◆1-4

 トラさんは独り、ノブエさんの帰りを待った。

 コタツは片づけられたまま。トラさんには組み立てることもできない。それでも、畳まれたコタツ布団の上で丸くなって暖を取ったんだって。


 それから、夕方くらいにあの女の人が真っ黒な服を着て戻ってきたらしい。

 ノブエさんだと思ったのに、ガッカリしてしまった。その女の人は、トラさんのご飯の在り処を知ったから、そこからまたご飯を皿に出してくれた。


 待っていたのはノブエさんだけど、この際仕方がない。もしかすると、ノブエさんは自分が戻れないからこのヒトにトラさんのご飯を頼んだのかもしれない。


 ご飯を食べるトラさんを、そのヒトはどこか悲しそうに見下ろしながらポツリと言った。


「あんたのご主人様はね、もう戻ってこないのよ。可哀想だけど……」


 食べていたご飯から顔を上げた。

 耳はいいから、聞き間違えたりなんてしない。このヒトは、ご主人様はもう戻ってこないと言った。


 ご主人様っていうのがまず違う。でも、このヒトが指しているのはノブエさんのことなんだって、トラさんにはぼんやりとわかったんだそうだ。

 そして、このヒトが嘘をついていないってことも感じたって。


 ノブエさんが昔一緒に住んでいた『ダンナ』っていうヒトもいなくなった。ヒトは突然いなくなるものなんだって、それは知っていたつもりだ。


 でも、チクワを買いに行くと言って出ていったノブエさんが、眠ったまま帰ってきて、そうしてどこかに旅立ってしまった。それだけは本当のことなんだって、トラさんは理解した。


「うちには犬がいるし、飼ってあげられないけど、どこか引き取り手を見つけてあげなくちゃ。そうじゃないと、ノブちゃんが安心できないものね」


 面倒をみてほしいとは思わなかったって。トラさんはノブエさんといようと思ってここにいた。そのノブエさんがもう戻らないのなら、ここにいる理由もなくなったんだから。


 にゃあ、と鳴いてそれを伝えた。

 ただし、そのヒトには伝わらなかったと思う。



 トラさんはその日、ノブエさんとの思い出がいっぱいに詰まった家をゆっくりと見て回った。

 足が痛いからと、たまにしか上がらなかった階段。二階の部屋は荷物も少なくて、トラさんが走り回るのには丁度良かった。たまにゴキブリが出て、それを追いかけ回していたって。


 階段下の定位置にはいつもトラさんのお皿があって、ご飯はそこで食べていた。でも、ここに用意された水は飲んだことがない。汲み置きは好きじゃない。水道から流れる新しい水が好きだった。


 一階の畳の部屋。爪を研ぐ柱はいつもこれだと決めていた。『ダンナ』のためのセンコウが臭くない日には爪をピカピカに研いで毛づくろいをした。


 大好きなコタツの部屋。隙間風が入るから、戸を開けて入った後は閉める練習もした。ノブエさんが寒いから。

 閉める時に戸に爪を立てて力を入れたせいで、戸が傷だらけだった。その跡を懐かしく眺める。


 コタツ布団の上に載り、そこに僅かに残っているノブエさんの匂いを嗅いだ。

 もう、いないんだ。

 一体どこへ行くのか、どこへ行けばまた会えるのか、それはきっと、猫の自分にはわからないものなんだって感じたって?


 ノブエさんは寂しいって言っていた。でも、『セイジ』ってヒトと会ってると聞いた。じゃあ、もうノブエさんは寂しくないのかもしれない。


 その代わり、トラさんが寂しくなった。

 なんでだろう。トラさんは自由に生きてきたし、たくさんの別れも経験してきたのに、この別れはとてもとても寂しかった。

 それはきっと、ノブエさんがトラさんのことを本当に、とても好きでいてくれたと知っているから。


 ――あんたといるのは嫌じゃなかったよ。


 トラさんはどこにいるとも知れないノブエさんにそう告げてから、抜け殻の家を出たそうだ。


 他の誰かに甘える気にもなれなくて、トラさんは野良に戻ったんだね。

 そうして、僕のところへ働きにきたと、そういうことか。



     ◆



 トラさんはにゃあと鳴いて、ぬるくなった水をまたピチャピチャと舐め始めた。


「そっか。トラさんには悲しい別れがあったんだね……」


 トラさんはそれには答えず、音を立てて水を飲み続ける。汲み置きの水、嫌いなくせにね。


「でも、ノブエさんはトラさんがいてくれたから、本当の孤独にはならなかったんだよ。トラさんにどれだけ救われたか知れないよ」


 すると、トラさんは鼻を鳴らした。若造が生意気言うなと、顔が語っている。


 にゃあ。

 ――そんなことは知っているさ、と。


 そうだね。僕が口を出すまでもなく、トラさんとノブエさんとの間には確かな信頼があったんだ。

 ねえ、僕ともそんな関係を築いてくれるかな?


「名前はトラさん。野良と飼い猫、両方経験。好物はチクワ。年齢不詳」


 僕はメモ帳にそれを書き込んだ。声には出さなかったけど、『猫又一歩手前』とつけ足しておこう。

 だって、それくらい迫力があるし。

 そのメモ帳を綴じると、僕はトラさんに向けて言った。


「トラさん、おめでとう。採用です。これから僕と一緒に働いてください」


 すると、トラさんはにゃあと言った。


「大丈夫、トラさんの紹介はちゃんと書いて貼りつけておくよ。ナデナデも抱っこも苦手だってわかったら、猫好きな人は嫌なことはしないから。猫が好きな人しか来ないような店だからね」


 それを聞いて安心したって?


「猫って不思議と、見てるだけで癒されるんだよね」


 トラさんは首を傾げる。人間って変だなって。

 僕は思わず笑ってしまった。


「トラさんは猫スタッフ第一号なんだから、猫スタリーダーに任命します。これから来る猫スタッフの面倒を見て、まとめ役になってね」


 この貫禄ならリーダーも十分に勤まるはず。

 トラさんは一応納得してくれたらしい。


「にゃあ」


 よろしく頼む、とのこと。


「こちらこそよろしく!」


 そうして、僕は猫スタッフを一匹確保したのだった。

 さて、今度はどんな子が来るのかなぁ?



  *To be continued*

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