第一章 恋人のふり 5 R15
その日の夜、いつもと同じように一つのベッドに寝そべり、シーツにくるまると玄奘は言った。
「おやすみ、悟空……」
そして悟空の手を取り、自分の頬にあてた。その柔らかな感触に悟空は及び腰になった。今日の玄奘は酒一滴も飲んでいないはずである。
「突然……どうかしましたか」
「これから紅害嗣が練習に参加する日に向けて、恋人ごっこをせねばならん。その心の準備をしておきたいと思ってな」
「日程がわかってからでいいんじゃないですか。何も今すぐってわけでは……」
「突然そなたにそばに寄られたら、きっと私は緊張してしまう。演技であることがばれてしまうやもしれぬ」
玄奘が小さく震えているのに気づいた。数ヶ月前とは言え、玄奘は紅害嗣に監禁されて裸に剥かれた挙句ベッドで緊縛された過去がある。恐怖はそう簡単には消えないだろう。
「紅害嗣が怖いんですね」
悟空は玄奘を抱きしめた。
「大丈夫です。おれがあなたを絶対に守ってみせます」
玄奘は覚悟を決めた顔で言った。
「悟空……。キスをしよう」
「え……はぁ?」
「紅害嗣からは交際している証拠を見せろと絶対に言われるだろう。キスくらい……できるようにならねば。ためらっていたら怪しまれる。少し……慣れておきたい。その……私は……キスを今までにしたことがない……から……」
悟空が内心ガッツポーズしたのは言うまでもない。玉竜は玄奘とキスしたことはないようだったし、前に酔って悟空にキスをしたのが玄奘にとってのファーストキスだったと思っていいだろう。
ここでキスをすれば記憶のある時もない時も玄奘にとっての初めての相手は悟空ということになる。
悟空の気持ちは揺れている。キスはしたい。死ぬほどしたいのだが、玄奘が少しでも嫌がるのならしたくないのだ。
「わざわざキスなどしなくても、証明くらいなんとでもなります。おれの舌先三寸で丸め込んでみせますよ」
「舌戦となれば向こうも引かないだろうし、そなたのことだ。しまいには暴力に訴えるだろう?われわれは一緒に音楽を奏でる仲間として紅害嗣を受け入れるのだから、喧嘩沙汰になることは避けたい。私たちがキスして納得するなら、それが一番穏当な手段だ」
「おれと……するの、おいやではないですか?」
「いやなら提案などせぬ」
「そ、……そうですか」
じゃ、じゃあ……と言って悟空はゆっくり顔を近づけた。玄奘はすでに目を閉じ、長い睫毛が影を落としている。
悟空の心臓はうるさいくらいの音で鳴っている。全身に鳥肌が立っている。あの美しく、一片の穢れもなかった推しの玄奘が今自分の腕の中にいて、接吻をねだっている。
悟空はふいにこみあげるものを感じた。くすんと鼻をすすり、こぼれ落ちた涙を手の甲で拭く。不思議なことに拭いても拭いてもとめどなく涙はこぼれてくる。
「……悟空?どうした?」
玄奘が目を開けて不思議そうに見た。
「いや……えっと、おれ……、……あの、夢みたいで……」
玄奘がおかしそうに笑った。
「まだ何もしていないではないか」
「でも……すごく綺麗で……」
悟空は目をこすりながら言った。何度拭いても視界がぼやける。玄奘の優しい微笑みを目に焼きつけたいのにはっきりと見えずもどかしい。
「悟空……」
玄奘は腕を伸ばして悟空の首に巻きつけ、唇同士を優しくふれあわせてから離れた。
「あ……」
思わず悟空は自分の唇を押さえた。数秒だけの唇の感覚がじわじわと喜びにかわっていく。
「思っていたよりためらわずにできた……」
玄奘は破顔した。この世のすべてとひきかえにしてもいいほどかわいい、と悟空は思った。
「も、もう一回いいですか……あぁ、こんなぐじゃぐじゃの顔ではだめだ」
シーツで顔を拭こうとする悟空を押しとどめ、玄奘は優しく自分の手で泣きぬれた頬を拭ってやった。
「悟空、大丈夫だ」
「玄奘……」
二人は額がふれそうな距離で見つめあった。互いの瞳に吸い込まれるように、もう一度顔を近づけてキスをした。
もう一度、そして、もう一度。
息をする間も惜しむように二人は唇を合わせた。
しばらくして顔を離した玄奘は、悟空の髪を撫でた。悟空もうっとりするような瞳で玄奘の頬に手を添えた。目を合わせた二人はどちらからともなく笑った。
「玄奘、いやではなかったですか?」
「いやだったように見えるか?」
「……見えません」
「悟空、これから毎日こうやってキスをしてから寝よう」
「……本気ですか?」
「悟空はいやか?」
「いや……ではないですけど、でも……」
「どうしてか、そなたとキスをすると胸があたたかい気持ちになる。良い気分で眠れそうだし、恋人ごっこの練習にもなるだろう?」
玄奘は乗り気だが、恋愛未経験で当然童貞の彼はキスの先に待ち受けているものをきっと知らないのだ。
悟空は自分の欲望がキスだけで留めておけるものか、むくむくとした不安を感じ、答えを言い淀んだ。
「だめか……?悟空は私とのキス、良くなかったのだな……」
玄奘が眉を落とした。推しが憂えている。自分の腕の中で。
推しにそんな顔をさせてよいものかと、心の中の悟浄が睨んでくる。
答えは当然、否である。
「やりましょう、玄奘。なんなら、おやすみだけでなく、おはようも行ってらっしゃいも事あるごとにキスしましょう」
勢い込んだ悟空の提案に、玄奘ははにかんで頷いた。
「では……おやすみ、悟空」
玄奘は軽い音を立ててキスをすると、悟空の肩に頭をもたれかけて目を閉じた。
(これが毎日続くのか……)
悟空は幸せと不安の入り混じったため息をついた。
曲が半ば出来上がった時点で、玉竜が仮譜を持ってきた。一旦メンバーで集まり、譜割りや和音の響きを確かめながら細部を調整していく。
これがいつものJourney to the Westの曲作りの方法である。いつもは四人のパートしかないが、今回は多重録音をするため総勢七部のパートに分かれている。
八戒は楽譜を見ながら早速愚痴る。
「俺1stと3rd担当なのかよぉ。エグいなこのメロディー、高すぎだろ、C5がたたみかけてくんじゃん」
「ボイトレ頑張ろうね、八戒。器用で音域の広い八戒にならできると思っての期待を込めての選抜なんだからね。期待はずれにさせないように。それと、悟浄はいつもの低いパートだけど、バリトンとベースを分けて録るから、今まで以上に悟空のボイパとタイミングが大事になってくるしね、注意して聞いてて。それとエレキとのかけあいもあるから結構面倒だけどよろしくね。いつものことだけど悟空のボイパはかなり仮で入れてるから、全体的にもっとうるさい感じの方がいいかなって思ってんだけど、ちょっと後で意見聞かせて。玄奘はBメロとCメロのメインとって、残りは2ndなんだけど結構クセのあるハモり方してるから最初は戸惑うかも」
玉竜は笑顔のまま早口で圧をかけていき、続いて言った。
「じゃ、とりあえず音源聞いてみてくれる?新曲Bite the Peach」
パソコンに接続されたスピーカーから新譜が流れた。スタジオに音が溢れていく。
疾走感のあるイントロから始まり、切ないとも悔しさともとれる歌詞とメロディーが溢れていく。
サビはキャッチ―なメロディーではあるが、早口言葉のように次々に言葉が投げつけられ、まるでマシンガンに打たれていく感覚さえある。間奏で流れるエレキは高音から低音まで流れるように優雅かつ迫力ある響きだ。Cメロのあとに、転調したサビがもう一度入り、エレキも加わったその音は諦念を昇華した涅槃にたどり着く。
「……すごい」
「悪くねえな」
「こんな歌、拙者らが歌えるだろうか」
「やるしかねえよな、このchan-Butaに不可能はねえよ」
自らの芸名を言いながら八戒は意気込んだ。
「気に入ったようでなにより。さすがこの玉竜様でしょ?曲のイメージは般若心経から来てるんだ。経典そのままの語句は使ってないけど、何にもとらわれない、とか、この世には何もないという
「一回聞いただけでは消化しきれない歌詞も多いな。そこが良い」と玄奘は頷き、悟空は早速提案した。
「編曲なんだけど、ラスサビの前はもう少し音を少なくした方がいいんじゃねえかな。最後の盛り上がりを目立たせるためにもさ。ベースもリフっぽい方が良い気がする」
「そうなんだよね、ただあまり絞ってエレキの音ばっかりになっても、ジャニ西の楽曲じゃなくなるんじゃないかと気もしてるんだよねえ」
玉竜が譜面の気になる箇所に線を入れ始める。新しいもの好きの八戒は既に乗り気で腕をぐるぐるまわしながら言った。
「俺3rd取ってみるから、とりあえず歌ってみようぜ?」
「そうだね、悟空がメイン、玄奘が2nd、八戒が3rd、悟浄が4thでやってみようか」
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