11.『祈りを掘る人よ』
シスター。どこに祈っているの。
何に祈っているの?
少年が尋ねた。
手には聖書を抱えている。その、まだ幼さのある手にも持て余さない程に小ぶりの聖書は、背筋をしゃんと伸ばした少年の雰囲気を清廉にまとめ上げていた。
教会の広い庭の隅で、木陰に佇み、ただ黙々と両手を組んでいたシスターは、土に汚れたその顔で、ようやく尋ね人のいる廻廊を振り返った。
「我らが主に、祈っているのですよ」
「祈るなら講堂ですればいいのに。どうして地面を掘るの?」
植わる木々の根元を避けて掘られた、縦長の穴を見やる。そう深さはない。落とし穴にしてはやたら長く、土を被せるつもりもないのか、掘り返された分の土はあちこちで適当な山を作っていた。
葉の影に切り取られた修道着の黒が、地面の土の暖かさに相反し、明度を失っている。
シスターは組んでいた両手をはがし、ぶらんと脇に下げる。目線は少年を向くことはなく、穴の奥底を見つめている。
「祈るためです」
ぐるり、会話が一周した、と少年は思った。
真意と理由に対する問いを投げたのに、投げ返された答えはまるでがらんどう。ゴムボールを使って壁とキャッチボールをしているような気分になった。
少年は眉間にかすかな不快感を浮かべ、シスターの背中に視線の釘を刺した。
午後を回ろうかという時間帯、そろそろ初夏を迎えるであろう時季では屋外は妙に暑く──屋内もかわらないのだが──その不可思議な穴とシスターは、まるで避暑地を独占しているように見えたのだ。
「地面を掘ることが祈りにつながるとは、思わないけど。訳を教えてよ、シスター。もしかして、僕の知らない一節がこの中にあるのかな」
聖書を手の中で開き、閉じる。
尻目にそれを見つけた彼女は、再び廻廊に体を向けた。早熟な少年へ、
「聖書は乱暴に扱うものではありません」
「……ごめんなさい」
反論をしようとして、思いとどまる。聖書を両手にきちんと持ち直したのを見、シスターは足元──穴のそばに転がしていたスコップを拾い上げた。用途不鮮明の穴と少年をまるで置き去りに、つま先が音もなく土を蹴った。
「待って。なんで祈りのために穴を掘ってたのか、それだけは教えてよ」
庭を去ろうとした華奢な背中に、少年はWhy?を投げかける。
立ち止まったシスターは、しばしの間の末──スコップを手にしたまま両手をしかと結び、顔を俯けた。秋の枯れ枝のように細い体は、日の光に照らされると、うっすらとした影を地面に浮き出させるのだった。修道着の黒が濃く見えたのは、木陰に包まれ、浅く暗い
唄うように、唇がそっと開かれる。
「“ 誰でも求める者は受け、探す者は見つけ、叩く者には開かれる。”…………天を仰いでも神は見てくれはしない。私たちの祈りは、高い空の奥にまで届かない。たとえ届いても、遠すぎて、他の人と混じってしまう。……誰とも混じってしまぬように、私は掘ったのです」
饒舌なシスターに、少年は不思議な心地がして、彼女の掘った穴に目をやった。
誰もいない、何も埋まっていない穴の底で、浅い暗闇が生えている。そのように見える。
「……自分だけの講堂を、つくったの? あそこに」
空から逃れるように祈りを捧げていたシスターは、ふと少年を振り向く。
「……そう考えても良いかも知れませんね」
はじめて返答らしい返答をしたかと思えば、晩秋の眼差しはふいと逸らされた。
「午後は授業があるでしょう。早く他の子達と合流なさい」
ちょうど廻廊の向こうから少年をさがす声がし、彼がそちらに気を取られている間に、シスターは教会の裏手へと姿を消した。
ふと、そんな出来事を思い出した。
シスターと祈りの穴を見かけたのは今日のうちのことだ。不思議で、奇妙な邂逅だったのにも関わらず、少年はそれを見るまで脳裏に浮かべることすらしなかった。
夕刻を告げる、長い長い鐘の音が終わる。
昼間のときのように、同じ年頃の友人たちと廻廊を歩いていた少年は空を見上げた。筆で混ぜられた
その囲いの一点に、黒が。
少年はそれの正体を見定め、目を見開き、そして思い出したのだった。
ゆるやかな風にはためいた黒が、
少年は時間がゆっくりと流れていくのを感じた。川の流れのように、時を刻む秒針は緩やかに右へ進む。音もなく、声もなく、身体は落ちていく。
斜め下へ落下する無垢の装束が茜色の光を受けて、その像をにわかに浮かび上がらせる。
宙ぶらりんの二本の枝が、胸元で確かに指を組み合わせたのを、少年は見た。
彼女が落ちていった先に、おそらくあの穴があることに、少年は気付いていた。
『祈りを掘る人よ』/終
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