健太 Ⅰ

第11話 恋の悩み 1

 俺は、妖精に呼ばれた気がする。


   ◇


 どうしたわけか、俺は小さな神社の前に立っていた。

 左手にはレジ袋。さきほど寄った、すぐそこのコンビニで買ったビールが四缶入っている。

 500mlが四本。つまり2L。

 500ml缶を四本飲め、と強要されても大したことない気がするが、2Lのビールを飲め、と言われると飲めないこともないが難しい気がする。

 いや、2Lだと水でもキツい。いやいや、水なら無理だがビールならいける、と言うべきか。


 そんな馬鹿なことを考えながら、俺は鳥居をくぐった。

 スーツの内ポケットから財布を取り出す。二つ折り財布の小銭入れのところを見てみると、幸いにも五円玉があったので、それを二本の指でつまんだ。

 五円玉はご縁がある、ということでなんとなく賽銭には欠かせない気がするので、あってよかった、と思う。そういえば十五円だと、十分ご縁がある、ということなんだっけか、と十円玉を追加してつまんだ。


 ポイ、と賽銭箱に向けて投げると、カタカタと木に当たる音がしたあと、チャラっと小銭同士がぶつかる音がした。

 つまりからではないらしい。こんなに小さな神社なのに、他にも賽銭を投げ入れる人間がいるようだ。

 二礼二拍手一礼。

 俺は一般的な儀礼を済ませて、祠に背を向ける。

 神社といっても、緑豊かな土地にあるような厳かなものではないので、少々参拝するのが気恥ずかしくて、足早にその場を離れる。


 俺はいったいなにをしているんだろう、と自問自答してみる。

 今日は部長と二人で、この流川に飲みに来た。

 地獄だ。


 延々と続く、「昔はのう」とか「今のやつらは」とか「ワシの若いときゃあ」とかいう長い話に、「そうですね」「はい、わかります」「すごいですね」と相槌を打つ仕事だ。


「ワシも昔は、ワルじゃったんで? 今はもう落ち着いとるけどのう」


 そんなことを語られたときには、思わず遠い目をしてしまった。

 「昔ワルだった」人はこれで何人目だろう。しかも部長は、とてもそうは見えない中年太りのおじさんだ。

 説得力がなさすぎて、どう相槌を打てばいいのかわからず、やっぱり「そうだったんですか」と曖昧な返事をするしかなかった。


 部長は割と金払いは良いほうなので、今日は一銭も使っていないのが救いか。それを今日の日当ということにしよう。


 三軒目の店は繁盛していたようで客の入れ替わりが激しく、カウンターの端っこで二人で並んで座っていたのだが、満席だったため何度か客が扉を開けては諦めて出て行く、ということを繰り返し、ホステスさんたちの視線が少しばかり厳しくなってきたところで、慌てて強引に部長を連れて店を出た。

 部長の、「よーし次行くかー!」という恐怖の誘いに、さすがに手を振った。


「いやもう、俺は限界まで飲みましたよ。それにこの時間じゃ、開いている店もないんじゃないですか」

「お、もうそんな時間か」


 と、本当に見えているのかどうかわからないが、部長が腕時計を見た隙に手を上げ、タクシーを停めた。

 そしてフラフラしている部長を一人、タクシーの中に突っ込んだ。この突っ込んだ、という表現は、かなり正しいと思う。

 有無を言わせず、俺はタクシーの中に向けて、腰を折った。


「では今日はありがとうございました、ごちそうさまです」

「おう、お疲れー」


 と部長が手を上げたので、ほっと安堵の息を吐く。これなら大丈夫だろう。

 タクシーから少し離れるとドアが閉まり、発進していく。念のため見えなくなるまでその赤いテールランプを見送ってから、歩き出した。

 酔い覚ましのために水でも買うか、と近くのコンビニに向かう。


 明日は休みだ。なにをしよう、と考える。

 たぶん午前中は二日酔いで動けないだろうが、せっかくの休みの一日を、なにもせずに過ごすのはもったいないような気がする。


 三年ほど前までは彼女がいたので、休みとなれば彼女と過ごした。というか、彼女が俺の1Kの部屋に勝手にやってきて、なにをするでもなくまったりと過ごすことが多かった。

 それはそれで居心地はとても良かった。長年過ごした老夫婦のような関係で、そのうち結婚するのだろうな、と漠然と考えていた。


 結果的に、それは俺だけの都合だった、ということが判明するわけだが、当時の俺はそう考えていたのだ。


   ◇


 ある日、寝転がってテレビを見ていた俺の横に正座をすると、彼女は唐突に口を開いた。


「ねえ、もうどっかに出かけんようになって、どんくらいになると思う?」


 その固い声に、俺は顔だけをそちらに向けた。


「……どれくらいだろうな?」


 俺の返事に彼女は綺麗に描かれた眉をひそめる。

 これはまずい、と慌てて身体を起こし、居住まいを正す。背後では、テレビでやっていたプロ野球の試合の音声が流れていた。

 試合は最終回でサヨナラのチャンスという、この上なくいいところだったが、どうやらそれどころじゃない事態が起きている。


 彼女は野球の中継などまったく目に入らない様子で、冷めた声をして続けた。


「ウチら、付き合って何年?」

「ええと、五年くらい?」


 大学卒業寸前から付き合って、そこまで続いていたから、だいたいそれくらいだろう、と考える。

 この質問にどういう意図があるのかはわからなかったので、そのまま素直に年数を答えた。

 彼女は俺の答えにうなずく。どうやら正解らしい。


「緊張感、もうないよねえ?」

「そりゃあ、まあ」


 そこは否定しない。というか、いちいち緊張していられない。緊張しなければならない関係ならば、ここまで続いていない。

 俺の返答を聞いた彼女はこれ見よがしに、はーっと大きく息を吐くと、続けた。


「まあ、ええけどさあ。ほいでも、それなりに緊張せんにゃいけんときもある思うんよ」

「そう?」

「今日とか」

「今日?」


 俺は、テーブルの上に置かれたスマホを手に取って待ち受け画面を見る。

 今日はなにか予定があったか? ただの日曜日としか認識していなかった。

 しかし。


「……あっ」


 待ち受け画面に表示されている日付を見て、血の気が引く。

 しまった。完全に忘れていた。

 恐る恐る振り返ると、彼女は憤怒の形相でこちらを見ていた。よく見ると、彼女はお気に入りのワンピースを着ていて、化粧もいつもよりも念入りな気がする。


「ご、ごめん、忘れてた」

「わ、す、れ、て、たあー?」


 一文字一文字丁寧に紡いで、少し身を乗り出して責めてくる。


「はい……」


 蛇に睨まれたカエルそのものだ。

 これはもう、平身低頭で謝るしかできない。

 今日は誕生日だ。彼女の。


「覚えとる? 去年も忘れとったの」

「はい……」

「二年連続はないじゃろ」

「でも去年は、そのあと食事に行って、プレゼントも買ったよな?」

「買いましたねえ」


 答えながら彼女は、首元にあったネックレスをつまんだ。それが去年のプレゼントだった。

 これを見た瞬間、気付け、という意味だろう。


 俺はいつの間にか、きっちり正座させられていた。

 俺の前に座る彼女は腕組みをして、こちらを半目で睨みつけている。

 怖い。


「来年は絶対覚えとけって言うたよねえ?」

「聞きました……」

「ほいでなに? なんであんたはそんなにくつろいどんの?」

「すみません……」


 そうは言われても、自分の誕生日だってほとんど忘れている状態なのだ。毎年、彼女に祝いの言葉を贈られて、それで気付くことがほとんどだ。

 つまり彼女は毎年きちんと覚えている。素直に、すごい。


 俺はぽんとひとつ手を叩いて口を開く。


「あっ、じゃあ、今から」

「もうええです」


 そう一刀両断して彼女は組んでいた腕を解き、腰を浮かせた。


「釣った魚には餌をやらんタイプなんじゃね。おめでたいわ」

「いや、そんなことは」

「ここんとこ、気ぃ抜いとるふうじゃったけえね、そんな気しとったわ。覚えとったらなにも言わんとこうかぁ思うとったんじゃけど、もうええです」


 つまり、これが最後のチャンスだった、と。


「ちょっと待っ……」


 しかし彼女は俺の引き留めの言葉など聞かずさっさと立ち上がると、呆然と座る俺の前に歩み寄り腕を振り上げて、脳天に思いきりチョップをくらわした。


「痛っ!」

「死ね!」


 一言そう浴びせてきたあと、どすどすと足音を立てながら部屋を出て行く。

 バタン、と音を立てて扉が閉まると同時にテレビから、


『試合、終了ー!』


 の声が響いてきた。


『この大事な試合で負けを喫してしまいました。これは痛い敗戦です』

『エラーによる失点を取り返すことができませんでした』


 と続く。

 今考えても、いつ考えても、あれは絶妙なタイミングだったと思うので、実はそんなに悪い記憶でもない。思い出すたび、少し笑えるくらいだ。


   ◇


 その後、本通りのど真ん中で彼女に偶然に会った。広島は狭い街だ。


「久しぶり」

「おお」


 ひらひらと手を振りながら、彼女がこちらにやってきた。

 ニコニコと笑いながら俺の前に立ち、少し見上げてくる。

 あんな別れ方をした二人とは思えないが、それが嫌ではなかったし、こんな感じが当たり前のような気がした。


 彼女を見て俺が最初に思ったことは、綺麗になったな、ということだった。

 着ている服の傾向が変わったということもない。あの日彼女が着ていたお気に入りのワンピースと似たようなものをやっぱり着ていた。

 髪型も、さほど変わったようにも思えない。セミロングのストレートのままだ。

 化粧の仕方もそう変化があるようには思えない。

 けれど、綺麗になっていた。


「元気しとったん?」

「ああ、そっちは?」

「ウチも元気。どしたん、買い物?」

「いや、待ち合わせ」

「彼女?」


 にやりと笑って彼女が訊いてきた。俺は肩をすくめる。


「残念ながら、大学のゼミで一緒だったヤツらとの飲み会がこれからあるんだ。彼女はあれからいないよ」

「なんじゃあ、つまらんねえ」


 くつくつと喉の奥で笑う。

 それから少し考えるような素振りをしてから、小さく、囁くような声音で彼女はもじもじとしながら話し始めた。


「実はねえ、ちょっと謝りたかったんじゃ。会えてよかったわ」

「謝る?」


 俺はその発言に首を傾げる。


「俺を振ったこと?」

「それは悪いと思うとらん」


 あはは、と笑いながらそんなことを答える。

 その笑顔のまま、彼女は続けた。


「いや、死ね、は言い過ぎたなあ、思うて。ごめんね」

「ああ、いいよ、別に」

「まあ言われてもしょーがないけえね」


 そう返してきて、また笑う。

 けれどそのあとすぐに目を伏せた。


「実はウチ、今度、結婚するんよ」

「えっ、そうか。おめでとう」


 反射的に声が出た。

 そして納得もした。だから綺麗になったのか。

 彼女は俺の祝いの言葉を聞くと、小さくふっと笑う。


「その前に謝れてよかったわ。ちょっと引っかかっとったんよ」

「そんなこと気にしてたのか」

「まあね。心残りは綺麗に清算して結婚したいけえ」


 見れば、彼女の左手の薬指には指輪がある。割と大ぶりな透明な石が光っていた。


「その人は、誕生日を忘れない?」

「いや、忘れとるわ。じゃけえ一週間くらい前から催促しよる」


 そう答えて照れたように口角を上げる。少し頬が紅潮したように見えた。


「はあサプライズとかが嬉しいような歳じゃあないけえね」

「そうか」


 そうは言うけれど、単純に、その男ならばそれでいい、というだけの話なのだろう。


「いい人なんだな」


 どうやら彼女は自分を幸せにしてくれる人と巡り会えたらしい。

 それは彼女の表情を見ればわかる。


「いいな」


 ぽつりと呟いたその言葉に、本当に羨望の響きが含まれていたようで、自分でも自分の声音に驚く。

 彼女は何度か目を瞬かせてから笑みを浮かべた。


「あんたもよ彼女作りんさいや」

「前の彼女が良い女だったから、目が肥えすぎちゃって見つけられないんだよ」


 その返答を聞いて、じっと俺の顔を見つめたあと、彼女は自嘲的に口の端を上げる。


「いつの間に、そんなん言えるようになったん?」

「いや、自然に出てきた」

「ふうん」


 彼女はそう返事しながら腕時計を見る。


「ああ、早よ行かんと」

「そう」

「じゃあ、ウチ行くわ。ほんま、会えてよかったわ」

「お幸せに」

「ありがと」


 そう応えて、彼女は手を振りながら立ち去って行った。

 俺はその背中を見送りながら、少しだけ、なんとなくだが寂しいような気持ちになったものだった。

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