第17話

麦穂を家に連れてこいという瑠璃子の言葉に、渋々頷いた翔吾は翌日麦穂に聞いてみることにした。


 「なあ……よかったらだけど、俺ン家にこないか? 母さ……ババアがお前の話をしたらきて欲しいってさ」

 「行きます!」


 麦穂の返事は二つ返事だった。目を輝かせてもう行く気満々だ。まあ、いい息抜きになるかもしれないし、麦穂が嫌じゃないのならいいのだが。それに……玲真とどんな関わりがあるのか探りを入れられるかもしれない。



 ◇

 

 

 麦穂を連れて一等地と呼ばれる高級住宅街を行く。考次郎の住んでいるあの家がある住宅街に比べたらまだ小さい方だが、麦穂は珍しそうにキョロキョロと歩いている。普通の住宅街と比べてもやはり大きな家が多いのだ。しばらく歩くうちに『夜陣』の表札がかかった大きな一軒家の前で翔吾は立ち止まった。門がついていて中に庭がついている。煙突がついていて、モミの木に囲まれている、モデルハウスのような綺麗な家だ。三台は車が入りそうな立派な車庫がついている。翔吾は迷いのない足取りでツカツカと敷地に入っていくと玄関の扉を開ける。


 麦穂が翔吾の後に続いて、中に入った瞬間。巨大な毛玉にのしかかられて麦穂は笑い声をあげた。真っ白い大型犬のグレートプレニーズだ。尻尾を振りながら麦穂の顔を舐め続けている。翔吾はため息を吐くと言った。


 「ルーシー、お座り」


 その言葉を聞いてルーシーは、やけにのっそりとした動作でその場に座る。翔吾をチラリと振り返って見る目は『ほら、これでいいだろ』とでも言いそうな目だ。


 「わあ、賢いんですね」


 褒められてご満悦に尻尾を振っている。翔吾はじっとりした目でルーシーを眺めた。その時、スリッパで歩く音が近づいてきて、扉が開いて瑠璃子が現れる。


 「よく来てくれたわね。いらっしゃい」


 ニコニコとキミが悪いほど上機嫌だ。翔吾は胡散げな視線を送った。

 

 「あの……ツマラナイモノですが」

 

 麦穂が手に下げていた紙袋の中から菓子折りを差し出す。よその家に行くと聞いて、しっかりと仕込まれてきたらしい。瑠璃子は「あらあらあら、わざわざいいのに」と言いつつも顔は笑っている。麦穂はほっとしたような顔をした。


 「待ってて。今お茶を出すわ」

 「わあ、ありがとうございます!」


 麦穂は一見ハキハキとしてるから、年上への受けはいいのかもしれない。翔吾は居間の椅子を引くと、腰掛けた。そして渡された湯呑みのお茶を啜る。そうこうしている間にも、麦穂と瑠璃子は話が合ったのか仲良くなっていた。


 「麦穂ちゃん、翔吾くんとはどこで出会ったの?」

 「絵を描いてる時に、助けてもらったんです」

 「そうなの。この子無愛想でしょ、怖くない?」

 「全然怖くないですよ!」


 今なんて瑠璃子はアルバムを引っ張り出してきて、翔吾の幼少期についてベラベラと喋っている。翔吾は勘弁してくれと思った。


 「見てみて、この翔吾くん可愛いでしょう」

 「わあ、こんなに満面で笑う翔吾くん初めてみました」

 「フフ、この時の翔吾くんなんて本当に可愛かったのよ。お母さん大好きって言って頬にキスまでしてくれてたんだから。今じゃありえないわ」

 「えー、全然想像できないですね!」

 「そうよねえ」


 なんなんだこの空間、最悪だ。しかしこの場を離れて麦穂と瑠璃子を二人にするのも、麦穂に余計なことを吹き込むんじゃないかと不安だった。そうしてしばらくして話題が移り、麦穂が絵を描くという話になった。


 「絵を描くのね、すごいわ。見て、本当に上手なのね」


 スケッチブックを覗き込んで瑠璃子が感心したように言う。翔吾にも見せるように時折振り返る。翔吾は頬杖をついて目を細めてこの光景を見ていた。

 

 「よかったら何か描きますよ。あ、ルーシーとかどうですか?」


 麦穂は居間のテーブル下に伏せているルーシーを見ていった。

 

 「ルーシーを描いてくれるの? すごく楽しみだわ」

 「えへへ、頑張ります」


 もちろん今日も持っていた色鉛筆を出して、麦穂は絵を描き始める。ルーシーを凝視して特徴を掴んでいく。最初は背を伸ばしてお行儀よく描いていた麦穂だったが、そのうち翔吾の家にいることも忘れたのだろう、夢中になって色鉛筆を走らせていた。背を丸め、一心不乱にスケッチブックに齧り付く。瑠璃子は目を丸くしていたが、麦穂をみる翔吾の顔を見て微笑んだのだった。


 その時、玄関の扉が開いて、閉じる音がした。誰かが帰ってきたのだ。瑠璃子が頬に手をあて呟く。


 「あら、玲真くんかしら。今日は早いのね」


 翔吾は目を見開いて髪を掻き上げ、動揺を押し殺していた。こんなに早く帰ってくるなんて聞いていない。部活じゃなかったのか。

 居間の扉が開いて、玲真が現れる。


 「母さん、ただいま……って君は!」


 玲真は目を大きくして麦穂を見ていた。明らかに知り合いのようなリアクションだが、麦穂は首を傾げている。どうやら本当に覚えてないらしい。

 

 「会ったことありましたっけ」

 「僕の絵を描いてたじゃないか、ひどいなあ」

 「すみません……」

 

 玲真は語った。

 

 「道を歩いてて、突然声をかけられたんだ。今でも覚えてるよ。絵を描くからモデルになってくれってさ。それで描くだけ描いてさっさと去って行っちゃったんだ。あれからずっと気になってたよ。名前も聞いてなかったから……まさか兄さんの友達だったなんて」


 玲真は明らかに麦穂に興味を持っているようだった。


 「また絵を描いているんだね。あ、ルーシーじゃないか! すごいよ、可愛いなあ」

 「えへへ、ありがとうございます!」


 玲真は鞄を下ろすと、麦穂に質問を投げかける。

 

 「何歳なの?」

 「15歳です」

 「同い年だ!」


 玲真はニコニコと瑠璃子と似た表情で嬉しそうに笑う。玲真の目が好奇心と純粋な好意を写していることに翔吾は気づいていた。翔吾は目の前が暗くなるような心地だった。

 しかしゆっくりと沈むような絶望感とともに、翔吾は今確かに、燃えるような闘志とめまいがするほどに一度に押し寄せてきた憤怒と嫉妬を実感していた。

 


 弟に勝つことはとっくの昔に諦めたはずだった。そうだ、どうしても勝てないのなら、同じ土俵に立つこと自体が愚かなのだ。勝てない勝負はするべきではない。

 だから……だから、今回も諦めるのか。麦穂を────あの笑顔を、隣で見続けられる俺の幸福を、玲真に譲ってしまうのか。


 翔吾は気付かぬうちにギリ、と歯を噛み締めていた。

 

 …………諦められるはずがないだろ。

 

 馬鹿馬鹿しい。だいたいなぜ俺があいつに譲ってやらねければならないんだ。今までは仕方がないと諦めていたことだろうが……今度ばかりは譲るつもりも、負けるつもりもなかった。絶対に、譲れない。



 翔吾はまっすぐに玲真をみた。玲真は目をキラキラさせて麦穂に話しかけている。

 

 「よかったら連絡先を──」

 「麦穂」

 「なんですか?」


 翔吾が声をかければ、それまで玲真と話していた麦穂がパッとこちらを見て、嬉しそうな顔をする。翔吾はそれを見て口の片端を上げた。


 「帰るぞ」

 「え、もうですか。わかりました!」


 麦穂は完成したらしいスケッチブックの絵を慎重に取ると、瑠璃子に渡した。


 「きゃあ、本当にもらっていいのね。嬉しいわ、額縁を探さなきゃ」

 「喜んでもらえて嬉しいです」

 「ふふ翔吾くんも麦穂ちゃんにもらった絵、大切に額縁に入れて部屋に飾ってるのよ」

 「えっそうなんですか?」


 余計なことを言いやがって……と翔吾は瑠璃子を睨んだ。

 

 「翔吾くんの部屋をのぞいた時にね、本当に綺麗な海の絵を見つけたの。今ならわかるわ、あれ麦穂ちゃんが描いた絵でしょう?」


 翔吾は照れ隠しに舌打ちをして腕をくみ、そっぽを向いた。麦穂の嬉しそうな顔がまっすぐに見るのが、どうも恥ずかしかった。

 

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