◆4-5

 それからも、先輩はなんどかハルナさんの家に来たそうだ。来ると、よくくしゃみをする。


「先輩、風邪ですか?」


 ハルナさんは心配そうに先輩のおでこに手を当てる。その手を先輩はそっとどけた。


「いや、違うけど、もともとよくくしゃみするんだ」

「会社ではそんなこともなかった気がしますけど」

「うん、会社では我慢してる」


 ハハ、と先輩は笑っている。

 でも、サンゴが近づくと先輩のくしゃみがひどくなる気がした。大きなくしゃみの音が嫌いなのもあって、サンゴは先輩に近づかなかった。

 先輩はハルナさんには何も言わない。それでも、鈍いハルナさんも何度目かに薄々気がついたようだ。


「……先輩って、もしかして猫が苦手だったりします?」


 本当に恐る恐るそれを訊いた。先輩は、ギクリとしていた。


「い、いや、苦手というか……っくしゅいっ!」


 くしゃみが我慢できなかったらしい。そうしたら、ハルナさんはこの世の終わりみたいに悲しい顔をしたのだそうだ。


「そのくしゃみ、猫アレルギー……ですか?」


 先輩はひどく狼狽えていた。それは、ハルナさんが目にいっぱいの水を溜めていたからだろう。人間は感情的になると目から水を出すから。


「そ、そんなにひどくないんだ。ちょっとだけで、大人になってからはそんなに感じてなかったから、もう治ったのかと思ってたんだけど、ちょっとだけ、その……」


 それを認めた先輩は項垂れていた。

 ハルナさんは、その場にへたり込んでしまったそうだ。


「ごめんなさい、私、何も知らなくて、浮かれていて」

「ハルナは悪くないよ。俺がハルナの大好きなサンゴに会ってみたかったのも本当だから」


 多分、先輩はとてもいいヒト。ハルナのことをとても大事に想ってくれている。

 それは、サンゴと同じくらいだったかもしれないって。


 先輩は泣きじゃくるハルナさんを宥め、そうして帰った。でも、その晩、ハルナさんはずっと泣いていたそうだ。

 そんなハルナさんを見ていて、サンゴはいたたまれなくなった。


 大好きなハルナさんには誰よりも幸せでいてほしいのに、まさか自分が原因で悲しませてしまうことになるとは思いもよらなかった。


 猫のサンゴがハルナさんのそばにいたのでは、ハルナさんと先輩の仲はこじれてしまうかもしれない。本当は、心の奥底では、またハルナさんを独占できるからそれもいいんじゃないかって少しだけ考えてしまったそうだ。

 でも、悲しそうなハルナさんを見ていると、そんなのはやっぱりいけないって。


 サンゴがハルナさんの幸せの妨げになるのなら、サンゴはここにいてはいけない。悲しいけれど、ハルナさんとは今が別れの時だと思い定めた。



 あまり外に出なかったから、家を出るにもどこへ行けばいいのかわからなかった。

 でも、ハルナさんが朝、仕事に行くのに戸を開けた瞬間に、サンゴは意を決して外へと飛び出した。


「あっ! サンゴ! 早く中に入ってよ。遅刻しちゃう」


 ハルナさんが戸をつかみながらそんなことを言った。目元がまだ赤い。


 サンゴは一度立ち止まって振り返ると、にゃあと鳴いた。

 さようなら、ありがとう、と最後に告げたのだそうだ。


 大好きなハルナ。

 だからこそ、どうか幸せに――。


 あとは一目散に駆けた。ハルナさんの甲高い声がしたけど、もう二度と振り返らなかったって。

 これからは野良猫になるんだから、とサンゴは他の猫を見つけるとは積極的に挨拶をしたのだそうだ。


 にゃあ?

 あんたみたいなお嬢さんに野良は無理だよ。他の野良猫にはそんなことを言われてしまったって。


 でも、ハルナさんのところへは戻れない。もともとは野良の母猫から生まれたサンゴなのだから、そのうちに野性の勘が戻って野良に戻れると思ったのは見通しが甘かったのかもしれない。


 一日野良をしてみただけで無理だと言われた意味もなんとなくわかったって。

 道を歩くにも勇気が要った。ブゥブゥと音を立てて高速で走る箱、人間、犬、カラス――猫の天敵のなんて多いことだろうかって。


 そんな時、出会った黒猫がここのことを教えてくれた。

 人間に可愛がられてたあんたなら、そういうところの方が向いてるよって。


 猫カフェっていう言葉をハルナさんから少しだけ聞いたことがある。たくさんの猫がいるところだって。他の猫たちと上手くやっていけるかは心配だけれど、行くだけ行ってこようと思った。


 ――それが、サンゴの事情ってわけだね。

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