第16話

 麦穂と一緒だと飛ぶように月日が流れるのは何故だろう。あっという間に結果発表の日になった。


 麦穂は翔吾と、春草とともにパソコンの前にいた。麦穂は一番普段通りでカラッとした態度だった。翔吾はそれを見て少しほっとする。「いきますよ、」と麦穂がマウスを操作した。佳作、優秀賞、最優秀賞、名前は────────ない。どこにも、ない。


 


 そんなはずがない。焦って名前を探すがどこにも『葉月麦穂』という名前はない。

 振り返り麦穂の方をみると、……翔吾は目を大きく見開いた。


 まんまるく瞳を大きくさせて、ぽろと涙が溢れる。麦穂は自分が泣いていると今初めて気づいたように、不思議そうな声で「あれ、」とこぼした。大粒の涙がゆっくりと頬をつたい、それから膝の上に落ちる。


 翔吾は気付けば春草がいることも忘れて麦穂を抱きしめていた。こんな時に限って言葉が出てこない自分が嫌になる。麦穂は、翔吾の肩に手を置いて自分から離そうとするが、力が弱く全く抵抗になっていない。


 「離してください。こんなことで、こんなことで誤魔化されるほど私は馬鹿じゃないし、適当に描いたつもりもありません。本気でっ……! 本気だったんです……」


 麦穂は言葉を詰まらせる。そうだ、麦穂は本当に精一杯やったのだろう。あれだけ頑張ることを嫌がっていた麦穂が、おそらく初めて本気になったのだ。翔吾が手を離すと、鼻を真っ赤にした翔吾は脱力したように膝をついて床に座り込んだ。震えるような声で呟く。


 「私が一番美しいと思うものを描いたのに。こんなの……私の絵が、描いてきた時間が、翔吾くんが、……全部全部無意味で、無駄だって言われたのと同じじゃないですか」

 「そんなわけあるか。お前の努力は無駄なんかじゃない」


 麦穂の丸めた背に手を添えて、翔吾は思わず言っていた。しかし麦穂はそれにも気づいてないようだった。

 

 「だって客観的に私の絵は価値がなかったってことでしょう!? ……悔しい!! 何よりも私は、悔しいんです!!!」


 背を丸めて、激しく首を横に振りながら麦穂は叫ぶ。心からの叫びだった。翔吾は唇を噛み締めた。こんなに苦しそうな麦穂は初めて見たのだ。どう慰めればいいか言葉が見つからない。次第に麦穂の声が湿りを帯びる。


 「翔吾くんに見てもらったのに。こんなことになるのなら……全部全部意味なかったのなら……頑張らなかったらよかった。趣味なんかに本気になった私が間違ってたんです。っ……ごめんなさい、めんどくさいこと言って。もうほっといてください」


  翔吾は背を丸めて踞ろうとする麦穂の肩を掴んだ。なぜ麦穂なら大丈夫だと思ったのだろうか。大丈夫なはずがないと、この涙を見れば分かるのに。今、麦穂のためにしてやれることはなんだろう。わからなかった。でも放っておけない。ここまで役に立ってやりたい、支えてやりたいと思うことは初めてだった。……でも、一つだけわかることはある。今の麦穂を一人にしちゃだめだということ。そうなぜか翔吾は確信していた。

 そして、その瞳を覗き込む。


 「俺が見てた、お前の努力は絶対に無駄なんかじゃない。何よりも俺が価値があると決めた麦穂の絵を、勝手に価値がないとか言ってんじゃねえ。…………決めたぞ。ほっとけって言ったけどな……俺は絶対にほっといてやらねえぞ」


 麦穂が翔吾を見て、ゆっくりと目を見開く。

 

 「俺はお前がどん底にいる時でも、どんなに苦しくて下を向きそうになった時でも、そばにいる。俺が……俺が魅てる!! これからも、何があっても、お前の特等席で、魅ててやるから!!!」


  いつしか麦穂の涙は止まっていた。ぽかんと飴玉みたいな瞳をまんまるくして翔吾をただ見つめる。

翔吾は無我夢中だった。ただこいつにこの思いが届けばいいと思う。いつでも翔吾は麦穂に魅せられていて、信じている。麦穂が起こす奇跡を誰よりも待ち望んでいるから。

 

 「だから……この俺が見込んだ女なら……乗り越えてみせろよ!! お前ならできるって、……いつでも俺が、信じてやるから!!」

 

 自分で言っていて翔吾は馬鹿なことを言っていると思った。無茶苦茶だ。こんな重い信頼を向ける面倒くさい男、普通なら嫌に決まっている。

 しかし麦穂は涙を乱暴に袖で拭う。そして震える声で言った。

 

 「翔吾くんが見ててくれるんですか。それじゃ、泣いてる場合じゃないですね」


 目元を赤くして、翔吾を見上げた麦穂は口角をあげて笑ってみせた。



 ◇



 アトリエの窓は半分カーテンが引かれて、陽が差し込む横で影ができていた。至る所にくしゃくしゃに丸まった紙が落ちている。あれから麦穂は、いわゆる”スランプ”になっていた。

 

 「これもダメ……」


 麦穂はつぶやく。「描けない……」そしてボソボソと言っているかと思えば……今度は頭を掻きむしりながら、叫ぶ。


 「……これもだめです!!やっぱり描けない!!」


 ずっとこの調子だ。しかし、翔吾は悪いことばかりでもないと思っていた。今までならとっくに筆を放り出していただろう。しかし麦穂は決して諦めようとはしなかった。途中でその手を止めることはしない。

 翔吾は口端を持ち上げた。苦しんでいるということは、それだけ真正面から絵と向き合っていることだ。

 きっと麦穂はこれを乗り越えれば、成長する。


 翔吾は背後の本棚に並べられているスケッチブックを何気なく手にとって、パラパラとめくっていた。隣の本棚は春草のスケッチブックが並ぶ。この棚は麦穂のスケッチブックが並んでいるのだった。

 ここには色んな絵があった。なんの変哲もない木々の絵や、ビルや一軒家、廃墟など様々な建物。そして……一番多かったのは人の絵だった。膝を出した活発そうな子供、スーツ姿の中年のおじさんの絵、オシャレをした女の人、赤ん坊を連れた母親。様々な人々が、その紙面上で息づいていた。


 次のページをめくった翔吾は目を見開いた。


 間違いない、この姿は……何度、忌々しいと思ったことだろう。サラサラの濡れ羽色の黒髪に優しそうな柔和な目元。キラキラとした、まるで王子様のような華のある美形だ。照れくさそうにこちらを見つめて微笑むのは────弟だった。


 「翔吾くん、どうかしましたか?」


 麦穂の声に翔吾は咄嗟にそのスケッチブックを閉じ、隙間に押し込み隠した。


 「いや。……なんでもねえ」

 

 内心の動揺を押し殺して、なるべく平坦な声を作って答える。

 なぜここに玲真が。心はそれでいっぱいだった。なぜここでも弟の影を見なくてはいけないのだろう。麦穂は知り合いだったのか。なぜ、今まで教えてくれなかったのだろう。なぜ、なぜ、なぜ。


 そのまま翔吾は、その日は早く帰った。



 ◇

 


 「翔吾くん、恋をしているわね」

 「……は?」


 開口一番に瑠璃子は言った。翔吾は眉間に皺を寄せて、いかにも「こいつは何を言い出すんだ」という顔をした。この母親は、箱入りのお嬢様だったこともあり、天然なのかなんなのか時折めんどくさい絡みをしてくる時があるのだ。

  

 「ふふ、私の勘は誤魔化せないわよ。それで翔吾くんは最近様子が変だったのね。それで今も思い悩んでいるんでしょう」

 「…………」

 

 厳密には今、悩んでいるのは玲真のせいでもあるのだが……ある程度は合っているのだから何も言えない。さ、煮るなり焼くなり好きにしてくれとでもいうような気持ちで黙った。翔吾はいつからか黙り込んで、外からの暴風を耐える癖を身につけていたのだった。


 「その子、どんな子なの? 今度お家に連れていらっしゃい」

 「……無理に決まってるだろ」

 「どうして? 私ガールズトークしてみたいの。うちには男ばっかりじゃない」


 瑠璃子は「むさ苦しくてやだわぁ」と言う。翔吾は俺にどうしろと……と思った。


 「とにかく、ちゃんと連れてくるのよ。いい?」


 

 …………これだからこの女は強引で嫌なんだ。

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