間奏 Interlude II




 極彩色の泡が図書館全体を覆い尽くしてから、およそ一時間後。

 この不可解な事態に対応するべく、学校関係者は現場にやってきていた。

 図書館の全体を近い位置から一望できるのは本館にある東・展望台だ。

 そこからじっくりとそれを見つめている人物がいた。

 老(ふ)けた不健康そうな男性だった。年齢こそ四十七歳だが、痩せた彼の体躯は随分と細々としていて、表情は強張っていてまるで怒っているように見える人物だった。

 名前をニューボンド・カイロ。

 この学校で勤務している教師のひとりである。オリオンに言わせれば『自覚なく教師になった人物』である。担当教科は近代魔法である。

「カイロ先生……こちらにおられたのですね」

 彼の傍らに登ってきたのは青年だった。

 モレー・ハードキャッスルはビジネスマンのようなスーツ姿で、将来を期待される若き天才である。この学校で教鞭(きょうべん)を振るうからには、天才で間違いない。

 彼は、この学校では珍しい、自ら『教師』という職業に望んでなった人物である。

「モレーくん。きみはこれを何だと思う?」

 カイロは別に口数が少ないわけではないが、こんなふうに少ない言葉で問いかけた。

 下手に『わからないことをわからない』と言えない立場にいるニューボンドだが、年下の青年にそんな問いかけをした。

 図書館全体を覆い尽くしている泡は、三十メートルを越えるほどの大きさに膨(ふく)らんでいた。

 その内側では発生と破裂が未だに続いている。

 図書館全体を覆い尽くす大きさになってから、泡はそれ以上に大きくならない。表面に泡が発生するが、それはそれ以上に外に溢れてくることなく、ぱちんと弾けて消滅する。

 これを無限に繰り返している。

「カイロ先生にわからないことが僕にわかるわけがないじゃないですか」

 モレーは頭(かぶり)を振った。

 ニューボンドはくすりとも笑わないが、別に冗談が嫌いというわけではない。

 そのことはモレーも理解している。難しい顔をし過ぎて表情筋が固まってしまっているのだろうと内心では思っている。

「では、この中心から感じるものは何だと思う?」

「いえ、僕には到底想像もつきません」

「では、わかる範囲で聞きたい」

 難しいことを言うなあ……と思いつつ、モレーは考えながら話し始めた。

「そうですね……。現時点で判明していることは周囲の魔力に異変が起きているということです。魔力をエネルギー源にして、この泡が発生していると僕は考えますね。ただ、先ほど……現場付近で調査をしている魔法使いによれば、泡の中心部分には――『何も存在していない』と言っていました」

「何も存在していない?」

 怪訝な表情を浮かべるニューボンド。

 最初から難しい表情をしているので、その変化はいまいちわからない。

「『虚空』や『空白』という言い方をしていました。そこには『何か』が存在していて、こちらに溢れてきていることは間違いないのですが、その『点』となる部分にあるものを観測できないのです」

「…………」

 無言になるニューボンド。

「図書館内部から脱出してきたと思われる生徒ふたりのうち、片方は意識を失っていますが、命に別状はありません。もうひとりには聴取(ちょうしゅ)を行っています」

「…………」

「……幸いながら、閉じ込められている生徒はいません」

 沈黙に耐えかねてモレーはそう告げた。

『そんなことには興味がない』と言わんばかりにニューボンドは冷たく無言で受け止めた。

 ニューボンド・カイロが専門としている『近代魔法』の範囲内ではどうにもこれの現象に相応しい言語が言い現わせられない。

「フレデリック氏は出てきていないのか」

「はい。先ほど、教室のほうに訊ねましたが、『何も知ろうとするな』と言われました」

 その言葉に眉がぴくりと動くニューボンド。

 奇人変人の天才が勢揃いしているアラディア魔法学校内でも、フレデリック・ピッキンギルは飛び抜けて変わり者である。

 もうすぐ九十五歳だというのに好きなものは中高生向けの恋愛小説とプログレッシブロックと女性アイドルグループのアップテンポの激しい音楽である。

「あと『気づきそうになっても莫迦(ばか)のフリをしろ』とも言われました。爆音で音楽を聴いていました。聴いているこちらが恥ずかしくなってしまうような、あの音楽です」

「…………」

 まるで何かに察しがついていると言わんばかりだ。

 ということは……これはわかる現象だということなのか。

 これが?

「これはまるでしゃぼん玉みたいですわね」

 そんな声が少し上のほうから聞こえた。

 さっきからその人物が周辺を箒で飛んでいることには気づいていた。

 彼女は来賓(らいひん)でこの学校にやってきた人物で、名前はメアリー・フォースという。

 メアリー・フォースは占星術に精神分析学の分野を導入した人物である。

「わたくしの専門とは特に関係のない主観的な意見ですが、あの泡はまるでしゃぼん玉みたいですわね。調査している魔法使いの方々を見ていたのですが、彼らが触れる泡には弾力がありました。その触れた指はその膜(まく)の内側に入りました。抜き取るとすぐに泡は修復されました。これはしゃぼん玉の原理に極めて近い」

 表面に浮かんでいる極彩色の回折(かいせつ)縞(じま)がめまぐるしく変化している。

 ニューボンドもモレーも、彼女の言葉を『他愛もない雑談』だと思った。

 そうこうしているうちに、モレーの元に図書館内部から脱出してきた生徒の話が届いた。図書館の地下で起きていた出来事を聞いた。

『円』の存在を。

 その『円』が、この図書館の外側からでは観測できない『空白』の正体だろう。

 その『円』から何かがこちらに流れ込んできている。

 その際に、真っ先に『何か』と接触するのは周囲に存在しているのは瘴気(しょうき)だ。

 荒廃した魔力が、その流れ込んできているものに反応して発生しているのが、この泡なのだろうか。

 これがある種の化学反応のようなものだとしたら。

 ずきん……、と痛みを感じた。

 何を思った。何を思って――この痛みがあった?

(私は――『円』の話を聞いて、何を感じた?)

『円』の奥を聞いて、何を思った。


 ひゅうう、と冷たい風が吹いている。

 頭を少しだけ動かして、夜空を見上げた。

 銀色に輝く星々を見て、どこまでも続く空を見て、透き通る感覚があった。


「私たちの……世界は」

 小さく呟いた。


 彼の心に芽生えたのは、少年の頃に抱いた恐怖だった。


 この世界は何だ?

 こんな世界は、どれだけ理屈を捏(こ)ね繰り回しても、夜空の中で起きた自然現象による発生でしかない。

 文明社会がこの形に出来上がったのは確かに人類によるものだが、それの外側にある存在は――神のような創造主ではない。

 あくまでも自然現象。

 その自然の摂理(せつり)によって、世界はいつまでも膨張(ぼうちょう)し続けている。

 これに根源的な恐怖が含まれている。

 状況や状態が変わっても、すべては基本となる法則は常に普遍(ふへん)的である。

(この世界は石鹸(せっけん)と水から生み出される泡のようなものだ――)

 泡のひとつひとつが、この世界のようなものだ。

 ならば、それならば、この世界を生み出したのは神のような存在ではなく、自然の摂理(せつり)だ。

 そこに何者の意志も存在しない。

 だけど、もしも、そこに何者かの意志があったとするならば、この『自然の摂理』を起こすための『何か』があったと考えることもできる。

 その抽象的な恐怖。

 根源的な恐怖を、わかりやすく具現化してきたのが西暦後の神話大系だ。

 あらゆる恐怖の根源は、もっと捉えづらい存在だ。


「これは……」

 全身の神経を引き延ばされているような感覚だった。

 頭の中で鐘(かね)を打ち鳴らされて続けているような感覚だった。

 それが冷たいものに変わった。


「産まれようとしているんだ――」

 そこまでだった。

 ニューボンド・カイロは電源を抜いた機械のように、その場に倒れた。

 周囲にいたモレーやメアリーが駆け寄ると、彼は仮死状態に陥っていた。そこでふたりはニューボンドの言葉の意味を考えたが、結局のところ――意味まではわからなかった。



 同じ頃。

 自室に引きこもっている九十五歳のフレデリック・ピッキンギルの部屋では音楽が流れていた。ひとりの教員が彼の部屋に『ニューボンドが倒れた』ということを報(しら)せにきたが、部屋からの反応はなかった。

 耳が遠くなって音量を馬鹿みたいに上げているんだろう。

 だから部屋の外からの声が聞こえないんだ。

 その思って、その教員は呆れながら部屋の前から離れた。


 このとき、フレデリック・ピッキンギルも意識を失っていた。

 あえて考えられないようにするために音楽を聴いていた。

 もちろん、彼自身が蛍光色のサイリウムを振るっている若年層に向けたアイドルグループのことを好んでいるのは本当だが、それらを応援するようになったのは――そのときだけが、この無限に続く頭痛から解放されるからだった。

 毎日毎日、頭痛が続いていた。

 この日、それをどうにか抑えようとしていた。

 だけど、駄目だった。

 どうにか遮断(しゃだん)していたが、一度聞いた図書館全体を覆っている泡のことを聞いてしまってから、潜在意識で思考し、気づいてしまった。

 それは世界そのものを理解したようなものだった。

 これはある程度にまで気づいていて、その先を知りかけた瞬間に起きる現象だった。聡明な方々は、それの先に気づいた。

 それは夜空を見上げて、不安な気持ちに駆られてしまうようなものだった。

 人間の知性が、理解することを拒絶した。

 理解しようとすることを拒んだ。

 その結果が――仮死状態を引き起こした。


 この仮死状態を引き起こすのは、人によって異なる。

 その人間の限界量を越えようとしたときに起きる反応だからだ。

 知性を育んだ人類に牙を剥く瞬間に、その知性が生命を守る。

 その現象だった。

 ニューボンド・カイロやフレデリック・ピッキンギル以外にも意識不明に陥った人物はいた。

 先生たちの安否を気遣って駆けつけてくる者はこの現象を『攻撃』だと判断して、身構えた。その大勢の意識は保たれた。

 何故ならば、『これ』が何なのか理解しようとしていなかったから。



 そして、そして。

 地響きのようなものが聞こえ始めた。

 それがまるで心臓の鼓動(こどう)だと思ったときには、遅かった。

 何もかもが遅かった。すべてにおいて手遅れだった。

 これらを傍観(ぼうかん)することしかない人類に為す術(すべ)はなかった。


 泡は弾けた。


 ぱちん、ぱちん、ぱちん――と。

 周囲にある小さな泡が弾けていき、図書館全体を覆っている巨大な泡が弾けた。


 泡がなくなったとき、露(あら)わになった場所には何もなかった。

 図書館は既になくなっていて、地面さえも抉られていた。

 クレーターというより、その泡が覆っていた全体のものを消滅させたような断面(だんめん)だった。

 破裂時に発生した衝撃波で、周囲にいた魔法使いは吹き飛ばされる。


 どす黒い塊が、宙に浮かんでいた。

 数メートルほどあるその塊は、そのままクレーターの底に落下した。

 しばらくして、ずずずずずずず――と、どす黒い塊が這い出てきた。その黒い粘液のような塊からは極彩色の泡が周囲には散っていて、ぼろぼろとまるで食べ残しのように木造の残骸や岩の残骸が零れ落ちてきた。その多くがクレーター内部に落下していった。




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