第30話 6時間の命②


 理市は重い身体に引きずって、ゆっくりと歩き始めた。


「おい、犬飼理市、どこに行くんだっキュー」

「知りたきゃ勝手についてこいキュー。どうせ、俺の監視役なんだろキュキュキュのキュー」

「バカにすんなっ! キューキューキューっ!」


 求丸が羽根はバタつかせて怒っていたが、理市は無視して区民公園を後にする。暗闇に沈んだ住宅街を突っ切ると、見覚えのある大通りに出た。確か、日光街道である。


 ポケットを引っ繰り返して出てきたのは、スマホと小銭だけだった。理市は右足のスニーカーを脱ぐと、指先を突っ込んで紙切れを取り出す。汗を吸ってクシャクシャになっているが、丁寧に広げていくと、それは緊急用の五千円札だった。


 最後の軍資金としては心細いが、贅沢ぜいたくは言っていられない。6時間分の食費に移動費、その他もろもろ、最大限に有効活用しなければならない。相変わらず脱力感と不快感で身体が重たかったが、タクシーを拾うことはあきらめて、日光街道を歩いて南下する。


 理市はふと思いつき、歩きながらスマホで取り出した。元チーマー仲間に電話をかけてみると、相手はワンコールで出た。

『本当に理市か? 幽霊じゃねぇだろうな』と、山野は驚いていた。

「棺桶に片足を突っ込んでいるが、かろうじて生きているよ」理市は苦笑交じりで答えた。

 山野に連絡をしたのは、最上や黒井の動向を知るためだ。もっとも、すべて信頼することはできない。信憑性の判断は不可欠である。


『とっくにくたばって、埋められたか沈められた、と思ったがな』

「その口振りからすると、赤蜂組の連中が俺を捜しているのか?」


『最上一派があんたの写真をバラまいて懸賞金をかけている。今、アンダーグラウンドじゃ、犬飼理市はすっかり有名人だぞ』

「懸賞金? 何だそりゃ。指名手配みたいなもんか? ちなみに、俺はいくらだ?」


『居場所連絡で20万。生きたまま拘束で100万だ』

「そいつは安すぎるな。思わず死にたくなっちまうぜ」


『懸賞金をかけたということは、最上は本気だということだ」

「素人相手に、何でそこまでするんだよ。わけがわからねぇ」


 理市は歩きながら苦笑する。

『いや、これは純粋に面子めんつの問題だ』山野は断言した。『最上には幹部の反対を押し切って、裏カジノを開いた経緯があったらしい。堅気に舐められたとあっちゃ、赤蜂組の面目まるつぶれだ。諸々の情報から想像するに、最上は相当なダメージを負ったようだな。目下なりふりかまわず、下部組織を総動員して、あんたを捜しまわっているよ』

 理市は途中から聞き流していた。


「居場所連絡で20万だったな。俺と組んで山分けといくか?」

『ヤクザを敵に回して10万ぽっちじゃ、まるで割に合わない』


「ま、冗談はこれぐらいにして、ここからが本題だ。最上と黒井のスケジュールを調べてくれ。たった今から6時間、どこで何をしているか、それだけで構わない」

『おいおい、まさか、二人を襲撃する気か?』


「さぁな、ちょいと借りを返してやるだけだ」

『俺がおまえなら、高飛びのために偽造パスポートを手配するところだが』


「6時間以内にケリをつけたい。調べがつくまで、どれぐらいかかる?」

『とりあえず、1時間後に電話をくれ』

「わかった。プロの仕事を見せてくれ」


 理市は電話を切って、溜め息を吐いた。軽口を叩いたせいで、いくらか気分がよくなった。澱んでいた血流がスムースになっている。脱力感と不快感は相変わらずだが、この程度なら気合と根性で何とかなる。


 上空から、バタバタと鳥の羽ばたく音が降ってきた。暗くて見えないが、お目付け役の求丸が、理市を尾行しているのだろう。


 とりあえず、理市は歩き始めた。目的地は赤蜂組の事務所に定めた。


 大通りの反対側に渡るために、日光街道をまたぐ陸橋の階段を上がる。眼下を見やると、車のヘッドライトが川のように、群れを成して流れていく。脳裏に浮かんだのは、クスノキの葉に現れた無数の眼だ。


 悪夢のように不気味な情景は、一生忘れられそうもない。もっとも、理市の人生はあと24時間足らずにすぎない。その時間内に、江美と美結の復讐を果たす。理不尽な運命に苦笑しながら、理市は歩き続ける。




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