コットンキャンディ(No.18)

ユザ

コットンキャンディ

 図書館にいつも君はいる。

 日当たりのいい窓際にある横長の机の真ん中で、君はいつも突っ伏したまま眠っている。制服の上から栗色のカーディガンを羽織り、顔を横に向けて耳の下にはピンク色の本格的な枕を敷いている。きっと自宅でも使っているものだろう。それをわざわざ図書館に持参するあたり、彼女の睡眠に対する本気度が窺える。あるいはただの変わり者なのか。

 僕はいつも通り彼女の隣の席に腰を下ろす。石上玄一郎いしがみげんいちろうの著書、『輪廻と転生〜死後の世界の探求〜』を片手に。

 それはかつて僕が高校生の時代に寝る間も惜しんで読み込んでいた小説だった。それを今になって持ち歩くようになったのは、少なくとも辻褄の合わない偶然なんかではないような気がしていた。

 空調の効きが悪い館内には厚着をしている学生の姿が多くみられた。12月も目前に差し迫り、外の空気はついに太陽に見限られてしまったかのように冷え込んでいた。必然的に日当たりのいい窓際の席には人が集まる。彼らは各自真剣な面持ちで年明けの高校(あるいは大学)受験に向け、黙々と問題集を解いていた。

 紙の上を走り回るペンの音があちこちから聞こえる。その光景はまるで互いに牽制し合っているかのようだった。お願いだから邪魔しないでねという緊張感がそこには漂う。どちらかといえば、殺伐とした雰囲気。

 僕はそんな空気の中でただ一人、勉強もせずに息を潜めて本を読んでいた。こんな空気の中でただ一人、呑気に熟睡している彼女の隣で。

 一時間ほど過ぎたあたりで僕は本を閉じ、眠ったままの彼女を置いて席を立った。とくに何をするわけでもなく、館内をただ目的もなく彷徨い歩き、そしてそれに飽きるとまた同じ席に戻った。物音を一切立てなかったとはいえ、しばらく席を離れていたことも、たったいま席に戻ってきたことも、誰一人として気付く人がいないこの状況に僕は改めて疎外感を感じる。

 窓の外を眺めた。青の濃度が薄い空に平べったい雲が浮かんでいる。延べ棒でのばしたパン生地のように弾力があって、綿菓子のように密度がない。そんな不思議な雲だった。彼らはああ見えて実体が掴めない。そのほとんどをとても小さな水滴やとても小さな氷の粒によってつくられているらしい。雲の上に乗ってみたいという誰しもが一度は思い描きそうな夢は、実際のところただの自殺行為に値する。

 それに初めて気付いたときの僕は子供ながらにかなりのショックを受けた。雲の上には人間とは違う高貴な生き物が住んでいて、地上とは比べものにならないほど文明が栄えているに違いない。そんな子供じみた幻想はいつしか引き出しの手の届かない奥の方へと仕舞われていた。

 今更その事実が覆ることもない。綿菓子を食べても腹が満たされないように、それはもはや無いものに等しいのだ。いくら綺麗な形をしていようが、鮮明な輪郭に囲われていようが、僕は二度とそれに触ることはできない。

 ついため息が漏れる。

 僕は雲が嫌いだった。無責任に都合のいい夢を見せる雲が、大嫌いだった。

「おはよう、おじさん」

 彼女の声に何人かの手が止まった。振り向いた彼らの眉間にはそれぞれ同じような皺が刻まれていた。彼女は枕に埋めていた頭をゆっくりと起こし、煩わしい視線の数々をはね除けるかのように大きく背伸びをしてみせた。

「ため息なんて吐いてどうかしたの?」、彼女はカーディガンの袖口から細長い指を覗かせ、その指で軽く目の下をこすりながらそう尋ねた。

 僕は鼻の先に人差し指を当て、すぐ横の柱に貼ってあった張り紙を見ろと彼女に促すように顎をしゃくった。『館内ではお静かに!』とそこには太文字で記されている。「みんなの迷惑になってるから」と僕は小声で言った。

「平気だよ。私、周りの目とか気にならないタイプだから」、彼女はあっけらかんとした様子でそう言うと、ニカッと白い歯を覗かせた。なんだか機嫌が良さそうだ。いい夢でも見ていたのかもしれない。それから彼女はピンク色の枕をリュックの中にぎゅうぎゅうに押し込み、それに押し出されるかのように中から現れたサクマドロップスの缶を机上に置いた。「それよりおじさん、ちゃんと来てくれたんだね」

 心なしか僕には彼女が嬉しそうにしているように見えた。きっと気のせいだろう。

「おじさんはどうしていつもここにいるの?」と彼女は尋ねた。

「さあ、どうしてだろうな。自分でも本当はよくわからないんだ」

「もしかして私のストーカーだったり」

 彼女はそう言って緑色の缶を縦に振り、飴玉をひとつ手に取ってそれを勢いよく口の中へ放った。懐かしいものを持っているなと思いながら僕はその横顔を無断で見つめていた。その行為に許可がいるわけでもないことはわかっているが、いい歳した大人がじっと女子高生の横顔を見つめていれば、それだけでも如何わしい要素が勝手に付随されてしまう。もちろん仮に向こう側の同意を得ていたとしてもそれは変わらない。むしろ、そっちの方が卑猥な背景を連想させてしまう場合だってある。

 とはいえ彼女が優れた容姿を兼ね備えているという点においては疑いようのない事実だった。上向いた長い睫毛が印象的で、少しでも爪を立ててしまえばすぐにでもその緻密な繊維がほつれてしまいそうな白い肌は絹のようで美しかった。加えてその目鼻立ちは互いが互いを補完しあうような絶妙なバランスで保たれ、大きさも文句のつけようがないくらいに丁度よかった。そして裁断機で全体をばつんとカットしたような切りっぱなしの黒髪ボブは、その幼げで丸っぽい輪郭に大人っぽさという凜とした要素を付け加えていた。少なくとも、制服を着ていなければ女子高校生には見えない。言うまでもなく、いい意味で。

「そんなわけないだろ」と僕は軽く首を振った。「今日もたまたま君が僕の隣に居ただけで、それ以上の意味はない」

「怪しい」と言って彼女は警戒するように目を細めた。長い睫毛がお辞儀をするように下を向く。そのわずかな隙間からこちらの深層心理でも覗き込むかのように視線を送った。「おじさんってまさかロリコンなの?」

「違うから」と僕は即座に否定した。わりと大きな声が出てしまう。周りの学生たちがその声に反応するようなことはなかったが、彼女は隣でくすくすと笑っていた。

「おじさんってムキになるとそんな顔するんだね」

 学生のうちの何人かはこちらを怪訝そうな顔で観察していた。あるいは心配していたのかもしれない。彼らの視線はいつも彼女の方に向けられていた。不憫とも軽蔑とも読みとれそうな眼差しがいくつも点在している。おそらく彼らはせっかく顔立ちの整った彼女の内面的な性質を憂いているのだろう。

 可愛いのに、もったいない──。

 想像するにそんなところだろうか。きっと彼女は「頭のおかしな人」だとみなされていたに違いなかった。

 世間とは、常識というレールから外れてしまった者のことをすぐに異常だと認定する集合体である。しかもその認定証を当人の手元に書面で郵送してくれるほど親切ではない。彼らのほとんどは異常だとみなした者のことをそのまま放置し、何も言わずに距離をとる。そして極太の油性ペンか何かで足元に線を引き、ここから先は入ってはいけないと記された看板を立て、誰もあそこには近寄らないようにと周りにも注意を促す。彼らは遠く離れた安全地帯から異常者に石を投げ、その話題を肴に周囲と良好な人間関係を構築する。

 僕はそんな視線が気に食わなかった。何も知らないくせに、といつも思っていた。とはいえ今更僕にはこの状況をどう対処するべきなのかもいまいちわからなかった。少なくとも彼女の声が勉強している彼らに迷惑をかけていることは明らかだったし、僕がいくら彼女に静かにするように促しても、彼女がそれを聞き入れることはなかった。この年代の女の子は大抵が反抗期に突入している。

「また今日も難しそうな本を読んでるね」と彼女は言い、こちらの手元を覗き込んだ。僕はそれに肯き、手に持っていた本を彼女の目の前に滑らせた。

「時間があるときに君も一度読んでみるといい」

 すると彼女は不意に不満げな表情を浮かべた。「ねえ、さっきからその『君』って呼び方やめてくれない? 私にはちゃんと『皐月さつき』っていう大事な名前があるんだから」

 彼女の名前はずいぶんと前から知っていた。

「ああ、すまない。そうだったね」

 そこで一度話が途切れると、周りの学生たちも次第にこちらへの興味を失くし、ペンを握り始めた。皐月はしばらく僕が差し出した本の表紙をじっと眺めていたが、それを手に取ろうとはしなかった。

「この本ってそんなに面白いの?」

「意外に面白いよ」と僕は言った。そして一向に触れられることのなかったその可哀想な本を手元に回収した。ほどなくして彼女の目は本の表紙から切り離され、おもむろにその視線は窓の外に向けられた。

「おじさんって雲は好き?」と彼女は尋ねた。

 僕はその質問に少しだけ驚いた。つい先ほどまで囚われていた思考をまんま読み取られてしまったのだと錯覚し、僕は慌てて彼女に聞き返す。「もしかして顔に何か書いてあった?」

 当然、彼女はきょとんとした顔をこちらに向けた。なんのこと?

「やっぱりなんでもない」と僕は首を振り、気を取り直してさっきの質問に答える。「雲はあまり好きじゃないんだ」

「それはどうして?」

「触れないとわかっているから」

 そう言って僕は沈黙を置いた。それからまた口を開く。

「そのくせ、雲は僕らに都合のいい夢を見せようとするだろう?」

「都合のいい夢を見るのは嫌い?」と皐月は尋ねた。

「一瞬でも期待してしまうのが嫌なんだ。それが叶わないとわかった時、途方もなく虚しくなってしまうから」

 ふうん、と彼女は感情が込もっていない返事をした。

 僕はそのどこか不満げな横顔に訊く。

「きみ……じゃなくて、皐月ちゃんは雲が好きなのかい?」、危ないところだった。僕は彼女の顔色を確認し、静かに安堵の息を吐く。

 彼女はこちらを振り向かずに肯いた。「私は好きだよ。たとえ触れないとわかっていても、夢を見せてくれるからね。『もしかしたら今日は触れるかもしれない』って思えるだけで気持ちが楽になる」

 そっか、と今度は僕が覇気のない声を漏らした。彼女と会話していると、時々自分だけが一方的に何かを強く求めすぎているような気がしてきて、我儘わがままなことを言う子供みたいな自分がどうしようもなく惨めになってしまう。

「おじさんってさ、子供はいる?」と皐月が尋ねた。

 僕は力強く肯く。「ああ、皐月ちゃんみたいに可愛い娘がいるよ」

「その言い方だと、どうやら溺愛してるようだね」、彼女の頬が僅かに緩んだ。

「もちろんさ」と言って僕は苦笑いを浮かべる。「でも向こうはどう思ってるかわからない。もしかすると彼女は僕のことなんてどうとも思ってないのかもしれない。だからそれがたまに怖くなったりもするんだ」

 皐月は意外そうな顔で振り返った。「おじさんでも怖いものってあるんだね」

「当然だよ。人の目に映らないものほど怖いものはない」

「言い得て妙だね」と彼女は笑った。

「まったくだよ」と僕も笑った。

 それから二人はともに話すきっかけを失ったかのように口を噤んだ。しばらく底の浅い沈黙が緩やかに流れ、皐月はふとそこへ石を投げ入れるように口を開いた。

「向こうがおじさんのことをどう思ってるのか、訊いてみる気はないの?」

 僕は首を振った。「ないね。まともな回答が返ってくるとは思えない」

「どうして?」と彼女は小首を傾げた。

「娘っていうのはおそらく、いや、どうしたって父親という生き物を嫌う性質を備えているような気がする」

「もしかして反抗期なのかな?」

「どうだろう」と僕は言った。「結局、あの子の面倒を見てあげることができなかったから……」

 皐月は何も言わなかった。音を立てずに口の中で飴玉を転がし、たまにそれで頬を膨らませてみせる。何をしている光景も、彼女の場合は切り取るとそれだけで絵になった。制服を着こなす彼女がそこに居るだけで、そこは青春の一ページになってくれる。

 僕は自身の身体をくまなく点検するように胸に目を落とした。そこでようやく自分がくたくたで汚れきったスーツを身にまとい、加えて片方しか靴を履いていなかったことを思い出した。左手首に巻いた腕時計は円盤が潰れ、まったく機能していない。僕はいつからか時間という概念からも見放されていたのかもしれない。長年愛用していたチャコールグレーのスーツも、今ではただのボロ雑巾のように擦り切れていた。

 僕は窓の外を眺める。どんくさい雲がひとつ空に取り残されていた。

 そいつは僕に似ている気がした。風に流されていく他の雲たちをじっと遠くから眺めることしかできずに、いまさら風に身を委ねることも、肌で感じ取ることも許されない。そいつと僕は現実とは確実に切り離されてしまったこの世界で、何もせずにただ居座っていることだけを許されていた。行くあてもなく、帰る術も持たずに、延々とそこに居続ける。そして右から来たものをただ左へ受け流す。昔、そんなことを芸人の誰かが面白可笑しく歌っていたが、僕はまさにそれだけを繰りかえしていた。退屈以外の何物でもない。

 僕はその場から館内をぐるりと見渡し、黙々と勉強に励む未来ある学生たちを密かに羨んだ。彼らはもれなく時間という川に流されている。手に汗握るような緊迫した急流の中を抜け、鳥のせせらぎが聞こえる安らかな森の中を抜け、一歩一歩、広大な海に向かって運ばれていく。その行き着く先に期待しながら「イマ」という時間を必死に生きながらえている彼らの姿は、輝いて見える。

「うちの家もおじさんちと似たようなもんなんだよね」と皐月は言った。

 僕は黙ったままその話の続きを待った。すると彼女もこちらの意図を汲み取ったかのようにゆっくりと言葉を紡いだ。

「うちのパパね、小さい頃に死んじゃったの。いつも通り仕事に出かけた後、交通事故に巻き込まれたんだって。まだ私が三歳の時だった」、彼女はひと呼吸置いて続けた。「だから顔も全くわかんないし、パパに関する記憶はひとつも残ってないの」

 淡白に話す彼女の言葉が、僕の胸を無作為に裂いていく。血がぶわっと噴き上がる演出が頭に浮かぶ。でもきっと彼女はその血に気付かない。

「昔撮った家族写真のひとつも残ってないのかい?」と僕は訊いた。

 ううん、と彼女は小さく首を振る。「たぶん残ってる。でも、今更そんなものを見せてだなんてとてもじゃないけど頼めない」

「どうして?」

 皐月は一瞬だけ躊躇う素振りをみせ、それから口を開いた。「お母さん、再婚したの」

 そうなんだ、と僕は相槌を打つ。

「私が小学生になる前のことだったと思う。お母さんと同じ職場で働いてた五つ歳上の先輩で、向こうにも一度だけ過去に結婚をしていた経験があったの。だから二人はどこかで惹かれあったのかもしれない」、彼女はそこで数秒の間を空ける。「決して悪い人じゃないの。すごく優しいし、頭が良くて頼り甲斐もあるし、そして何より私とお母さんのことを大事にしてくれる。そんな父親の前で、死んじゃったパパの話なんてできない。仮にそのことを切り出せば、きっとお父さんは嫌な顔一つしないでその話を聞いてくれるから。でもそれはきっと、知らないところでお父さんを傷つけてしまうかもしれない……」

 尻すぼみに小さくなっていく彼女の声に耳を傾け、僕は何を言おうか迷った挙句、結局は彼女を気遣う言葉を何一つとして言ってあげられなかった。

 君は優しいんだね、偉いよ、その判断は賢明だと思う、きっとそんな言葉でよかったのだ。でも僕はつい違う言葉を選んでしまう。

「君のお母さんはとっくに前に進んでいるんだね」

「すごく辛かったんだと思うよ」と彼女は言った。「だから支えてくれる誰かが必要だったんだよ。私はまだ小さかったから何もしてあげられないし、とにかくこれからも生きていかなきゃならない。だからママは私のことを幼稚園に預けて、仕事を始めたの。簿記か何かの資格を取ってたみたいだから、知り合いの印刷会社で事務員として雇ってもらったんだって。今のお父さんはそこの営業部で課長をしてたって言ってた」

 へえ、そうなんだ。自然と顔が俯く。

 隣でからんからんとサクマドロップスの缶の音が鳴る。やがて僕の眼下に飴玉がひとつ差し出された。メロン味だろうか。机の上にじかで置かれたその緑色で楕円形の飴玉を僕はじっと見つめた。すぐに味の見当はついたものの、自分からそれに手を伸ばす気にはなれなかった。

「それあげるよ」と皐月は言った。

 僕は何も言わずに首を振った。

「いらないの?」

 僕は肯く。

「そっか」と皐月は意外にもあっけなく引き下がった。「まあ、さすがに食べられないよね。だっておじさんはガム噛んでるもんね」、彼女は寂しそうにボソッと呟いた。

 僕はつい顔を上げた。彼女の口から放たれたその言葉を頭の中で噛み砕く。当然、その言葉がを示すものではないということはすぐにわかった。第一、僕の口の中には何も入っていないのだ。僕はダイイングメッセージを解読する名探偵のように、その何気ない一言から真意を探った。

 おじさんはガム噛んでるもんね──。

 何度もその言葉を咀嚼しているうちに奇妙な錯覚に陥ってしまう。もしかすると、僕は自分でもよくわからないうちにガムを噛んでいたのかもしれない。とすれば僕はずいぶんと長い間、早々に味気のしなくなったガムを未練がましく噛み続けていたことになる。

 沈黙に区切りをつけるように皐月が口を開いた。「おじさんはきっとそのガムの味をいまだに忘れたくないんじゃないかな」

 ああ、と僕は肯く。不思議と彼女の言いたいことがなんとなくわかってきた。「そうなのかもしれない」

 あるいは、と僕は言葉を続けた。ふと頭に浮かんだ推測を滑り台に乗せるように勢いそのまま言葉を前に押し出す。「僕はその味を忘れたくないからじゃなくて、噛み続けているのかもしれない」

 我ながら口にしていて感触がよかった。声に出したそばからその言葉をもう一度頭の中で反芻する。今度は欠けていた部分にパズルのピースがカチッとはまる音がした。

 とはいえ物事は何一つとして進展していない。完成されたパズルを目の前に、僕はこれから何をすればよいのかもわからなかった。この絵をこの先どうするべきなのか、そしてどうしたいのか。たぶん僕にはその

 ひとしきりそれについて考えたあと、僕は舌の先に意識を向けた。当然だが、やはりガムの味は覚えていなかった。いくら綿密な点検を繰り返しても、その結果は変わりそうにない。夜空に浮かぶ北斗七星を見つけるのとはわけが違う。砂漠の中で落とした硬貨を探し出そうとしているものなのだ。自分が出口の見えない暗闇の中に放たれてしまっていることだけははっきりとわかった。ただ、その事実をたったいま自覚してしまった分、いまさら足取りは重くなる。果たして僕はガムの味を思い出せるのだろうか、そんな不安に足がすくんだ。

「おじさんはすでにそのガムの味を忘れてしまっているわけだ」、皐月はそう口にしながら宙のある一点をぼうっと眺めていた。そしてそれ以上何を語るわけでもなく、ただ押し黙ってしばらく何かを考えていた。

「ずいぶんと昔のことだからね」と僕はつい言い訳のような言葉を口にする。

「私もそのうち大事なものを忘れてしまうのかな」と彼女は言った。「次々に新しいもので更新されていって、あっという間に新しいもので机の上はいっぱいになって、それによってこぼしてしまったものには気付きもしないで、いつの間にか失っていることも忘れていて……。いまの私は過去があってこその私であることに変わりはない。でも、その過去をないがしろにしてしまった瞬間、きっと私はこれまでの私を全否定してしまうことになるのかもしれない。楽しかった思い出も、嬉しかった思い出も、辛かった思い出も、苦しかった思い出も、全然ちがうものに書き換えてしまうかもしれない。それってすごく、寂しいことだと思わない?」

 皐月は力なく微笑んだ。

 その刹那、僕は目を奪われた。そのきめ細かい白い肌に、上向きの長い睫毛に、そして今にも涙が溢れてしまいそうな潤んだ瞳に、吸い込まれるように目が離せなかった。

 どこからかひんやりとした風が吹き込み、皐月の短い後ろ髪を風鈴が揺れるようにパタパタと靡かせる。どことなくの片鱗を帯びていたその光景には見覚えがあった。鼻先をかすめる紙の匂い。効きの悪い空調設備。ところどころが日に焼けてしまった『館内ではお静かに!』という貼り紙。この場所は

 誰かが撮った写真よりも美しく、誰かが描いた絵画よりも胸を打つその光景を目にした瞬間、僕はたしかに恋に落ちた。あの日、あの時、この場所で、僕は君のお母さんに好きだと告白した。君はそれを何も知らない。僕の正体が誰なのかも、君の父親が誰なのかも、きっとこの先も知ることはない。

 それでいい。その方がいい。

「忘れることは決して悪いことじゃない」と僕は言った。自分でもわかる。明らかに声が震えていた。きっと僕はこれから言いたくないことを口にしてしまうんだろう。しかし親というのは、どんなときでも子供を前に導いてあげなければならない。僕は娘の顔をまっすぐに見つめた。

「皐月ちゃんは何も心配しなくていい。君はお母さんのように前に進むことができる。だから難しいことは何も考えず、今ある人生を大事に生きなさい。大丈夫。天国にいる君のお父さんだってそれを願ってるんだから」

 言い終えた僕の中には一定の充足感のようなものがあった。

 しかしその直後に、皐月は何も言わずに席を立ってしまった。何か余計なことを口にしてしまっただろうか。偉そうな口を叩くなと嫌気がさしたのだろうか。そんな不安がたちまち僕の頭を占拠する。彼女はそれからしばらく戻ってこなかった。その時間が途方もなく長く感じられる。

 その間も周りの学生たちは皆お構いなく勉強に集中していた。彼女が離席していることに気付いているのかほんの数人だったが、彼らの中で取り残された僕に目を向ける者は一人もいなかった。当然、一度死んでしまった人間の姿は誰の目にも映らない。

 やがて皐月が席に戻ってくると、彼女は何の説明もなくそそくさと帰り支度を始めてリュックを背負った。突然のことで状況を見極めようとする僕に彼女は言った。

「おじさんのせいで少しだけ目が覚めちゃったよ」

 一体何の話をしてるんだい? と声をかけたかった。しかし、薄らとその目の周りを赤く染めながらも何かを振り切ったような笑みを浮かべてこちらを見下ろす彼女を前にすると、僕は何も言葉が出てこなかった。

「じゃあそろそろ戻るね」と皐月は言った。「バイバイ、おじさん」

 僕は咄嗟に腰を浮かせ、背を向けて歩き出した娘の肩に手を伸ばす。何かしなければいけないという本能が働き、緊迫した焦りだけが膨らんでいく。しかしその手は彼女の身体をすり抜けてしまった。やはり雲は掴めそうにない。彼女はもう二度とこちらを振り返ってはくれないような気がした。

 僕は何もできずにその場に立ち尽くしていた。みるみるうちに彼女の背中が遠のいていく。何故か声は出なかった。途端に喉が絞り上げられてしまったように息が詰まり、焼けるように胸が痛む。そこにあるはずのない脈拍を感じた。皮肉にもいまさら生きた心地がしてしまう。満ち満ちた後悔はちゃんと重たかった。

 僕は最後の最後に判断を間違えてしまったのかもしれない。いまさら格好つけて父親らしいことを言うべきではなかった。それよりも自分が父親だと打ち明けていれば、皐月はまだそばに残ってくれたのかもしれない。そんな独りよがりなことばかりが頭に浮かぶ。

「おじさんっ」

 遠くで皐月の声がした。振り返った彼女はこちらに向かって「最後にひとつだけいいこと教えてあげる」と大声で叫ぶ。

 きっと彼女はいつかこうなることをあらかじめ知っていたのかもしれない。あるいは、最初からこの世界の全ては彼女の

 遠目でもわかる。彼女の顔は明らかに涙で溺れていた。それでも彼女は笑って最期を迎えようとしていた。

「あなたの娘さんは、あなたのことが大好きだって言ってたよ」、彼女はそれだけを言って大きく手を振った。

 僕は溢れ出そうになった涙を咄嗟に堪え、もう二度と「またね」とは言ってくれない娘に向かってぐちゃぐちゃに笑う。

 父親というのはおそらく、いや、どうしたって娘を前に格好つけてしまうという性質を備えている生き物なのかもしれない。

 雲のようにさすらう君へ、僕はさよならと手を振り返した。

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コットンキャンディ(No.18) ユザ @yuza____desu

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