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カーテンを開けると、外は天気予報通りの土砂降りだった。お門違いは承知の上で、精度の高い天気予報を恨めしく思った。


「この雨の中を歩くのか……」


この天気を想定していたからこそ、昨日はなるたけ長距離を歩いたのだった。その甲斐あって、今日は金剛頂寺までの、わずか十三キロを歩けば済む。それなのに思わず深いため息をもらした。


食堂へ降りて行くと、おひつにご飯が明らかに昨日よりもたくさん入っていた。

「いくらでも食べてくださいね。おかわりもできますから」

おばちゃんが配膳しながらそう声を掛けてくれた。私の昨夜の食べっぷりを覚えてくれていたのだろう。優しい気づかいに触れて少し元気が出た。


身支度を整え、大雨の中を出発した。国道五十五号線を歩くと右手に若かりし頃の弘法大師をかたどった巨大な青年大師像が見えた。そして、そのすぐ先には青年時代の弘法大師が悟りを開いたとされる御厨人窟(みくろど)がある。私の専門分野は大きくとらえればミクロ経済学なので、「みくろど」という名称には何となく親近感を覚える。晴れていれば、いや、雨さえ降っていなければ歩行距離の短い今日はきっと立ち寄ったはずだが、実際には土砂降りの中で寄り道する気は全く起こらなかった。


十分ほど歩くと、国道を右手側にそれる遍路道の入り口が現れた。最御崎寺が構える室戸岬山頂への登り坂は久しぶりの自然道は雨でかなりぬかるんでおり滑りやすくなっていた。この雨の中ではさすがに転びたくないので、自然と慎重な足運びになる。それでも山道を登り始めるや、とたんに息苦しくなった。どうも登り坂は苦手だ。


遍路道の途中には奥行きが数メートルの穴が開いた大岩がある。弘法大師のもとを訪れた母親が急な嵐に見舞われた際、弘法大師は岩をねじって洞窟状の避難場所を作ったのだが、それがねじり岩と呼ばれるこの大岩である。岩壁が斜めにせり出しているが、ねじれているようには見えない。弘法大師の母君を襲った嵐は今日の大雨よりも激しかったと思うが、こんな洞穴で嵐をやり過ごすのはさぞかし心細かっただろう。私はねじり岩を横目に山頂を目指して歩き続けた。


遍路道を登り始めて四十分ほどで二十四番札所最御崎寺の山門にたどり着いた。境内は何もかもが白く霞んで見える。雨は益々強くなっていた。左手が傘で塞がっているため写真を撮りにくい。私が持参したガイドブックは最御崎寺の印象を「どこか南国情緒を感じさせる明るい雰囲気」と紹介していたが、今日の天候のもとではとてもじゃないがそんな風には思えない。強いて言えば、この土砂降りが南国特有のスコールを思い起させるくらいである。しかし、悪天候にもかかわらず参拝者は多かった。室戸岬が近い最御崎寺は観光名所の一つなのだ。


手早くお参りを済ませ、すぐに次の津照寺へ向かうつもりだったのだが、やっぱり脇道の先にある室戸岬灯台だけは見ておこうと思い直した。室戸岬へは足を運ばなかったので、せめて灯台ぐらいは、と思ったのだ。灯台へ通じる最短経路はあいにく通行止めで、最御崎寺へ来た道を五十メートル戻って迂回する必要があった。少し逡巡したが、今日は歩く距離が短いのだからと自分に言い聞かせ、来た道を戻ることに決めた。わずか五十メートルにもかかわらず決心が必要なほど、今日の天気はひどかった。


白亜の灯台は同系色の空に溶け込んでぼやけて見えた。灯台の敷地から一望できる景色は空と海の区別が付かなかった。まあよい、これでとにかく室戸岬灯台は見たのだ。あとで写真を見返すと、灯台と空の色のコントラストが肉眼で見た時よりもはっきりとしている。何でもカメラに収めておくものである。


山頂からふもとまでジグザグに蛇行するスカイラインを歩きながら下まで降り、その後は左手に土佐湾を見ながら北西に歩いていく。灰色の海は上下に大きくうねり、浜には白い波が荒々しく押し寄せている。これが昨日見た海と同じだとは信じられない。


次の津照寺へ向かう途中、津路港の脇に「紀貫之朝臣舟泊之處」という石碑が立っているのを見た。横の案内板によれば、紀貫之が任務を終えて帰京しようとしたものの天候が振るわず、十日間の足止めを余儀なくされたのがこの地だという。今日も悪天候で波が高く、紀貫之が見た海もきっと今日と同じように荒れた海だったのだろう。紀貫之が「女性の書いた日記」という体裁で『土佐日記』を書いたことは有名だ。しかし、内容については、私はよく知らない。高校生の時に古文の授業で多少は学んだが、「男もすなる日記というものを、女の私もしてみんとぞ思う」とかなんとか、出だし以外はすべて忘れてしまった。この足止めについても記されているのだろうか。


一時間半ほど歩いて二十五番札所津照寺に着いた。細い路地の先が津照寺の小さな赤い山門につながっている。山門をくぐり、まっすぐに進んだ先には、木枠が緑色に塗られた中門を挟んで長い階段が続く。本堂はその先である。雨のピークは過ぎていたが、雨水が石段を滝みたいに流れ落ちてくる。まるで川を遡上する鮭のように力を入れて石段を登り、本堂をお参りした。


先ほどの石段を下る途中、中門の脇に天井まで登れる階段があるのに気が付いた。いや、本当は往きにも気づいていたのだが、さっきは登ろうという気にならなかったのだ。しかし、今度はその気になった。階段を登ってみると上には梵鐘があった。この門は鐘楼門だったのだ。水色の手すりが赤い柱と相まって、そのポップな色使いの鐘楼を眺めているうちに段々と気分が明るくなってきた。戻り鐘は縁起が悪いのを承知で一回撞くと、門の中にゴーンと良い音が響いた。


さて、残すは金剛頂寺である。今日はそこの宿坊に予約を入れてある。最後に山道を登ることになっているが、あと四キロ歩けば今日はもうおしまい、そう思えば頑張れそうだ。


道中で平等津橋という橋を渡ったが、これで「ならしばし」と読む。平等とは均(なら)すことだと思えば、なるほどその通りだと感心した(ただし最後の「津」はよく分からない)。そんな事を考えながら歩いていたら、その直後に「奈良師海岸」という立て看板を見かけた。これは明らかに「ならしかいがん」だろう。同じ読みに二種類の漢字を充てるというのは奇妙な感じもするが面白い。


舗装されていた歩きやすい道がいつのまにか自然路に変わり、最後の六百メートルは緩やかに山を登る。毎回のことながらハアハアと呼吸を荒くしながら登っていくと、途中、左手にぽんかん畑が見えた。すごい、ここのぽんかん農家は毎回この道を登ってくるのか! そう感嘆した直後に山道が終わり車道に出た。何のことはない、農家はこちらから畑に降りてくるわけだ。その車道を挟んだ先にある厄除けの石段を登ると、二十六番札所金剛頂寺の山門である。雨は弱まっていたが風は強いままだ。ずぶ濡れで身体が冷え切っているせいで境内を歩き回る気分にならず、手早くお参りを済ませて墨書と朱印を頂いた。納経所で宿坊の場所を尋ね、境内の奥にある西寺檀信徒会館に入ってようやく気持ちが軽くなった。


靴箱の脇にはお遍路さんのために古新聞が積みあげられていた。水浸しの靴先に新聞紙を丸めて突っ込むと水気が少なくなる。これをするとしないとでは、靴の乾き方がまる違う。


歩き遍路にとって金剛頂寺の宿坊はありがたい存在だ。次の二十七番まではおよそ三十三キロ、約九時間の道のりなので、ここで一夜を過ごせば明日のうちに二十七番を打ち終えることができる。そのためだろう、道中で何度か言葉を交わした歩き遍路の顔がちらほらと見える。


部屋は十二畳の広さがあり、温泉旅館を思わせる和室だった。茶櫃に急須と茶葉、お茶請けが用意されていたが、宿坊に限らず、茶葉を置いている宿は珍しいのではないかと思う。たいていはティーパックである。こんなところに手間を惜しまない姿勢が見えて快かった。


私の泊まった南側の部屋だと、窓からは松に混じって所々に桜の樹が見える。桜が満開の季節ならばさぞ見応えがあろうと思うが、この寒さを考えればまだしばらくはお預けである。どのみち今日は大荒れの天気で、どの木も横風に大きく揺れて見るからに寒々しい。


金剛頂寺の宿坊にはお勤めがなく、少し物足りないと感じたが、この日は先代住職の体調が思わしくないのでという話だった。もっとも、以前にもこの宿坊に宿泊したことのある人によれば、その時にもお勤めはなかったそうで、実際のところ、本気の修行者ではない宿泊客を勤行に参加させるのは嫌なのかもしれない。


女将さんの心意気なのか、夕飯はずいぶんと豪勢だった。一応は精進料理なのだが、海の幸山の幸がふんだんに盛り込まれている。宿泊客は三つのテーブルに分かれ、食事と会話を存分に楽しんだが、お喋りに夢中で料理の写真を撮り忘れたのがうかつだった。言うまでもなく、共通の話題はお遍路である。宿の話、お寺の話、食べ物の話。こうしたお喋りの内容が歩き遍路には貴重な情報となるのだ。

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