04 緊急事態

「……そうそう。僕が出した書類を見て、ジャコモ卿は目を丸くした。『アルティス王家に連なる名家の青年が、このような小国に何用かな?』と。僕は包み隠さず事情を話した。すると、卿は言ったのさ。『つまり貴殿には算術の心得がある、と。複式の算術も、土地の利益に合わせた計算も、お手の物だということかね?』……気が付いたら法務官の館に呼ばれていてね。御年九十歳だったジャコモ卿に熱く言われたのさ。『このまだ新しい国の為に力を貸して欲しい』」

 オルフェーヴル卿が、胸にかけている小さなペンダントを見せる。意志の強そうな瞳が印象的な老人の横顔が彫られている。

「『でも僕は騎士になりたい』そう言ったらジャコモ卿は呵々と笑ったよ。『わしの愛娘は騎士で魔法使いじゃよ。そういえば、今年は何故か城下町の古書店の店主からも騎士団入団の申請があって、ちょっとした騒ぎになっておってな』」

 テオドールが、カールベルクの古書店で出会った、腰に剣を佩いた中肉中背の人の好さそうな店主を思い出す。たっぷりと色んな貴婦人の刺繍のサンプラーを『出世払い』ということで、無料で譲ってもらったことも。

「ラムダさんですよね。僕、あのお店には『出世払い』のつけがあるんです」

「はは、じゃあもっと頑張らなきゃね。僕もあそこには色んな算術書を買いに行ったけど、だいぶ安くしてもらったものだよ」

 井戸水の水が二人の喉を潤す。戻ってきたミーンフィールド卿が、たっぷりと蜂蜜が塗られ、獲れたての果実が挟まれている朝焼いたパンのバスケットを差し出した。

「剣の稽古はどうかね」

「はい! なかなか一本取れないんですが、でも、いろんな事を教えて貰って」

 ガエターノがひらっとそんなテオドールの腕の上に飛び移り、恭しくミーンフィールド卿に挨拶する。

「久しぶりだな、ガエターノ。貴殿の館の奥方殿、アンジェリカはご健勝かね」

 小さなツバメが、もちろんですとも、と言わんばかりに胸を膨らませる。文字通りの『燕尾服』を着た小さな執事みたいだ、と思わずテオドールは微笑みを噛み殺す。

「少し休憩したら、再開しましょう」

「ああ、出世払いは大事だからね! それにしても、ああ、本当に、相変わらずここの館の食事は何でも美味しいんだよね……」

「何なら野菜を持っていくか」

「そうさせてもらうよ。あと、臨月や出産後の奥さんや生まれたての赤ちゃんが食べる食事って、どういうのがいいのかな。多分アンジェリカより僕の方がそういうのを作るのには向いてそうだから、今のうちに聞いておこうと思ってね」

「母が良い本を遺していったはずだ。城の薬師だったからな」

「助かるよ」

「出産前後の女性用の薬と赤子の薬も煎じて瓶に詰めて一式箱に詰めてある。取ってこよう」

 ミーンフィールド卿が立ち上がり、館へ戻りかけてはっと足を止める。

「……二人とも、建物から離れろ」

 途端に、空気を切り裂くような音が響き渡る。はっと立ち上がったオルフェーブル卿につられるように立ち上がったテオドールの足元が、突如突き上げられるように強烈に揺れる。

「お師匠様!」

「落ち着け、地震だ。この館は頑丈だが、念のため壁から離れろ。しかし、おかしい、木々が悲鳴を上げている………」

 カールベルクには地震が少ない。数十年に一度あるかないか、その程度のものである。丸でミルクを注ぐカップに入れられたように、地面がぐらり、ぐらりと回り、ミシリ、バキリ、とあちらこちらから不穏な音が響く。庭の植木鉢が次々に倒れ、厩舎の馬達が悲鳴を上げる。

「これは………」

 燕のガエターノが細く高い、悲鳴のような声を上げて東の空を見上げる。遥か遠く東の空が、まだ昼間なのに恐ろしく紅い空に染まり、雷鳴が何度も何度も響く。

「ガエターノ。急いでアンジェリカの所に行くんだ! 館か、城だろう。僕は無事だ。すぐに帰ると伝えて。ミーンフィールド卿」

「待て、薬を持っていけ。アンジェリカは臨月だ。何が起きるかわからない。私達も後程、城の方に向かう。決して焦らないように。街の様子はファルコの鳥達が調べてくるはずだ。これだけの大きな地震は私でも経験がない。損害の規模を『算出』しなければならなくなるだろう」

 その『算出』という単語を聞いて、オルフェーブル卿が、ふと息を吐く。

「……ありがとう、ゴードン。やれることをやるよ」

「名前で呼ばれるのは久々だな、オルフェ。そうだ、危急の時ほど落ち着けば大体のことは何とでもなる、と私はジャコモ卿に教わった」

「そうだったね。しかし、今の地震……」

 二人の騎士が、何故か真っ赤に染まり雷鳴を上げている遠い東の空を見上げる。

「……只事ではないだろう。この地震、『自然のものではない』可能性がある。木々が皆恐れ怯えている。だが、今はやれることをやっていてくれ。城の民間への開放および騎士団から救護班を設立することも考えておいてほしい。良からぬことも起きている可能性があるが、不安を煽ってもいいことはない。テオドール、君の父君と母君に連絡を取ろう。母君は郊外だと言っていたが、父君は」

「町の外科医です。馬を走らせますか、手紙にしますか。まだ町の診療所にいると思いますが、その、足が悪いから……」

「……私から一筆書こう。すぐに家に戻って、父君の無事を確認してくるといい。その後は城で落ち合おう」

「わかりました!」

 立ち上がろうとして、思わずよろめく。

「水を一杯、ゆっくりと飲むんだ。この揺れで酔ったのだろう」

「は、はい」

「近習がいて良かった。この事態、一人では対応しきれなかっただろう」

 先程くみ上げた井戸の水を飲んで、息を大きく吐く。不自然に森がざわめいているのは、もうこの森が住処同然になっている自分でもわかる。そして、ふと井戸の底を見て、テオドールは声を上げた。

「お師匠様、水が、光ってます……」

「何だと」

「銀色に」

 思わず眉間に手を伸ばしてから、ミーンフィールド卿は言った。

「オルフェ、皆に、変な色の水は使わないように、と伝えてくれ」

「了解。それとゴードン、あれはアルティス王国の向こう、つまり帝国の方の空だ。微かに見えるあの高い山が国境線だから、わかるんだけど」

「やはりそうか。良い予感はしないな。アンジェリカには無理矢理にでも薬一式を押し付けておくように。さもなければ全身甲冑とあの剣を取り出して来かねない。彼女も『風の魔法使い』だ。この異変には気づいているだろう。薬を取ってくる」

「僕、馬を準備してきます!」

 やっと立ち上がれるようになったテオドールが厩舎へ駆け出し、ミーンフィールド卿が館へと踵を返す。オルフェーブル卿が大きく一息ついた。

「二人ともありがとう」

 ひらり、と肩の上のガエターノが頭の上を一周する。

「さあ、行っておいで僕達の燕、可愛い執事。アンジェリカに連絡を取ったら、ファルコのところに行くんだ。今の会話、彼にも伝えておくといい」

 丸で弦から放たれた一本の矢の様に速く、ガエターノが一直線に飛び立っていく。オルフェーブル卿が目を細めて、赤く染まる彼方の空を見る。

(帝国と、カールベルクの間には、僕の故郷がある)

 皮肉なものだ。捨てたはずのものがこんなにも気になるとは。東の帝国とカールベルクの間には、自分の故郷アルティス王国が広がっている。

「………大丈夫。何せ兄弟が三十三人。僕がいなくとも、なんとか家を守っているはず」

 恩人の横顔が彫られたメダルを、無意識のうちに握りしめる。自分が自分であることを許された場所、自分に居場所を、誰よりも愛しい人をくれた小さな国。魔法の素養のない自分には何が起きるのか皆目見当がつかないが、銀色に染まった井戸水が、何か不穏なことをそんな自分にも予感させる。

「オルフェ、これが薬だ。面倒な事態が待ち構えている予感がするが、アンジェリカに伝えておいてくれ。私は面倒に慣れている、とな。私が到着するまで頼んだ」

「心強いよ。城は任せて。騎士団が招集されるはず。城下の被害はファルコに報告させるよ」

「了解」

 テオドールが連れてきた馬にオルフェーブル卿はひらりとまたがって薬を受け取ると、深く息を吐いて、いつものように爽やかに笑う。

「城で会おう!」

 そして、一気に森の中の街道を、駆け出して行った。

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