第四章 Journey to the West 結成 2
その時両開きのドアが勢い良く開いて、ひび割れた怒鳴り声がした。あの赤い頭は紅害嗣だ。後ろからスタッフに羽交い絞めにされているが勢いよく足を動かしてここまで来たらしい。
あいつの顔を見るだけで玄奘への仕打ちを思い出し、腹が煮えくりかえる。おれは殴りかかろうとするが、玄奘に首を振って止められるので仕方なく座ったままでいる。
「あいつ品が悪いから嫌いだよ、僕」
玉竜は小声で悪口を言っている。
紅害嗣は頭の悪そうな喋り方でだらしなく文句を吐き出した。
「なんで俺がヤクザ辞めて、父ちゃん母ちゃんとバンドやらなきゃなんねーんだ。この詐欺野郎っ」
「お主との契約は既に済んだぞ。これからは事務所シャカシャカ所属のアーティストであるのだから振舞いにも十分注意せよ」
紅害嗣はスタッフの腕を振りほどいて磁路の襟首に掴みかかった。
「俺がグラミー賞獲ったら、玄奘を好きにしていいって約束、忘れんじゃねえぞ」
「なんだその約束っ。おれは聞いてねえぞ。玄奘は賞品じゃねえよ」
聞き捨てならない言葉におれは泡を食って磁路に詰め寄る。玄奘は、と見れば立ち上がったおれの服の裾をそっと掴んでいる。やっぱり暴力は禁止らしい。
「なんだ猿め。お前はお呼びじゃねえんだよ。この紅害嗣様の快進撃を、指をくわえて見ていやがれ」
鼻先であざけるように言われた紅害嗣の口調に怒りが込みあげる。推しの玄奘を守れるのはおれしかいねえ。
「兄貴ぃ、また怒らせたら火吐かれるだけだよ」
少々火を吐かれたって構うものか。玄奘に傷をつけやがって許せるわけがねえ。
「お前、玄奘にしてくれたことぜってぇ許さねえからなっ。グラミー賞なぞオメーが獲れるわけないだろう。玄奘率いるおれ達Journey to the Westが先に獲ってやる」
「……はぁ?お前たちもデビューすんのかよ。逃げておいた方が身のためだぞ」
呆れた顔をした紅害嗣を、おれは下から睨みつけた。
「よく聞け。勝つのはおれ達だ」
一触即発でいがみ合うおれ達を見て、磁路はがははと快活に笑った。
「よしよし、大聖殿もミュージックシーンへの活躍にやる気になったことであるし、めでたしめでたしだな」
……全然めでたくねえ。
磁路が八戒、悟浄、玉竜を順に送って最後におれのアパートで玄奘とおれが降りた。なぜか磁路まで車を停めてついてくる。
「狭苦しいところに住んでおるのだな。やや、玄奘と同棲しておるのか?なに?ストーカー?そうかそうか、紅害嗣がのう。ご迷惑をおかけした。もう心配ないぞ。しかし大聖殿、棚からぼた餅で愛しい玄奘との同棲を獲得できて良かったのう」
余計なことを言う磁路には早く帰ってほしいのだが、こいつはまったく空気を読まない。
「だーから、おれは玄奘を推してるんだっつの。恋愛とは違うんだ。もっと崇高っていうかさ」
「大聖殿の前世の恋も崇高だったぞ。師として尊敬しているがゆえに身を焦がす熱情を抑えて、少しずつ二人の距離を縮めていったのだ。私もじれったくてじれったくてうずうずしたものよ。うむ、今世の二人はまだ知り合ったばかりだったな。大聖殿の恋路が始まるのは今これからなのだな。良いぞ良いぞ。全部見届けてやるからな」
しかもまったく人の話を聞きやがらねえ。
おれは磁路を無視して、何か飲もうと冷蔵庫を開けた。バイト終わりに買った三角パックのコーヒー牛乳が入っている。
そうか、玄奘を探しに行くときに入れておいたのだ。いろんなことが起きたせいで、たった数時間前の出来事なのにはるか昔のような気さえする。
「玄奘、コーヒー牛乳飲みますか?買っておいたんです。」
「ありがとう。いただきます」
「私はいらぬぞ。神仙であるゆえ、地上の食べ物は必要ないのだ」
磁路には聞いてねえ。
玄奘は両手でコーヒー牛乳を受け取ると、ストローを射し吸い始めた。パックを持つ指の傾け方は美しく、すぼませた唇の形はひどく可愛い。
おれは隣に腰を下ろして炭酸水を飲んでから尋ねる。
「なんでこのコーヒー牛乳が良いんですか?わざわざ何時間も入荷を待って買うほどのこだわりって何なのか、教えてくれませんか」
玄奘は頬を赤らめた。恥ずかしいらしい。
「……あの……、実はこの三角パックを持つとな、手の形が……綺麗なのだ」
おれは目をしばたたいた。
「はぁ?それだけですか?」
玄奘はパックを持つ自分の手をおれによく見えるように少し上げた。左手の親指と薬指で輪を作るようにしてパックを下から支え、右手は相手に向けて軽くパックの背を支えている。
「あの……、パックをつかむ時の手の形が、釈迦如来像がしている転法輪印の形に似ているのだ。だから……せっかく飲むのであれば三角パックがいい」
軽く眩暈がしてきたが、気のせいだろうか。玄奘はおれが想定していたよりも仏教オタクらしい。
そのこだわりがおれにはまったく理解できない。それに四角のパックでも工夫すればその持ち方で持てるのではないだろうか。
「えっと、つまりこだわってるのは三角パックのみであって、中身は牛乳でもなんでも構わないんですね?」
「三角パックは牛乳かイチゴミルクかコーヒー牛乳の選択肢しかない。それならコーヒー牛乳がいい」
「……なるほど、わかりました」
本当はまったくわからないが、とにかく三角パックのコーヒー牛乳がご所望であるらしい。推しは尊い。推しが欲しいというなら今後もおれはそれを買ってくるだけだけである。
おれ達の会話を興味深そうに聞いていた磁路が口を挟んだ。
「玄奘は自分でも三角パックを求める理由をまだ気づいておらぬのじゃな。ふはは。墓地や供養塔として知られる五輪塔がさまざまな形を組み合わせて作られておることを知っておるかな。それぞれの形は五行を示しておるのだ。すなわち、方形は地輪、円形は水輪、三角は火輪、半月型は風輪、団形は空輪である。玄奘、いや唐僧が前世も今世も求めるのは孫悟空。孫悟空は火行に属する。ゆえに火行を表す三角を無意識下でも求めておるのだろう」
おれは息が止まりそうになる。
「……孫悟空ってつまり……」
「つまり悟空の前世の神猿よ。三角パックのコーヒー牛乳が縁で二人は話をするようになったのだろう?火を示す三角パックに導かれ、現世の大聖殿に出会ったのも道理よな」
磁路の解説に、玄奘も感極まったように呟いた。
「私が……自分でも知らぬうちに悟空を探していた、ということですか」
玄奘の言葉におれは全身に鳥肌が立ち、その尊い名を呼んだ。
「玄奘……」
玄奘も真剣な表情でおれを見つめ返してくる。
「悟空……」
おれはゆっくり手を動かして、玄奘の手を握ろうとした。
その空気をぶち壊すように磁路がベッドに飛び込みながら言った。おれは慌てて手を引っ込める。
「いやしかし、大聖殿の目が腐っておるのか、推しの玄奘がせっかく頻繁にコンビニに通ってくるというのになかなか気づかんのだ。配信後や深夜の経典研究後の玄奘が一息ついた後にお気に入りのコーヒー牛乳をコンビニに買いに行くというせっかくの習慣を活かさぬ手はない。紅害嗣の脅威が迫っておるというのに、二人が出会わなければ玄奘を守れんだろう。ここは私が一肌脱いでやるべきとコーヒー牛乳を買い占めて、二人が初めて会話を交わす機会を作ってやったまでよ。本当に私のおかげだな」
「悟浄が言ってたコーヒー牛乳を買い占めた大男ってオメーかよ!てか、寝るな!早く帰れ。今すぐ帰れ」
磁路は上半身だけ起こして、部屋をぐるりと見回す。
「いやこの部屋は本当に狭いのう。このベッドの上しかスペースがないではないか」
元々の部屋が広くないのと、今はkonzenの配信機材に場所を占領されてたしかに足の踏み場もないほどだ。
八戒も悟浄ももうちょっと整理して荷を置いていけばいいものを。
おれは磁路を出ていかせるため、その腕を引っ張って起こし、そのまま背を押していく。磁路は暴れはしないもののその巨躯は重い。
「近いうちに皆が事務所の所有するマンションに越せるよう手配をしておこう。二人は同じ部屋が良いか?」
振り返るようにして磁路が尋ねてくる。
「そうだな。玄奘一人にしとくと危ねえからその方がいいな」
部屋の外へ押し出されつつ、磁路は小さな貝殻に入った塗り薬を手渡しながら言った。
「玄奘は紅害嗣に荒縄で縛られたゆえ、全身に薬を塗ってやるのだぞ。良いな。それとこの部屋は寒いぞ。風邪を引かぬよう、きちんと大聖殿が抱きしめて温めてやって眠るのだぞ」
「言われるまでもねえよ」
磁路を追い出してドアを閉めた瞬間、勢いよく鍵をかけた。これでもう邪魔は入らねえ。
おれは振り返る。玄奘が小首を傾げて俺を見る。
おい……ちょっと待て……、おれ今推しと二人きり……だ。
磁路のアホは何て言ってた。玄奘の全身に薬を塗ってやって、抱きしめてやって眠れ……だと?
そんなことできるのか。推しとオタクという関係で許されるわけがない。手の中にある貝殻が急に存在感を増して重くなったような気さえする。
「ふぅ……」
おれが一息つくと、玄奘は笑いかけてきた。
「一番活躍してくれたのだから、悟空も疲れたでしょう。少し休みましょうか」
ま、眩しい。
玄奘がシャワーを浴びている間、おれは落ち着かずにそわそわ部屋の片付けをしていた。なぜって、浴室の中を想像してしまったらもう一貫の終わりだからだ。何が一貫の終わりだというと……うるせえな。
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