第19話 ケダモノ市街戦②


〈武闘派ゴリラ〉黒井ははらわたが煮えくり返っていた。

 犬飼理市を逃したことで、最上の怒りを買っただけではない。愛車であるSUVの屋根を破壊され、その際に首を痛めたことが腹立たしくて堪らない。


 もっとも、むち打ちの鈍痛自体は、腹にくらった最上の拳とくらべれば、蚊に刺されたようなものである。黒井は首にコルセットを巻きながら、理市捜索の陣頭指揮をとっていた。防犯カメラの映像をプリントアウトした理市の顔写真を手に、部下たちは駆けずり回っている。


負 傷した理市が立ち寄りそうなのは、病院や安ホテル、もしくは野宿に適したスポット。左手を失っていることは、大きな手掛かりになるはずである。ヤクザの嗅覚と人海戦術を侮ってはならない。手段を選ばない彼らの捜索は、官憲を軽く凌駕する。その証拠に、理市の居場所を突き止めるのに、3日とかからなかった。


                  *


 横になっていた理市の鼻がピクンと動いた。それまで大の字になって熟睡していたのだが、何の前触れもなく、瞬時に目覚め、音もたてずに跳ね起きた。わが身に危険が迫っている、と異形の危険センサーが発動したのだ。


 理市は部屋の真ん中にしゃがみこみ、周囲の気配に気を向ける。

「最上の野郎、随分と早かったな」ポツリと呟いた。

 理市のいるボロアパートは、すでに最上の手下によって、完全に包囲されている。裏カジノに侵入してから、わずか3日の早業はやわざだった。これは予想外である。


 斥候役せっこうやくの男がすでに、望遠鏡によって窓越しに理市の在宅を確認していた。切り込み役の二名は玄関側に向かっている。安普請やすぶしんなドアを蹴破けやぶって、問答無用で理市を袋叩きにする。無抵抗になったところで、拘束して連れ去る。それが最上一派の計画らしかった。


 いくら理市がタフな男であったとしても、総勢八名の武装した暴力装置を一度に相手にするのは、いささかが悪い。


 もっとも、最上一派の殺気が、いち早く理市を覚醒させたことは、前述したとおりである。理市は攻撃が始まるまで、ストレッチで念入りに身体をほぐしていた。すでにホワイトシャツとデニムパンツに着替えて、スニーカーも履いている。リラックスした顔つきで、深呼吸を繰り返し、全身に酸素を行きわたらせた。


 いつでもかかってこい。理市の準備は万全だった。


 玄関ドアの向こう側から、男どもの動く気配がした。ドアを蹴破られる前に、理市は反対方向の中庭側に向き直ると、遮光カーテンと一緒に窓サッシを開け放った。

 正面にいたのは、若いチンピラだった。驚愕の表情で口をポカンと開けている。理市は目にも止まらぬ速さで、容赦のない拳を食らわした。


 理市は中庭に着地するや、躊躇ためらいなく、通りとは反対側にダッシュした。


 行く手にあるのは、工事現場を取り囲むスチール製の壁である。高さは5メートル以上であり、足がかりになるものは見当たらない。そのため、最上一派は壁方面には逃げられるわけがないと判断して、通りに人員を配置していたのだ。


「野郎、逃がすなっ!」

「ぶっ殺してやるっ!」


 頭に血がのぼったヤクザたちが、中庭に飛び込み、理市を追いかけ始める。


 雁首がんくびをそろえた連中の目の前で、理市は悠々と壁を駆けあがっていく。それは信じられない情景だった。均等に並んだ1センチ足らずのネジの頭部に、右手の指先と両足の爪先を引っ掛けて、よじ登っているのだ。


 まるでスパイダーマンか早送り再生のボルダリングのようである。理市はあっという間に天辺に上り詰め、向こう側に身をひるがえした。


「回れ、回れっ!」

「ぜってぇ、逃がすんじゃねぇ!」


 辺りは元々、のんびりとした下町だ。時ならぬ大騒ぎに、いあわせた付近住民が窓から顔を出していた。通りすがりの野次馬も驚き顔で、時ならぬヤクザの運動会を眺めている。


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