第16話 恋の悩み 6
◇
かいつまんで元木さんへの気持ちを話し終え。
ちらりと横を見ると、あやかママは一本目のビールを飲み干したところだった。
「二本目も貰うねー」
軽い口調でそう声を掛けてくると、レジ袋をガサガサと鳴らしながら二本目のビールを取り出し、さっそくプルトップに手を掛けた。
今、とても真剣に心の内を打ち明けていたつもりだったのだが。
「……聞いてます?」
「ん? 聞いとらんように見えるん?」
「割と」
「いやじゃ、聞いとるよ」
小さく笑いながらあやかママは答え、二本目のビールに口を付けた。
そしてまた、プハーッと漫画みたいに息を吐いてから、こちらを向いてにっこりと笑った。
「まあ恋愛なんて、そんなもんかもしれんし」
「恋愛、なんですかね」
「恋の悩みです、って自分で言うたくせに」
にやりと笑ってそんなことを口にする。
なるほど、確かに俺の話はちゃんと聞いているらしい。
あやかママは、俺が置いたままにしているビール缶を指差した。
「まあ、あんたも飲みんちゃい」
「そうですね」
俺は脇に置いてあった自分のビール缶を手に取ると、それを口につけて喉に流し込んだ。
飲まなきゃやっていられない、そんなところか。
あやかママは自分の頬に人差し指を当て、少し考えるように斜め上を見てから訊いてくる。
「ええと、お名前、聞いとらんよね」
「そうでしたっけ」
「教えてもらってもええ?」
「
「健太くん。うん、覚えた!」
そうはしゃいだ声を上げると、うなずいている。
なんというか、力が抜ける人だ。なんでも言っていいような、どんなことでも受け止めてくれるような、そんな気がしてくる。
だから俺はさらに言葉を連ねた。
「でも、それって……下衆ですよね」
「下衆? なんで?」
驚いたようにあやかママは目を見開く。
「いや恋愛って、そういう……なんというか……その……情欲が先立つというのは……」
口にするのも恥ずかしい。
俺は慌ててまたビールをグビッと飲んだ。
すると隣のあやかママは、くすくすと笑い出す。
「案外、真面目なんじゃね」
「案外」
真面目には見えないのか、と苦笑する。
するとあやかママは、口の中を潤す程度、少しだけビールを飲んでから語り出した。
「あのね、ウチ、これでもけっこう友だちがおってね」
「は、はい?」
話がいきなりすっ飛んだ。
俺の情欲の話はどこに行った。
「よう恋愛の相談されるんじゃけど」
しかしあやかママは構わず続ける。まあ、なんらかの意図はあるのだろう、と俺はその話に耳を傾けた。
「女はねえ、割とあるパターンとしちゃあ、優しい人とイケメンの人、とか。真面目な人と面白い人、とか。違うタイプの二人に口説かれとるんじゃけど、どっちがいいと思う? ってよう聞かれる」
「はあ」
なんと贅沢な悩みか。
そしてあやかママはこちらに振り向いた。大きなピアスがゆらりと揺れる。
「ウチはね、そういうときは、なんて言うか決めとるんじゃ」
「なんて言うんです?」
「どっちと寝たいん? って」
俺はその返答に、口を半開きにしたまま固まってしまう。
女性の口からそんな言葉が飛び出すとは思ってもみなかった。
「寝たい男が好きな男よ。単純明快」
いったいなにを悩んでいるんだ、とでも言いたげな顔をして、あやかママはまたビールをぐびりと飲んだ。
しかし、それを女性に対して口にするのか。なんと明け透けな。訊かれたほうも驚くのではないか。
けれど確かに、わかりやすい。
「それは、女性の相談の場合なんですよね」
「うん」
俺の質問に、あやかママはこくんと首を前に倒した。
「じゃあ、男性の相談の場合は決めているんですか」
「決めとるよ」
「なんて」
「他の男に抱かれて欲しくないのはどっち? って」
なるほど。
そうきたか。
「どっちも、って言う人、多いけどね!」
そう付け加えてケラケラと笑う。
「どっちかっていうと、って突っ込んで話したら、たいていは心が決まるみたいじゃわ」
そして組んだ足の上に肘をついて、こちらを覗き込むようにして見てきた。思わず、身体を少し引いてしまう。
いろいろと見透かされているような気がする。
俺よりも、俺のことを知っているみたいな。
さっき会ったばかりなのに。
「低俗じゃあなんじゃあ言うても、身体の相性はやっぱり大事じゃけえね。触って欲しくもない人と付き合えるわけないじゃろ」
「……それは、まあ」
「健太くんの場合、寝たい女が好きな女で。他の男と寝たのが気に入らない。そういうことなんじゃないんかねえ?」
そう確認してきて、口の端を上げる。
「恋心とかそんなん、わかりづらいわ。深く考えたら余計にわからんようになるわ。好きな女とは寝てみたい、それでええじゃろ」
あやかママは軽く肩をすくめた。
まあ、一理ある。
「確かに単純明快ですね」
「あんまり考えんさんな。面倒くさい」
「俺の恋心、面倒ですか」
「やっぱり恋の悩みじゃわ」
あはは、と笑ってあやかママは続ける。
「恋愛の始まりなんか、いろいろあるに決まっとるわ。綺麗な始まりじゃないといけん、なんて法律はないわ。好きになったら、きっかけなんて、どうでもええことよ」
軽い口調で、あやかママはそう断じる。
そうか。そこまで考え込むことでもないか。なんにしろ、まだ始まってもいない。スタート地点に立ってもいない段階で、ぐちゃぐちゃと考えても仕方ない。
まずは、歩き出すか。
そう思った。
隣にいる、そういう気持ちにしてくれた恋愛マスターにふと、訊いてみる。
「あやかママは、恋人は?」
「今はおらんよー」
「ああ、面倒そうですもんね」
そう返すとあやかママはこちらをちらりと見て、唇を尖らせる。
それから、右腕を振り上げて俺の頭にチョップをくらわせた。
「痛っ」
「
死ね、ではなかったが、どうも俺は女性から、頭上にチョップをくらうようにできているらしい。
あやかママはそっぽを向いて、そしてまたビールを口に運んだ。
俺はそれを見て、小さく笑って手を振る。どうやら誤解されたみたいだ。
「違う違う。あやかママのほうが、誰かと付き合うのを面倒くさがりそう、という意味ですよ」
するとあやかママは納得したのかどうなのか、片方の口の端を上げた。
「ほいならええわ。確かにウチは面倒くさがりよ」
「そんな感じします」
二本目のビールも終盤に差し掛かったらしいあやかママは、ビール缶の底を空に向け始めている。
「まあとにかく、ありがとうございます。すっきりはしました」
「そりゃあ良かったわ」
そう返して、あやかママは口元に弧を描く。
しかし、彼女はどうしてこんなところにいるのだろうか。
「あの、これって、営業、なんですか?」
「営業?」
俺の質問に、あやかママはこちらを向いて眉根を寄せる。
「呼び込みってヤツ」
「違う違う」
そう答えてひらひらと手を振る。
「でも、ご自分のお店、あるんじゃないですか」
「あるよー。あそこ」
ママは公園の目の前の雑居ビルを指差した。
「あのビルの三階の一番奥にあるんよ。『エスケープ』っていうお店じゃけえ、行ったらわかるわ。高うないけえ、安心しんさい」
「やっぱり営業じゃないですか」
「別に、行きとうないんじゃったら行かんでもええよ」
少しふてくされたようにママは唇を尖らせた。
俺は苦笑しつつ返す。
「まあ、そのうち」
「その部下って子でも誘って」
「来ますかね」
「さあ? そんなの、誘ってみんとわからんわ」
「確かに」
俺は自分の手の中にあるビール缶を眺める。
ひとまず誘ってみよう。振られればまた、行く方向も決まるだろう。
まずは一歩を踏み出してみよう。面倒な、俺の恋に。
俺は残ったビールをグイっと飲んだ。すべてを飲み干して、あやかママのほうに振り返ると。
もうそこには誰もいなかった。
「……え?」
俺は慌てて立ち上がる。あたりを見回しても、あやかママはどこにもいなくて。
もうずいぶんと寂しくはなっていたが、千鳥足のサラリーマンや、家路に向かうためにタクシー乗り場に急ぐ人がちらほらと見えた。
そして新天地公園にある時計を見上げると、針は夜中の三時を指している。
「え……?」
俺はすとんとベンチに腰を落とす。
空になったビール缶二本と、まだ飲まれていない一本のビールが、レジ袋に入っていた。
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