◆1-3

 寂しいくせに寂しいって言えないノブエさんは、友達ができる気配もなかった。もう、どこか諦めたようにして、


「あたしにはトラがいるから」


 なんてことを言う。

 仕方ないなぁ、とトラさんはこの付き合い下手な同居人に構ってあげたそうだ。


 別に、トラさんは孤独なつもりはなかった。別の場所へ行けば上手くやっていけるだけの自信もあった。

 でも、孤独なノブエさんのそばを離れたら、ノブエさんは本当に寂しくて仕方がなくなるから、トラさんはノブエさんに友達ができるまで、ノブエさんに付き合ってあげることにしたんだって。


 少なくとも、トラさんといる時、ノブエさんは笑顔だった。時折、『ダンナ』に何か喋りかけているけれど、その話の半分くらいはトラさんの話だったとか。


 猫は自由が好き。

 荷物なんか要らない。

 ただ勝手気ままに生きている。


 それでも、必要とされているってわかったら、どうでもいいなんて言えないんだ。

 トラさんにとって、ノブエさんは同居人で、飼い主とは思ってないけど、それでもどうでもいいヒトじゃなかった。ノブエさんは、トラさんの嫌がることをしない。抱っこもナデナデも嫌いなトラさんだって知ってて、無理やりそういうことはしない。


 だから、トラさんが今なら撫でてもいいよって合図をした時だけ、控えめにそっと撫でてくる。あの感じが、トラさんは決して嫌じゃなかったそうだ。


 ただ、ノブエさんは時折言ったそうだ。


「あたしみたいな独居老人は、本当は動物なんて飼っちゃいけないのかもね。だって、最後まで面倒を見てあげられるかわからないもの。あたしの方が先にいっちゃったら、あんたどうするの? 野良に戻る? それとも、またどこかの飼い猫になる?」


 トラさんは、ノブエさんの膝の上でにゃあと怒った。

 言っている意味がわからない。変な心配をするなって。


 わからないのに、なんでだかノブエさんが言った言葉がすごく嫌なものに感じられたそうだ。

 その言葉は、耳から伝わって腹の奥底に溜まった。毛づくろいで呑み込んだ毛玉を吐き出すことはあっても、その言葉はいつまでも、トラさんの中から抜けていかなかった。



 寒い毎日が続いて、トラさんはコタツから離れられなかった。

 一度このぬくさを知ってしまったら、もう駄目だ。あの頃のあたしは完全に堕落していたって? あ、うん。猫に限らず、コタツに勝てる人間もあんまりいないと思う。仕方ないよ。


 それでも、ノブエさんは時々出かけていったそうだ。寒いんだから、やめとけばいいのに、たびたび出かけたって。


 それはきっと、買い物に出たんだよ。出かけなくちゃ食べ物が手に入らない。ノブエさんとトラさんの食料を買いに出かけるしかなかったんだ。

 ほら、さっき言ってたじゃないか。

 ノブエさんが出かけると、美味しいものを持って帰ってくるって。


 ――え? 持って帰ってこなかったって?


「トラ、行ってくるね。あんたの好きなチクワ買ってくるからね」


 最後にそんなことを言ってたそうだ。

 チクワは美味しい。あの茶色くて長ぼそい、ふにゃっとしたチクワ。

 香ばしい匂いを思い出して、トラさんはぺろりと舌なめずりをしながら考えた。そういえば、前にチクワを食べたのはいつだっただろうか。結構前かもしれない。


 楽しみだった。

 そうして、トラさんはチクワを待った。


 寒い冬の日。

 コタツの中はぬくくて眠気を誘うはずなのに、その日はなんでだかよく眠れなかった。チクワが楽しみで眠気が吹き飛んだわけじゃない。なんでだか眠くなかったって。


 ――そうか。なんとなくわかるよ、そういうの。

 人間でいう『虫の知らせ』ってやつかもしれない。

 嫌な予感がしたんだね。


 トラさんはコタツから出たり入ったり、それを繰り返していた。驚いたことに、ノブエさんはその日、帰ってこなかったんだって。


 そんなにチクワが手に入らなかったのなら、チクワは今度でいい。外は寒いんだから、いつまでも外になんているもんじゃない。早く帰ってきてコタツに入れって、トラさんは戸に向けてにゃあにゃあ鳴いたらしい。

 そんな声も結局は届かなかった。


 

 あくる日、ノブエさんの家の戸が開いた。

 でも、入ってきたのはノブエさんじゃなかった。知らない人間が数人、物々しい様子で入ってきたから、トラさんはびっくりして二階に逃げたそうだ。その間も、人間たちは部屋でガサゴソガサゴソ何かをやっていた。あんなに大勢が来たんじゃあ、トラさん一匹じゃ太刀打ちできないから、隠れているしかなかった。


 それでもそっと、足音を僅かにも立てないように忍び足で近づいてみると、大事なコタツがバラバラにされていた。小さく畳まれて別の部屋に運び出される。こいつらはコタツ泥棒かと、トラさんは戦ってコタツを取り返さなくてはと意気込んだそうだけど、ふと見遣った部屋の中に白い布団が敷かれていたそうだ。


 布団には『何か』が横たわっていて、でも雪みたいに白い布が被さっていてよく見えない。たくさん来た人間たちは、嫌な臭いを出し始めた。あれは『センコウ』だった。トラさんの嫌いなセンコウを、ノブエさんじゃない人間たちが焚き始めた。


 トラさんは、何がなんだかわからなくなって、ぼうっとしてしまったそうだ。

 黒い服を着たヒトが去った後、残った人間たちが白い布団を囲んで話し出した。


「……ノブちゃん、あんまりご近所付き合いしてなかったのね」


 うつむきながらそんなふうに言ったのは、ノブエさんと少し似たヒトの女だったって。


「セイジが死んでから塞ぎがちだったしな」


 これは頭に毛のない男のヒトが言ってたそうだ。

 セイジって誰だろう。それより何より、『死んで』って何だろうか。トラさんは二人の話がよくわからなかったって。

 ――猫には『死』の概念がないんだね。

 いや、いいんだ。わからなくていいんだよ。続けて。


「困ったことがあったらいつでも言ってねって言っても、あたしは大丈夫としか言わなかったし。家も遠いから遠慮してたのかしら……」

「甘え下手だったな。最後まで」

「雪が降ってて寒かったから、早く帰りたかったんでしょうね。本当に、運が悪かったとしか……」

「あっちの不注意だ。いくら雪でもちゃんと気をつけて運転してくれてりゃあな」

「そうよね。独り暮らしだけど、葬儀場へ直行したんじゃあんまりだもの。思い出のある家に一度戻してあげて、これでノブちゃんは喜んでくれているかしら……」


 はぁ、と二人のため息が零れた。

 その時、女のヒトが白い布切れをめくった。トラさんは、声を上げてしまいそうになるほど驚いたそうだ。そこにノブエさんがいたのだ。顔を白い小さな布で隠され、匂いも近くで焚かれたセンコウに紛れて気づけなかった。


 なんだ、ちゃんと帰っていたのかとほっとしたそうだ。よく寝ている。ちょっと疲れたのかもしれない。年だから疲れるとか、よく言っていたから。


 変な二人もいることだし、そばには近づけない。どうしようかなと思っていると、男のヒトがトラさんに気づいたそうだ。


「お? 猫がいる。猫を飼ってたのか」


 女のヒトも振り返った。


「あら、ほんと。どこかに餌の買い置きがあるかしら。お腹空いてるんじゃないの」


 お腹は空いていたけれど、ノブエさん以外のヒトがノブエさんの家をガサゴソと引っかき回すのは見ていて気分のいいものじゃなかった。だから、トラさんはもういいと言ったんだそうだ。

 ノブエさんが起きてからもらうから、いいんだって。


「あ、猫缶があったわ。これでいいわよね」


 流し台の下の扉から、その女のヒトはトラさんのご飯を見つけた。ご飯を入れる皿はいつも階段下のわかりやすいところにあったから、そのご飯をそこに入れてくれた。センコウの嫌な臭いの中、いつものご飯の匂いがして、お腹がペコペコで、トラさんはとりあえずそれを食べることにした。


 トラさんがご飯を食べ終えてからも、その二人は家から出ていかなかった。これはおかしいとちょっと思ったそうだ。

 外は暗いのに、いつまでも家の中だけが明るい。

 猫も人間も寝るものなのに、二人は寝なかった。いつまでも部屋の中は明るくて、その中でノブエさんだけが眠り続けていた。なんだろう、これは。


 ノブエさんは夜中によく起きる方だったのに、こんなにも長く寝ているのは初めてだったかもしれない。

 あの二人がいるから、トラさんはノブエさんのそばに行けなかった。


 そうして、翌日に、眠っているノブエさんは細長い箱に入れられて、どこかへ運ばれてしまった。

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