このよに鬼の生るることを

栄三五

 伊代が用意してくれた一汁一菜の朝餉の前に座り、手を合わせる。味噌汁の具は何かと汁物の椀を開けたところで、伊代が唐突に口を開いた。


わたくしと離縁してください」


 どうやら、今日の味噌汁の具は葱とわかめのようだった。味噌汁に入ったわかめの緑色が椀の底に沈んだり、浮かんだりを繰り返している。


「なぜ、そんな……離縁など……」

「あなた様から言っていただかないと別れることができません」


 離縁は夫の側から申し入れるものだ。妻の一存ではできないし、ましてや妻の側から申し出るというのはそうないことだ。


 動揺から醒めやらぬ中、父母がこの部屋にいないことに安堵した。年老いた父母は隣の部屋で先に朝餉を食べている。同じ部屋にいて、今の会話を聞かれでもしたら卒倒してしまうかもしれない。


 向かい合って座ったまま、こちらを見つめている伊代の切れ長の目からは何の感情も読み取れない。

 半年共に過ごして分かったが、伊代はそもそもの喜怒哀楽が薄いがある。

 驚いて目を見開くなどということは数えるほどしかなく、笑う時はうっすら口角が上がる程度。泣いている姿など想像もできない。

 そんな伊代の考えは今をもって読み取り辛く、彼女が離縁を望む理由など及びもつかない。


「嫌ですか?」

「当たり前だろう!」

「……であれば」

「待っておくれ!」


 彼女が言い終わる前に、隣の部屋の襖が勢いよく開き、父母が飛び出してきた。その勢いのまま四つん這いになって足をるようにして伊代に駆け寄ってゆく。

どうやら襖越しに耳をそばだてていたらしい。


「待っておくれ、伊代! 桃太郎を見捨てないでおくれ!」


 伊代は、着物の裾にしがみつきながら、深く刻まれた皺に沿って涙を流す父母を振り払うこともできず、「いえ、その……」と言葉にならない弁解を繰り返している。


 こうなっては話を続けるわけにもゆかず、儂も加わって父母を宥めて何とか落ち着かせてから自室へ連れて行くまでにしばらくかかった。

 二人して朝餉の前まで戻ってくる頃には、飯から湯気は消え、部屋にしんと静寂が満ちていた。


 どう切り出すか迷っていると、伊代は自分の朝餉を下げ始め、背を向けたまま口を開いた。


「洗濯をしてから畑に行って参ります」

「儂も食べ終わったら行こう」

「いいえ、あなた様は鬼退治へ向かわれる身のはず。お休みになっていてください」


 背を向けたままそう返した伊代はこちらを一瞥もせず戸口から出て行った。


 目の前には儂の分の、殆ど手を付けていない朝餉が残っている。

 微かな期待を胸に口に含んだ強飯こわいいはもうすっかり冷めきっていて、ぼそぼそとしていた。


  ◇


 家の前には小さな川が流れている。


 真偽の程は分からぬが、儂は母がこの川で洗濯をしているときに流れてきた桃から生まれてきたらしい。少なくとも父母はかつて周囲にそう吹聴しており、生まれ持った刃をも通さぬ体に、獣をも従える怪力無双という触れ込みで桃太郎という名は近隣の村々に知れ渡っていった。

 近頃では儂の怪力無双を聞きつけた大名たっての頼みで、鬼退治に向かうことになった。


 世が荒れると魑魅魍魎が跋扈する、というのは伊代から聞いた話だ。

 将軍が足利某に代わってから戦が増え、戦が増えれば世が荒れ、世が荒れれば鬼が増える、そういう道理があるらしい。

 此度、大名の兵たちが鬼退治に手を焼いているらしく、鬼退治に加わって欲しいと儂に白羽の矢が立った。散々迷った挙句に承諾したのだが、今思えば伊代の機嫌はその頃から悪かった気もする。


 朝餉を食べ終わり外へ出ると、伊代は既に着物の裾を結び、川の水で着物を踏み洗いしていた。身も凍るような秋の冷水に足を突っ込んでいるにも関わらず、その動きは規則正しく、寒さを感じさせない。


 半年前、村にやってきた頃の伊代は何もあらわさぬ女であった。


 鬼に襲われた集落の生き残りだそうで、行商人を頼ってこの村にやって来た。

 当初は境遇もあり、村の者も同情していたのだが、喜怒哀楽を欠片も示さず、言葉すら碌に話さない伊代を次第に持て余すようになり、半ば押し付けられるように村はずれの儂の家で暮らすようになった。


 押し付けられたとて扱いに困るのは儂も同じこと。家に来てしばらくは、互いに黙々と野良仕事をこなすだけであったが、それが変わったのはある夜のことだった。

 夜中にうなされて飛び起き、眠れぬままの儂を見かねたのか、伊代は儂が眠りにつくまでぽつりぽつりと話しをするようになった。

 日々の暮らしの役に立つようなものではない。母から教わったという歌謡から聞いたことのない草紙、果ては世相のことなどを寝物語のように語り、儂は瞼が重くなるまでそれを聞いていた。


 相変わらず自分自身のことはよく話さない女であったが、母との思い出を交えた語りから、伊代が確かに愛を受けていたことは間違いがなく、またそういったやりとりを大切にする繊細な気質であるとわかった。


 しばらくたつと、毎夜のように言葉を交わすだけでなく、野良仕事の際もぽつりぽつりと話すようになった。日が過ぎるごとに伊代の為人ひととなりに信頼を向けるようになり、夏を迎えるころに結婚を申し込んだ。 


 しかし、話す様になったとはいっても伊代は言葉少なく、どこか自分を抑えているようなところがあった。思えば、儂が鬼退治へ向かうことを告げた時も押し黙ったままだった。

 伊代は鬼のせいで家族を失っているのだ。儂が鬼退治に向かうと聞いて、再び家族を失う恐怖に襲われていても不思議ではない。そのことに今更気づき、自分の考えの浅さを恥じた。


 洗濯をしている伊代が気づくよう音を立てて近づくが、平生へいぜいと変わらぬ様子で洗濯をしており、こちらに目線一つ向けない。


「伊代、鬼退治に行くのを心配しておるのか? そうであればこの身に怪我など負わぬから心配は――」

「そちらの事ではありません」


 ぴしゃりと言われて、困惑した。

 踏み洗いを終えた伊代が、着物を擦り合わせて細かい汚れを落とし始めたところで、藪の奥から村の童が現れた。藪の向こうには小道があり村へと続いている。童はおずおずと此方に近づき、野菜の入った籠を差し出した。


祖母ばあちゃんが、持って行けって」

「いいというのに……」

「大水で畝が壊れたから直して欲しい、って」

「分かった。このあと向かおう」


 籠を受け取る際、童はちらりと洗濯物を擦り合わせている伊代に目をやると、ぼそりと呟いた。


鬼女おにおんな……」


 童の言葉に伊代は一瞬洗濯物を擦る手を止めたが、またすぐに洗濯物を擦り始めた。


「こら、人を指して鬼とは何事か」

昼日中ひるひなか、鬼は人に化けて村に忍び込むんだって、祖父じいちゃんが言ってた」

「そんなことあるわけがなかろう!」


 以前から、日中に鬼が人に化けて村へやってくるという、ありもしない噂がたったままであった。童も童の祖父もその噂を鵜呑みにしているらしい。

 張り上げた声に驚いた童は目を丸くして、元来た道の方へ駆けていった。


 ため息をつく儂の隣で、洗濯物を干し始めていた伊代が手を見つめていた。つられて覗き込むと水で濡れた掌に石が載っている。


「川底に落ちていました。装飾品に見えたので拾ったのですが」


 伊代の掌には、紐を通すような穴が開いた指先ほどの大きさの白い石があった。


 背筋が泡立った。

 よく洗って、遠くへ投げて捨てた気でいた。

 伊代の掌にあるそれをひっ掴んで、力いっぱい川上の方へ放り投げた。


「蛍石、捨ててよろしいのですか?」

「知ってるのか」

「行商から闇夜で光る珍しい石だと見せてもらったことがあります」

「ただの石塊いしくれであろう」


 儂がそう答えると、伊代は儂との会話などなかったかのように洗濯物を干す仕事に戻った。


「畑に行って参ります」


 洗い物を干し終えた伊代は、そう言って一人畑の方へ向かって行った。

 ぴんと張られた紐に、洗ったばかりの二人の着物が触れ合わないよう吊られている。風に吹かれてはためく着物の袖の隙間から、畑に向かう彼女の背中が見えた。

遠ざかってゆく背中に、嫌でも伊代の心が既に自分から離れてしまっていることを認めるほかなかった。


  ◇


 夜、寝床から跳ねるように飛び起きた。

 久方ぶりにうなされていたらしい。額に滲む脂汗が気色悪い。

 川で顔を洗おうと、隣で寝ている伊代を起こさないように静かに外へ出た。


 今宵は満月のはずだが雲が分厚く月明かりは一滴ひとしずくも届かない。

 暗闇の中で川のせせらぎを頼りに歩き、川べりに辿り着いた。

 跪き、冷たい流水を掬い上げて、顔に浴びせる。水と共に舞った冷気を吸いこむように深く息を吸ったところで、後ろから声がかかった。


「動かないでください」


 伊代の声だ。起こしてしまったらしい。腰のあたりに何かを当てられている感覚がある。


「刃物など刺さらない、とお思いですか? この包丁には私の験力が籠っています。鋼の刃を通さぬあなた様の体も無事では済まないでしょう」

 伊代の言葉から状況を飲み込むのに少しかかった。

 どうやら刃物を突き付けられているらしい。験力という言葉は初めて聞くが、腰に当てられた刃からは言い知れない、何か圧力のようなものが迸っているように感じる。


「待て、どういうことだ? なぜ刃物を持っている?」


 今朝のことで怒っているにしても、刃物を持ち出される程とは思えない。だが、問いただして返ってきたのは要領を得ない答えだった。


「私は、鬼をあやめたいのです」

「鬼?」

「はい。あなた様、鬼とはいったい何だと思いますか?」


 会話の意図が全く分からず沈黙する。思ったままを答えるわけにもゆかない。

 口を開かない儂に痺れを切らしたのか、伊代はそのまま滔々と話し続けた。


「私の父は、鬼のような人でした。日も沈まぬうちから酒を飲んで、赤ら顔で怒鳴り散らしながら母や私を殴るような人でした。月に数度の夜討ちの日は日没の後、兜と甲冑を着込み、近くの村へ夜襲に向かいました。闇に消えていく父の兜の装飾はまるで鬼の角のようでした」


 語り続ける伊代はいつになく饒舌で、胸がざわついた。


「明け方、父たちは夜襲を終え、島に帰ってきます。ある時、気づきました。手に抱えている兜にも着込んだ鎧にも返り血の一つもついていないのです。おそらく島に戻る前に毎度、川で洗っていたのでしょう。もしかすると、武具を少しでも長く使うための何某なにがしかの配慮だったのかもしれません。でも、私には、それは島の女子供の前に人として戻ってくるための儀式のように思えました。父の、僅かにしか垣間見ることのできなかった人の部分だったように思えたのです」


 での光景が脳裏に蘇る。吸った空気が重く、もたつく。息をせねば。


 父親。家族。鬼。踏みしめた砂利の感触。波の音。頭から被った生暖かい――。


 青い燐光が幻影の様に目の前に浮かんだ気がした。

 浅い呼吸を繰り返すごとに、川底に沈んだはずの蛍石の青白い光が眼前でちかちかと瞬く。


 伊代は白刃を振り下ろすように、それを告げた。


「私は、鬼ヶ島のです」

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