第24話 流川へ 5

   ◇


「そうじゃー、これこれ」


 樹里ちゃんがふいに声を上げて、後ろの棚の引き出しから、なにやら取り出した。


「忘れとった。書いといてください」


 言いながら、なにかをカウンターの上に置いて滑らせる。

 なにかと思って見てみたら、ボトルの首に掛けるネームタグだった。ペンも一緒にカウンターの上に置かれる。


 私は、ボトルは課長が入れたのだから自身で書くべきだろう、と課長のほうにそれらを滑らせる。

 けれど彼はタグの上に手を置いて、こちらに返してきた。


「悪いけど、元木さん、適当に書いておいてよ」

「えっ、私ですか」

「元木さんのほうが字が綺麗だし」

「じゃあ……」


 確かに課長に比べたら、私のほうが字は綺麗かもしれない。私はペンを手に取る。


「木佐貫、でええですか」

「わかればなんでもええんよー」


 樹里ちゃんが、そう口を挟んでくる。


「番号も振るけど、パッと見て、わかりやすいほうがええかなー」

「わかりやすい……」


 私はそうおうむ返しにする。

 彼女たちにとってわかりやすいのは、どういう書き方なんだろう。


「木佐貫さんは他にもおるけえ、下のお名前のほうがええかな」


 樹里ちゃんが棚のボトルを見つめながら、そんなことを言う。

 彼女の視線の先を追うと、本当だ。木佐貫、と書かれたタグがあった。しかもヘネシーだ。


 樹里ちゃんはこちらに振り向くと、タグを指差して口を開いた。


「ゆみちゃんも飲むんじゃろ? じゃったら、ゆみちゃんのお名前も書いといて欲しいな。わかりやすいけえ」

「じゃあ、優美、って書いておいて」


 急に名前を言われて、ドクンと心臓が跳ねた。いや、深い意味などなにもない、話の流れで名前が出てきただけ、というのはわかるのだけれど。

 いけない。頬が熱くなってきた。いや、お酒のせいだ、これは。そうに違いない。


「でも、課長のボトルだし……」


 そうぼそぼそと言い訳している間に、樹里ちゃんは自分の名刺を課長の前に差し出していた。


「樹里です、よろしくお願いしますー」

「あ、木佐貫です、よろしく」


 そう自己紹介し合って、二人は名刺交換をしている。


「美しい夜の蝶は、おビールが大好物なんだー」


 笑いながら、樹里ちゃんがそんなことを言っている。


「ああ、どうぞ」

「やったあ」


 苦笑しながら課長が返した言葉に、樹里ちゃんは手を合わせて喜んでいる。そしていそいそと冷蔵庫から瓶ビールを取り出し、課長の前に置いた。


 そしてグラスにビールを注がれると、


「かんぱーい!」


 と明るい声でグラスを差し出し、課長と、そして私のグラスに当ててから、一気に飲み干した。

 私たちは二人で目を丸くする。


「おいしー!」

「強いねえ」

「ほんと」


 あっという間に空いたグラスに、課長はまたビールを注いでいる。


「ええと、こっちがかえでママのでー、こっちがウチのじゃけえね」


 私たちの前に二本並んだ瓶ビールを指差しながら、樹里ちゃんが確認する。

 そして二杯目もぐいっと一気に飲んでみせた。本当に、強い。


「あとで飲むけえね。とっといてよー」


 と声を掛けてきたあと、別のお客さんの前に去っていく。

 明るくてハキハキしていて、かえでママとはまた違うタイプの子だなあ、と思う。


「本当に、夜の蝶って言ってたね」


 課長がこちらを見て苦笑する。


「あ、前のときも、あんな感じで言うとりました」

「なるほどね。決まり文句なのかな」


 そう返して、くつくつと笑っている。

 それから、私の手元を指差した。


「書かないの?」

「あ、すみません」


 なんと書けばいいのか迷ってしまって、手が止まったままだった。


「でも、課長のボトルなのに、私の名前を書くのは」

「これからも一緒に飲もうと思って、ボトルを入れたんだけど」

「あ、あの……」

「まあいいよ。俺と一緒じゃないときでも、自由に飲んで」

「でもそれじゃあ」

「ま、とにかく、二人の名前、書いておいてよ。元木さんが嫌だと言うなら、それは俺がそのうち一人で消費するから」


 私はその言葉に、少し考えたのち、ペンを置いた。

 やっぱりちゃんと訊いておかなくちゃ、という気になったのだ。

 曖昧なままでは、進んではいけない。どちら側に進むにしても。


「あの……私、その……今まで全然気付かんかったんですけど」

「うん、だろうね。自覚したのはごく最近だから」

「え……」


 私はその返答に、課長のほうに振り向いた。彼は軽く肩をすくめる。


「気付いた途端に、会社辞めるって言うから、これはとにかく繋がっておきたいと思って誘った」


 そう言って、またこちらをまっすぐに見つめてくる。

 ごく最近。

 ということは。


「……それは、私のあの話を聞いてからということですか」

「うん」


 間髪を入れずにそう返してきた。

 私はカウンターの上で手を組んで、ぎゅっと握る。握る力が強すぎて、私の手は白くなる。


「わ、私が簡単に騙されるような女だからですか」


 確かにその通りかもしれない。簡単に騙されて、そして騙されたと気付いても、気付かないふりをした。愚かで、酷い女なのだろう。


「だから、簡単に落ちるって思っちゃったんですか」


 けれどそれは、いくらなんでも侮辱ではないのか。

 すうっと頭の上から血が引いていくような感覚がする。


 ほんの少しだけれど、誘われて嬉しかった。本当は、私は浮かれていたのだ。その気持ちをどこにやればいいのかわからなくて、途方に暮れる。


「他の男に取られたのが我慢ならなかった」


 ふいに、そう言葉が降ってきた。

 私はゆっくりと顔を上げ、課長を見つめる。彼はどこまでも真剣な表情をしていて、これはからかおうとしているのではない、とわかった。


「それで自覚した。俺のことが嫌なら、このボトルはあげるよ。一緒に飲まないのなら、俺にとっては意味がない。辞めるんだ、もう会うこともない。気にすることはない」


 そうして、ネームタグを指差した。


「だから、それなら自分の名前だけ書けばいいよ。大丈夫、俺は悲しいかな、振られ慣れているんだ」


 そうおどけると、笑う。


「それは……ずるいです」

「そう?」


 私はペンを再び手に取る。


「……名前、なんでしたっけ」

「……健太」

「漢字は」

「マエケンの、健太」


 私はネームタグに、健太、と書き込む。そしてひとつ点を打つと、その隣に、優美、と書いた。

 そしてそのタグをボトルに掛ける。

 私は目を逸らしたまま、口を開く。


「別に、これでどうこういう話じゃあないんですよ」

「うん」

「ただ、また飲みに来てもええかってだけなんですよ」

「うん」

「ヘネシーは高いし。もったいないなと思うて」

「うん、それでいいよ」


 課長はそれからひとつ、安心したように大きく息を吐いた。

 私はおずおずと顔を上げる。そして、ちら、と課長の顔を見てみた。


「よかった」


 そう言って、心底ほっとしたように笑うから、また、私の心臓が跳ねる。

 けれど笑顔から一転、これ見よがしに、がっくりとうなだれている。


「というか、俺の名前、知らなかったんだ……」

「いや、なんとなくは」

「なんとなくか……」

「だって、課長、としか呼びませんもん。書類とかでたまに見かけるくらいで」

「眼中になさすぎじゃない?」

「課長だって私のこと、あの話までは意識しとらんかったんですよね?」

「でも名前は知ってた。優美、って漢字で書けるし」


 そう喋りながら空中を指差して優美、と書いていく。少し得意げだった。

 なんだかそれが、こそばゆい。


「なんの意地ですか」

「なんだろうね」


 そうして、にやりと口の端を上げる。


「とりあえず、今日の目的は達成したよ」

「はあ……」

「これからも、よろしく」


 そう声を掛けてきて、課長は目を細めた。


「まあとにかく、というわけで、祝杯を挙げよう」


 そう明るい声を出すと、自分のグラスを手に持つ。

 私も慌ててグラスを手に取った。


「乾杯」


 そう言ってグラスを差し出してくるから、私はそれに自分のグラスを当てた。

 ちん、という心地良い音がする。


「しかし広島の人って、マエケンの健太で通じるよなあ」

「どうですかね。今はもう難しいかも」

「もうメジャーリーガーだしね」

「そうですね」


 そんなことを話しているうち、課長はハッとしたように顔を上げる。


「あっ、そうだ、連絡先を交換したいんだけど」

「あ、はい。えと、コミュニケーションアプリ、入っとりますよね?」

「入ってるよ」


 答えながらポケットからスマホを取り出す。そして表面をなぞってから、少し眉根を寄せた。


「どうやるんだっけ。QRコードを出すんだよね。どこだっけ」


 と呟きながら、いろいろつついている様子だ。


「おじさん……」

「うるさいな」

「貸してください」


 私は半ば無理矢理スマホを奪い取ると、自分のスマホも取り出して、さっさと登録してしまう。

 けれど、やっぱり酔っているのかな、ちょっと強引すぎたかな、とふと思った。

 私は課長のスマホを手に持ったまま訊いてみる。


「もしかして、スマホ、見られとうなかったです?」

「いや? なにもやましいことはないから」

「へえ?」

「ホント。どこ見ても大したことはないし。ゲームが入っているくらい?」

「ふうん」


 私は、ささっとスマホの表面をなぞる。

 本当に、あまりアプリが入っていない。基本的なものばかりだ。

 天気予報、スポーツ速報、カメラ、コミュニケーションアプリ、スケジュール。

 私はふと思いついて、気付かれないようにと思いながら手早く画面を操作した。


「はい」


 それから課長にスマホを差し出す。


「登録できとるでしょう? それ、私です」


 コミュニケーションアプリを開いて、新しく登録されたアイコンを指差す。


「わかった、ありがとう。テストね」


 そう言って、なにやら操作している。

 すると私のスマホがピロン、と鳴った。

 見てみれば、「よろしく!」と踊っている猫のスタンプが届いていた。イメージと少し違って、私は小さく笑いながらそれに返す。

 今度は課長のスマホがピロン、と鳴った。

 画面を見て口の端を上げると、課長は「うん」とうなずいた。

 送ったのは、「よろしくお願いします」とお辞儀しているうさぎのスタンプだった。


「あまり、しつこくしないようにはするよ」


 そう付け加えながら、スマホをポケットにしまい込む。

 どうやら気付かなかったらしい、と私は心の中でほっと胸を撫で下ろす。


 スケジュールアプリに私の誕生日を登録したことに、課長が気付くのはいつのことだろうか、と思うと少し、おかしかった。

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