第8話 ぷるん

 廊下の角からそっと様子を窺っていると、父上が一人で執務室までやってきた。

 扉の前まで来た父上は、ふいに首をひねって俺の隠れている場所を見る。すぐに顔をひっこめたが、ばれてしまっただろうか。

 というか、なぜ俺は隠れているんだろうか。

 ガツンと話す気ならば、今すぐ飛び出してやーや―我こそはってしたらいいはずだ。


 よし行くぞ、今度こそ行くぞ、と自分に気合を入れていると、ドアノブに手をかけたはずの父上がため息をついてから、つかつかとこちらに向かって歩いてきた。


 やばいやばい、こっちのタイミングで出たい。ふいに見つかってお説教はされたくない。慌てて足音が出ないように早足で歩き出してから気づく。


 この先、行き止まりだ。


 なんで行き止まりになってるの? 行き止まりにするくらいなら部屋をもっと大きくしたらいいじゃん、という俺の心の叫びは誰にも届かない。そもそも知っていたのにこんなところに隠れた俺が悪い。


 思いのほか軽快な父上の足音があっという間に近づいてくる。 

 俺はせめてものごまかしとばかりに、突き当りの窓から空を眺めているふりをするが、こんなの本当に子供だましの気休めだ。流石に通用すると思っていない。


「ルーサー」

「え?」


 平静を装って振り返ると、縦にも横にも大きな父上が眉をひそめて立っていた。

 何が『え?』だ。我ながら大根役者の酷い演技だと思う。


「あ、父上。あの、今日は月がきれいですよ」


 決して父上に向けてアイラブユーと囁いたわけではない。何も言うことが思いつかなかっただけだ。

 こうなれば、引き続き三文役者の演技をお楽しみくださいだ。かえって子供が悪さを誤魔化しているように見えるに違いない。

 ……いや、それが事実に極めて近いわけなんだけど。俺は一体何をごまかそうとしているんだ?


「こんなところで何をしている」

「空を、見ようかと……」

「ルーサー」


 名前を呼ばれただけで背筋が伸びてしまう。

 緩み切った体から発せられたとは思えないほどに力強い声だ。


「……父上と、お話がしたくて待っていました」


 父上がゆっくりとうなずき、顎肉がタプンと揺れる。


「話なら部屋で聞こう。こちらへ来なさい」


 父上、顔も怖いけど、なんだかやたらとプレッシャーがあるんだ。

 元の世界の俺の親父は、髪が薄くなったのをうまく隠せているか俺にチェックさせるようなとても威厳のある親父だった。ちなみに高校生の頃にめんどくさくなって『もう無理だって』って言ったとき『そうか……』と一言だけ言って涙目になったのをよく覚えている。

 ごめんね、親父。俺も大人になって抜け毛が気になり始めたころ、初めてその残酷さに気づいたんだ。

 でもね親父、今世は身内に禿げが一人もいないんだ。多分俺の髪の毛は安泰だよ。


 思わず現実逃避してしまうくらいには、同じ父親とは思えぬほどギャップがえぐい。


 父上は俺が横に並ぶのを待ってゆっくりと廊下を歩き始めた。

 部屋の前では扉を引いて、俺が中に入るのを待ってからそっと閉める。


「座りなさい」


 ソファに腰を下ろすと、父上はそのまま一度執務机の前まで移動してから、はたと立ち止まり俺の向いのソファに戻ってきて腰を下ろす。

 ソファがぎしりと鳴いて、父上の体が深く沈んだ。


「いつもは……、眠っている時間だが、大丈夫なのか?」


 言い淀んだのは『気絶している』と言いそうになったからだろうか。母上どころかメイドたちもみんな知っているのだから、この屋敷の主である父上が知らないはずはない。


「大丈夫です」

「そうか。しかし無理をするな。少しでも体に異変を感じたなら、ソファに横になって休むように」

「はい、わかりました」


 父上はじっと俺のことを見つめる。

 何かを間違えたのかという緊張感に耐えながら黙っていると、父上の、脂肪で圧迫されただでさえ細くなっている目が閉じられた。

 ……寝たの? いや、そんなわけないか。


「ルーサー。いつも座っている姿か眠っている姿しか見ていなかったが、ずいぶんと大きくなったな」


 父上も随分と大きくなりましたね、なんて冗談を言えるような状況じゃない。

 というか、そんなに感慨深く言われると、俺の中にあった敵愾心のようなものがしおしおと萎れていってしまう。もうちょっと芯のある人間になりたい。

 父上、ちゃんと俺のこと見てるんだなぁ。


「それで、今日はどうしたんだ」

「あ、その……。父上は、その、母上とは仲違いされているんでしょうか?」


 固まる父上。

 背中に冷や汗が垂れる俺。

 長い沈黙。

 

「それは、どうしてそう思うのだ」

「……その、母上と仲良くお話している姿を見ないので」

「…………そうか」

「母上のことが、お嫌いですか?」


 よし、頑張った俺。よく聞いたぞ、偉い。

 でも嫌いだとか言われたらどうしよう。何も考えてないぞ俺。


「そんなわけなかろう。なんだ、アイリスが何か言って……、あ、いや、やはり教えるな、聞きたくない」

「父上?」


 見たことのないような情けない表情で大きなため息をついた父上は、額を抑えて首を振る。


「話はそれだけか?」


 なんだかちょっと弱っているみたいだし、俺には思ったより優しそうだ。

 もう少し踏み込んでみてもいい気がする。


「父上は家を空けることが多いですが、ずっとお仕事をされているのでしょうか?」

「…………ルーサー、こんなことを聞いてわかるとも思えないのだが、わからないならそれで構わない。もしや私は、アイリスに浮気を疑われているのだろうか……? いや、何を言ってるんだ私は……。ルーサーはまだ4歳児だぞ……」


 勝手に百面相をしながら大きな体を揺すったり震わせたりする父上。

 これ、なんか思ってたのと違うぞ。母上の時と同じで、俺、もしかするとものすごい勘違いをしているのではないだろうか。






 

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