第8話 神の叡智をもつ男①


〈数百か数千の眼をもった黒い小山〉の正体はともかく、この人知を超えたものは、これ一体だけなのだろうか?


 それはありえないだろう。仮に、古い神々の生き残りだとしても、一柱ひとはしらきりということは考えづらい。同じような存在が他にもいると考えた方が、素直に納得できる。神話や伝説に幾分の真実が含まれているなら、国内だけにとどまらず、世界中にいると想像がつく。


 さらに、それが悪しき存在、邪な神だとすれば、その居場所は世界最大の軍事力を誇る国がふさわしいのかもしれない。


 現在の北米かグリーンランドあたりに、かつて世界を支配する王国が存在した。その名は、ハイパーボリア。伝説によれば、美しい自然に恵まれた王国だったらしい。


 ハイパーボリアは当時、貿易の中心であり、世界の中心だった。王都コモリオムは絢爛豪華けんらんごうかの極みを称され、「大理石と御影石の王冠」と呼ばれていた。


 ハイパーボリア人の思考は柔軟性に富んであり、優れた指導者の下で国家の技術革新を進めていた。そのため、近代国家のような盤石なシステムの下で、世界の栄華を独り占めにしていたのだ。


 さらに、ハイパーボリア人は、精神的にも成熟していた。信仰心が厚く、物質的な豊かさと平穏な暮らしをもたらした神に、心から感謝していた。


 いや、真実は少し違うのかもしれない。神に感謝をしていたことは真実だが、その根っこにあるのは、敬意というより恐怖感ではなかったか、というのだ。


 王国の西側には、エイグロフ山脈が連なっていた。コモリオムから歩いて一日の距離であり、人間が足を踏み入れることはほとんどない。四つの火口をもつヴーアミタドレス山の中腹には、深い洞窟があった。その奥底には広大な地下空間には、邪な神が暮らしていたと言われている。


 邪な神の名は、ツァトゥグアという。伝説によると、サイクラノーシュという天体から飛来し、ハイパーボリアの地に降り立ったとされている。


 その外観は一言でいうと、毛むくじゃらの巨大なボールだった。動き回ることはめったになく、怠惰の極みだったらしい。普段は何もせずに、ただ存在しているだけだった。


 見かけこそ不気味だったが、ツァトゥグアに人間に危害は加えなかった。言わば、穏健派である。空腹になると人間を喰ったという話もあるが、おそらく醜い外見からついた誹謗中傷ひぼうちゅうしょうの類だろう。


 ツァトゥグアは愚鈍そうに見えるため、「怠惰の神」と呼ばれることもあった。だが、意外なことに、ツァトゥグアには深い叡智えいちをあった。人類には遠く及ばない、まさに神の叡智の持ち主だったのだ。


 もし、エイボンという男がいなければ、神の叡智が人類にもたらさせることはなかっただろう。エイボンが魔術師でなければ、エイボンがツァトゥグアに強い関心をもたなければ、同じ結果だっただろう。


 ハイパーボリアは魔術が盛んな国だった。もっとも、当時の魔術師とは、ファンタジーの魔法使いのようなものではない。現在の化学、医学、物理学を含めた知的エリートであり、当時、最先端の知識の持ち主だったのだ。


 ツァトゥグアは、人間が近づいてきても、完全に無視していた。下等生物には無関心であり、まったく見向きもしなかったのだ。人間が綿埃に注意を向けないのと同じ理屈である。ただ、唯一の例外が、魔術師エイボンだった。


 どうやら、ツァトゥグアはエイボンの知的探求心に、心を揺り動かされたらしい。それとも、エイボンという人間に何かしらの興味を抱いたのだろうか。どちらにしても、ツァトゥグアが気まぐれに、神の叡智の一端を授けたことは確からしい。



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