第11話 満月の夜と、その後の話
01 永遠
女王陛下が夕暮れの執務室の窓辺に立って、城下町を見下ろす。
あれから三ヶ月。元通りになりつつある街を見下ろして、そして、手にしている明日の壮行試合の参加者のリストに視線を落とす。
第一席に就任したミーンフィールド卿は、明日当日に城へ越してくるという。森の館からは荷物が既に中庭の横の部屋に運び込まれ、近習のテオドールが稽古の合間にそれらを整理している。日が傾き、街に明かりが灯りだす。そこに、コツコツ、とせわしなく窓を叩く音がした。
「開けてくれ、エレーヌ!」
何故か縄梯子を持って、斜め上の部屋から執務室の窓枠に降りてきたのは、ファルコだった。
「ここからじゃねえとアンジェリカに見つかるんだ。今はあの双子の食事中で託児室にいる。そんなことより、お前に、そうだ、ほかならぬお前に、頼みがある」
この城で自分をファーストネームで呼んでくれるのは、この『大魔法使い』として他国にも名を知られる『鳥の魔法使い』ファルコだけである。
「どうしたの。何か緊急の用なの!?」
慌ててエレーヌが開いた窓をから執務室に飛び降りて、ファルコが言った。
「一番良い八頭立ての馬車と、御者の服と、最高のドレスを、内密で一晩だけ貸してくれ」
「何ですって!?」
丸で想像もしていなかった要請を前に、女王陛下が思わず素っ頓狂な声を上げる。
「ゴードンのやつ、どうせ壮行試合ギリギリまであの住み慣れた森の館で、満月見ながらひとり酒でも傾けてやがるに違いねえが、そうは問屋が卸さねえぞ。一度ぎゃふんって言わせてやろうと長年思っていたんだ。それで、テオドールを呼んだ」
続いて縄梯子から、女王陛下の執務室に転がり落ちる様に入ってきたのは、テオドールだった。
「じょ、女王陛下。こんな時間に……大変失礼します。折り入って、僕からもご相談があって」
「明日の試合のことかしら」
「いいえ、それが……僕も、ずっと叶えてあげたい願いがありまして」
「叶えてあげたい願い?」
窓の外から声がする。
「あら、すごいわ! もうすっかり暗いのに、街の様子がこんなにもよく『視える』なんて……」
聞き慣れた声だが、どうも様子が違う。思わずエレーヌが窓から外を見て、言葉を失った。
「俺とロッテは約束したんだ。『いつか俺が最高の魔法使いになったら、お前を人間の女の子にしてやる』……理由は、わかるな?」
窓の外から視線をはっと戻して、エレーヌはファルコの顔を真顔で見つめて言った。
「……ええ、もちろんよ」
「話が速くて助かるぜ。もちろん、時間制限はある。満月の夜、たった一晩だ。明日の朝には元通りだがな」
「すぐに手配するわ。テオドール、衣裳部屋へ続いている裁縫室の皆はもう帰ったはず。手伝ってくれる? それと、八頭立ての白い馬車は城の東の倉庫よ」
「かしこまりました! 馬の繋げ方なら知ってます。森の道も慣れているので、僕が御者をやります。送って、降ろして、直ぐに帰ってきます。明日は試合があるので、僕も早く帰ってこないと。………つまりは、そういうことですよね」
「頼もしいわ。あなたも随分頼もしくなったのね」
「こ、光栄です! 僕もずっと、お師匠様と『彼女』のことが、気にかかってて……」
窓の外にちらりと視線を投げるテオドールを見て、エレーヌが、女王陛下の顔になって微笑む。
「彼は『彼女』がどんな姿でも愛することでしょう。だから心配はいらないわ。けれど、彼女が持つのは、どんなに素敵な乙女でも『魔法でもなければ』決して叶わない夢。ファルコは、そう、私の魔法使いは、とうとうそんな乙女の夢を叶える力を持つことが出来たのね………」
そして窓を大きく開けて、白い手を伸ばす。
「さあ、こちらに来て、私のお城の小さなレディ。可愛いロッテ。とうとう、夢を叶えにいく日が来たのね。一番素敵なドレスを選んであげるわ」
女王陛下が窓の縄梯子から『小鳥の様に』身軽に部屋へ飛び降りてきた、真っ白な肌に赤い瞳の、ファルコと少しだけ面差しの似た銀髪の少女を思わず抱きしめる。
「女王陛下。私……」
「そうね、私だってゴードンをぎゃふんって言わせてみたいって言われると、申し訳ないけどちょっと心が躍るわね。たっぷり、驚かせてきなさい。……大丈夫、彼はあなたがどんな姿をしていても、あなたを愛しているわ。でも、女の子は我儘でいいの。あなたがずっと夢見ていたように、綺麗なドレスを着て、とびっきり素敵な馬車に乗って、誰よりも愛している人に会いに行くことだって、許されるのよ」
銀色の髪を優しく指先で梳いてやりながら、エレーヌが優しく囁いた。
「それに、今のあなたには恋の翼があるわ。乙女の目にしか見えないとびっきりの翼が。……さあ、こっちよ。まずはドレスを選ぶわ。御者の服もあるから、テオドール、そのあたりの準備は頼むわね」
「かしこまりました!」
テオドールが速やかに部屋を退出していく。
「頬紅と口紅、髪飾りも貸してあげる。ああ、嬉しいわ、なんだか妹が出来たみたい!」
女王陛下が、執務室の片隅にあるドレッサーを片っ端から開けて、ありったけの化粧道具を抱え込み、ロッテの手を引いて、人気の少なくなった城の廊下を駆け出した。
そんなエレーヌを見送りながら、ファルコが口の端を釣り上げて笑い、機嫌よく口笛をひとつ吹いてから、執務室のソファに深々と腰を下ろして目を閉じた。
閑散とした館に、寝台と机、そしてこの滋養豊かな森で暮らす最後の日々にふさわしい食べ物と、ランプだけが残っている。
庭や館の花々も可能な限り城の中庭に運ばせて、ただただ静かな部屋で、静かな夜を過ごす男が、窓に昇ってきた満月に何気なく視線を投げた。少し冷たい風が吹き、庭の木々が秋の訪れを耳に囁く。
ふと、微かに、森中が何やら楽しげにさざめく音がした気がして、ミーンフィールド卿は少し首を傾げてから立ち上がった。軽快な馬車の音が近づいてくるのが聞こえる。丸で祝祭の日のパレードの馬の様な、軽やかな蹄の音。
(壮行試合は明日だが、もう迎えが来たのだろうか。それにしてはどうも妙だが)
階段を降りて、いつものドアを開ける。同時に、月光に照らされて、白い八頭立ての美しい馬車が、館の前でぴたりと停止した。
「ありがとう。素敵な『御者さん』。きちんと、間に合わせてくれて」
聞き覚えのある声が、馬車の中から聞こえる。若い御者がゆっくりと、日の暮れた森に突如現れた馬車の扉を開き、一人の女性がまるで『小鳥の様に』、地面へひらりと降り立った。
「それでは、僕はこれで」
御者の声にも聞き覚えがある。
「………テオドール?」
それには答えず、帽子を深く被りなおして、『御者』が一礼し、馬車の扉を閉めてから馬に鞭をあて、くるり、と綺麗に馬達を回転させる。
「馬の扱い方を教えて下さって、ありがとうございました、お師匠様。お師匠様って呼ぶのも、今夜が最後になるかもしれないけれど!」
風の様に軽やかに、八頭立ての美しい馬車が走り去っていった。そして残された二人が、館の前で対峙する。
「私が、誰だかわかる?」
「………わからないとでも?」
ミーンフィールド卿が眉間に手を当てて、呟く。
「ファルコの、いや、ファルコだけじゃないな、エレーヌもか」
「ぎゃふんって言わせてやりたいそうよ、あなたを」
「………完全に油断をしていた。私ということが」
「嬉しいわ。心の準備なんかされちゃったら、入り込めないもの」
白く美しいドレスを纏った、銀の髪に赤い瞳、真っ白な肌の、だが闊達な小鳥の面影そのものを持ち合わせた少女が、呟く。
「入り込めない?」
「あなたの心によ」
秋風に白いドレスが翻る。
「私、ちょっと怖かったのよ。こうして、あなたと、人間の姿で向かい合うのが。……『そうじゃない』って言われたら、どうしようかって思っていたわ」
そんな少女に、いつもの人差し指ではなく、片方の腕を差し出して、ミーンフィールド卿が笑いを零す。
「そなただけは、私を怖がらないと思っていたのだがね」
「顔の話じゃないわ。でも、あんな大怪我をして顔面血塗れで運ばれてきた時は、私、気絶するかと思ったのよ」
慣れない仕草で、ロッテがそんなミーンフィールド卿の腕を取る。
「それで、怪我の具合はどうなの?」
「私は『緑の魔法使い』ゆえに、多少は樹々からの恩恵が受けられる」
「……ああ、本当は朝まで人間でいられたら良かったのに。朝、一緒に歩いて散歩してみたかったのよ、この森を」
「いつか、叶うだろう」
「そうね」
月の光が、ただただ森の館を照らす。暮れた森の樹々と、月の明かりだけが、この秘密めいた二人の逢瀬を静かに見つめる。
「さあ、館へ。この森最後の夜に、そなたと共に過ごせるとは思ってもいなかった」
館のドアを開けて、静かに二人で階段を昇る。
「不思議な気分ね。この階段を、『歩いて』いるなんて」
「翼がないのは不便かね」
「いいえ、全然よ。もしも背中に翼があったら、こんなに素敵なドレスは着られなかったわ」
「成程、不思議なものだ」
「でも私、翼があるの。この姿になってもよ。何の翼かわかるかしら」
「それは、答えを口に出したら野暮なものかね?」
いつも毎朝ロッテが訪れている部屋の前で、ミーンフィールド卿がふと足を止めて呟いた。
「……夜にそなたと過ごすのは、そういえば初めてだったな、ロッテ」
「そうね。日が暮れるまでに、お城に帰らないといけないから」
「今度は私が、朝になったら城に帰る番か」
二人が愉しげに笑う。大きな十字傷に、大きな口髭。ロッテが背伸びをして、嘴ではなく、そんな茶色の口髭に、唇でつつくように触れる。
これは樹の色。私の止まり木。他の誰のものでもなく、今宵月が満ちる間は、私だけの人。ロッテが、赤い瞳からぽろりと涙を流す。
「不思議ね。悲しいわけじゃないのよ。でも人間って、こういう時にも泣くものなのね……」
ミーンフィールド卿が眼帯を外し、左右で少し異なる深く濃い緑の瞳で、ロッテの赤い瞳を覗き込む。
「レディ」
「何かしら」
「やはり、髭は剃っておくべきだったかな?」
珍しく卿が笑いながら、ロッテを静かに抱き上げる。
「いやよ。私、あなたの全てが好きなのよ。どこも、かしこも」
「成程、宜しい。私とて同じこと」
館の中に、足音だけが響く。
「……バルコニーで交わした約束、覚えていて?」
抱き上げられたロッテが、囁いた。
「勿論」
片手で、ドアを開ける。首に回された柔らかい手が、歓びと緊張で僅かに震える。
「心臓の音が聞こえるな」
「そろそろ、破裂してしまいそうよ」
「それは困るな。秋の夜は『永遠』の様に長いゆえに」
ミーンフィールド卿が、後ろ手で寝室のドアを静かに閉めた。
「良い夜だな」
女王陛下の執務室のソファに仰向けに転がって、ファルコが機嫌よく笑う。
「ご機嫌ね。乙女の夢を叶える力を持っている大魔法使い様」
「そう言われると妙に照れ臭くもあるな。ま、いいさ、良い葡萄酒があるんだ。祝いに飲もうぜ」
「あら、良いわね」
ファルコが立ち上がると、部屋の窓を開けてフクロウを呼び寄せる。フクロウが大きな瞳をぱちくりさせてから飛び立っていき、しばらくして一本の葡萄酒の瓶を持ってきた。
「ワイングラスがないわ」
「口移しで」
「馬鹿ね。台無しじゃないの」
月が窓の外高くに輝く。誰にとっても平等に、だが少しだけ、あの二人にとっては特別に美しくあれ、とエレーヌはそんな月に語り掛けるように呟く。
「誰かにとっては、きっと永遠の夜なのよ」
「違いねえな」
葡萄酒の瓶の栓を開けると、芳醇な香りが香水のように部屋に漂う。
「酔ってしまいそうね。明日は大仕事なのに」
「来賓は」
「色んな国から来るわ。アルティス国王も来てくださるそうよ。オルフェーヴルのお兄様も一緒に。他にも、色んな国から」
「忙しいな。鳥達もご婦人方から騎士殿への各種恋文の配達やら言付けやらでてんてこ舞いになりそうだ。ゴードンの奴、次はどう出るかな……」
「どう出るって?」
「上手いこと俺らに仕返しを考えるに決まってるじゃねえか。対策を練っておかなきゃならねえぞ?」
「一晩で思い付くかしら」
「何とかしねえとな」
「ふふ、そうね」
ソファで葡萄酒を瓶で呷るファルコの隣に座り込み、エレーヌが笑う。
「永遠か。そういやどこぞの女王陛下にまるっと持っていかれたままだった。いつか、返して貰わねえとなあ」
葡萄酒の瓶から口を離し、ソファの脇のテーブルに静かに瓶を置いて、エレーヌの顔の正面で、ファルコが囁く。
「ここにいる男はもしかすると、大鷲に変身して、若く麗しい女王陛下を誘拐する、悪い魔法使いかもしれねえぞ?」
「あら、困ったわ。これで誘拐騒ぎは何度目かしら」
「二度か三度か、忘れちまったな」
「私は待たないって決めたけど、待たせることはあるのよ?」
「ワガママなお姫様だな相変わらず」
「お姫様だなんて呼んでくれるのは、もうあなただけね」
そんな『女王陛下』が、ふと溜息をつく。
「そうか、そうだろうな。俺にしてみりゃ、お前は何時だって『お姫様』のままだ。多分、これからも」
「何歳になっても?」
「お前は俺の永遠を持っていったままだからな」
「じゃあ、返さないことにするわ」
「そうだな。それでいい。俺は鳥頭だからな、大事に預かっておいてくれよ。だが、そうだな………」
ひょいっと葡萄酒の瓶を片手に立ち上がると、ファルコが笑う。
「こいつがその証だ」
持ち上げた瓶の下に、いつの間にか煌めく指輪が置かれている。蜜にも似た琥珀色の石の嵌まった、細い金の指輪。
「………さて、見つからねえうちに帰るぜ。明日は大仕事だ。適当に厳めしい面構えして、我らが女王陛下の後ろで控えてなきゃならねえ。大魔法使い様、か。箔付けに適当なでっかい杖でも買うかな。領収書はツケでいいか?」
エレーヌが目の端に涙を浮かべて笑う。
「駄目よ。自腹で購入してちょうだい。でも………」
「何だ?」
「この指輪を、薬指に嵌めてくれる? そうしたら、ちょっとは考えてあげてもいいわ」
ゆらゆらと葡萄酒の瓶に丸い月が映る。
「………ああ、いいぜ」
ソファに腰掛けなおし、ファルコが指輪を手に取った。
「待たせないって言ったのは俺だからな」
細く白い指に、指輪がするりと収まっていく。エレーヌが何度も何度も薬指に嵌まった指輪を見つめて、撫でて、愛おしみながら、言った。
「……昔から、考えることが時々一緒よね、私達。どうやってお忍びで街に出るか、誰に相談するかでずっと困っていたの。これからは、困らなくなりそうだけど」
おもむろに立ち上がって、執務室の引き出しから小箱を取り出して開く。金の翼を模した細工の指輪。思わずファルコが天を仰ぐ。
「………ああ、やっぱお前にゃ敵わねえなあ」
「そんなことないわ。帰る前に、薬指を貸してくれる?」
「永遠に貸しておいてやるよ」
ファルコが言われるがままに、節くれ立った、少しばかり傷の多い左手の薬指を差し出す。その左手の手の甲に、ぽとりと涙が落ちた。
「ゴードンが、あなたを私の館に連れてきたあの日からよ。何年も、ずっと……」
堅物な若い騎士が、街の不良少年を伴って館にやってきたあの日。まだ『姫君』だった自分。過ぎ去りし日の数々の思い出が、長年醸造した葡萄酒の香りの様に、二人の間を流れていく。
「……気が合うな。俺もずっと、そうだったんだよ」
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