに船とさえ言える。話が美味すぎて詐欺を疑うレベルだ。
しかし何よりも怪しいのは――社名。
(こんな会社、本当にあるのか……!?)
赤の他人から言われれば、冗談だとしか思わない。しかし店員と客という、薄いながらも比奈とは繋がりがあった。そこで言葉を交わした限り、彼女は悪い人間ではない、とも思っている。
「もし興味がありましたら、ご連絡ください。お待ちしております。――では、わたしはこれで」
腕時計で時間を確認して、比奈は去っていく。
その背を見送った理人は、悠に一分間、名刺を持ったまま呆然と道端に佇んでいた。
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