裏切り麋芳の告白

胡姫

裏切り麋芳の告白

「なあ、俺たちじゃ駄目なのかよ。」


劉備殿に仕えてから、何度となく兄に言った言葉だ。


麋家は東海一の名家である。俺たち麋兄弟は使用人が千人もいる豪邸で育った。兄の麋竺びじくはその当主。弓馬の名人で、弓を取らせれば誰にも引けを取らないが、穏やかな性格で前線に出たことはない。というかおよそ怒った顔を見たことがなく、かなりやんちゃで悪さばかりしていた俺もこの優しい兄には叱られた記憶がない。姉にはしょっちゅう怒られていたものだが。


「殿は俺たちより関羽や張飛ばかり。兄貴だってずっと殿を支えてきたのに。」


視線の先には関羽と張飛の姿がある。俺たちの主君である劉備殿の一番の家来、桃園の誓いとやらで結ばれた義兄弟なのだそうだ。いずれ劣らぬ偉丈夫で、鬼神と畏れられるほど武人としての誉れが高い。が、俺に言わせればただの人殺し、化け物である。大量に他人を殺せる奴なんてどこかおかしいに決まっている。


人をたくさん殺せば英雄なのかよ。


「そんなことを言うものではないよ、子方。」


俺が問うたびに、兄は静かな微笑を湛えてたしなめる。品のよい顔にかすかな諦念が漂っていることを俺は見逃さない。


「劉備殿はいつも感謝を忘れず、私たちを大事にして下さる。」


「殿はそうでも…あいつらは違うだろ。」


部下に囲まれて談笑する二人の横顔が、焚火に照らされてはっきりと見える。肉を焼く香ばしい匂いと、豪快な笑い声。やけに楽しそうで苛々する。


「あいつらが肉を振舞ってやれるのも、元はと言えば俺らの金があるからだ。なのにいつも当然みたいな顔をして感謝の言葉ひとつ聞いたことがない。どころか俺に無礼な口を利くことがあるんだぜ。特に関羽ときたら!」


俺は部下と笑う関羽の長い髭を見つめた。部下にはあのように良くしてやるが、関羽の本来の性格が傲慢であることを俺は知っていた。自分を敬わない者には虫けら同然の扱いをするのだ。


張飛も気に食わないが関羽はもっと嫌いだ。


俺は何度も関羽から無礼な言葉や仕打ちを受けてきた。東海一の名家の出身であるこの俺に。あの男は、殿と張飛以外の人間は人間と思っていないのではないか。思い出して俺は口をへの字に曲げた。


「殿も殿だ。あいつらを特別扱いするからつけあがるんだ。」


「関羽殿と張飛殿は特別なのだよ。桃園の誓いを交わした義兄弟なのだから。」


「義兄弟と言うなら俺たちだって。」


「子方。」


しっ、と兄は唇の指をあてた。


「それ以上言うな。」


「何だよ。間違ってないだろ。姉貴が殿に嫁いでいるんだから。」


姉は劉備殿の夫人である。麋夫人と呼ばれている。だから義兄弟と言うなら俺たちも劉備殿の義兄弟なのだ。実際に姻戚関係にあるのだから絆はもっと強い。


「私は今のままで十分だ。あの方にお仕えできるだけで。」


――よくない。


俺はへの字の口をさらに曲げた。


兄は劉備殿の絶大な信頼を得ている。姉は劉備殿の妻として幸せを手に入れている。でも俺は。


――俺にだけ、何もない。


昔から粗暴で落ち着きがないと言われ、勉学も不得手だった。姉に怒られ通しの子供時代は俺に根深い劣等感を植えつけた。そんな俺でも腕っぷしならそれなりの自信があった。何せ弓馬の達人と言われた兄の直伝である。だがその唯一の自信も、関羽と張飛の前では霞のように消し飛んでしまった。化け物め。


俺が関羽のような一騎当千のつわものだったら、関羽に成り代わることができるんだろうか。


初めて会った時、質素な身なりからは想像もつかない気品に驚いた。凛とした立ち居振る舞い、柔らかい言葉のうちに潜むゆるぎない強さ、しなやかさ、すべてが今まで見てきた者たちと違った。俺は血筋など信じない。血筋だけ良くても中身はクズという連中を嫌というほど見てきた。生まれながらの貴種などいない。だが。


――この人は違う。


たぶん俺は、劉備殿に、心ごと鷲掴みにされてしまったのだろう。


恐らくは、熱に浮かされたように劉備殿に全てを捧げる兄も、男勝りの性格が嘘のように嬉々として劉備殿に嫁いだ姉もまた。


それまで麋家の財力を恃みに欲しいものは何でも手に入る生活をしてきた俺は、劉備殿に会って初めて、手に入れられないものの存在を知った。


思えば劉備殿に会った後の俺はずっと、満たされない願いを抱えてきたのだ。




だからその関羽の部下として荊州に残されたのは、俺にとっては非常に不本意なことだった。


留守役では劉備殿の目に止まらない。俺だって活躍したい。東海の麋芳ここにありと雄姿を見せたい。留守役、それも関羽の部下では活躍の場などあるはずもない。


案の定関羽は前にも増して傲慢に振舞うようになった。劉備殿の目がなくなったから本性が出たのか、劉備殿がいない鬱憤が溜まっていったからなのか、恐らく両方なのだろう。部下はたまったものではない。


軍神なら何やってもいいのかよ。


小さな憤懣は徐々に俺を蝕み、俺自身も気づかないままひっそりと膨れ上がっていった。


そして217年、劉備殿が益州で漢中王になった直後のこと。関羽は俺を留守役に残して魏に攻め込んだ。


最初は順調だった。魏は遷都を考えるほどの大混乱に陥り、樊城に迫った関羽は天運にも助けられて于禁軍三万を捕虜にする大勝利を収めた。しかしこの捕虜が、関羽の首を絞めることになった。


捕虜で膨れ上がった兵員を養う兵糧を要求された時、俺は強い反発を覚えた。


何故、大事な食料を、捕虜にやらねばならぬのか。


俺たちがどれだけ苦労して集めた兵糧だと思っているのだ。


――捕虜なんか身ぐるみ剥いで敵に送り返してやればいいのだ。


それはほんの出来心に過ぎなかった。いつも俺たちに傲慢な態度を取る関羽への、ささやかな意趣返し。


俺はほんの少ししか兵糧を送らなかった。困った関羽は同盟国の呉の領内で略奪をした。当然ながら関羽の行為は孫権の怒りを買った。しかしその矛先は俺が留守を預かる城に向けられ、呂蒙りょもうの猛攻撃を受けた。


俺は慌てた。


「くそっ、何でこうなる!」


こんなに大ごとになるとは思わなかった。ちょっとした嫌がらせのつもりだったのだ。あいつが困る顔が見たくて。捕虜に食わせる飯が惜しくて。それがどうして。


――関羽のせいだ。


「畜生、畜生、畜生!」


もうじき城は落ちる。守備兵が足りないのはあいつが連れて行ってしまったからだ。全部あいつのせいだ。


このままでは荊州を失う。あまりの重大事に震えが止まらない。


あいつのせいで俺は。俺の輝かしいはずだった人生は。


ああ、劉備殿はきっと落胆する。荊州を頼むと言われたのに。この人の為に守り抜くと誓ったのに。


劉備殿はどれほど失望なさるだろう。


あの方の前に出るのが怖い。あの方の悲しそうな瞳に映るのが怖い。荊州を失って、こんな惨めな姿になって、どの面下げて会えるというのだ。


嫌だ。嫌だ。その綺麗な瞳で俺を見ないでくれ。


逃げなければ。


どこか遠くへ。あの人の瞳の届かぬところまで。


――呉へ。


その瞬間、ぷつりと音を立てて何かが切れた。


俺は降伏し、城を明け渡した。行き場を失った関羽は麦城で死んだ。




俺が呉に降ったことを知って麋竺兄は憤死したと聞いた。涙は出なかった。長い荊州生活の中で俺の心はすり減っていた。兄の死を聞いても、何も感じない。


どころか、俺の胸に広がったのは、予期せぬ暗い喜びだった。


兄を尊敬していた。敬愛していた。それは本当だ。だが同時に、人格者の兄のせいで、俺はずっと日陰者だった。劉備殿に信頼されるのはいつも兄。傍近く召されるのも兄。俺ではない。


気づかなければよかった。気づきたくなかった。


そして俺はあの頃の自分を全部捨てた。捨てなければ、生きていけなかった。




呉の文物に囲まれ、呉の人間として生きる俺が手元に残したのは、ひと房の黒髪のみである。


それは劉備殿の髪。


姉に無理を言って手に入れてもらったものだ。姉はひどく呆れていた。主君の髪を持ち歩くなんてどうかしていると言われた。あんた馬鹿じゃないの、気持ち悪い、とまで言われた。でも結局は俺のために殿の髪を手に入れてくれた。俺はその髪をずっと肌身離さず身につけていた。


その姉も長坂で死んだ。


艶やかな黒髪を掌に載せて撫でさすり、俺は語りかけた。


あなたは分かってくれますよね。あなただけは。俺の思いを。


あなたを裏切ったつもりはない。悪いのは関羽。俺は関羽に仕返しがしたかっただけなのです。


あなたがもっと俺を見てくれていたら。一緒に連れて行ってくれていたら。傍に置いてくれていたら。


昼夜を問わず独り言を呟く俺はさぞ奇異に映るだろうが、どうせこの屋敷を訪ねる者などいない。


共感者はいらない。俺は悪くない。


俺は一度も嘘をついたことがない。だからこれはすべて真実。劉備殿だけに捧げる告白だ。




本当に悪いのは、俺たちの運命を変えてしまった、劉備殿なのだろう。




           (了)

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