余話 盲目の王と菫の近習

01 砂漠の菫

 自分の顔に新しい包帯を巻き直した、砂漠の王の近習が小さな声で囁いた。

「これで包帯も最後です。どうか、急いでお逃げください」

「しかし貴殿と王は……」

 近習が首を横に振る。外で砂漠の民の天幕が赤々と燃える炎を通し、部屋の中は夜だというのに仄明るい。菫色の瞳をした近習が、顔に大きな怪我を負いながらも、最後の最後まで砂漠の王の大天幕の護衛に残ってくれていた唯一の騎士に言った。

「あなたは遍歴の人。ここで旅を終えてはなりません。………けれどまさか、最後の最後まで共に戦っていただけるとは」

 歳の頃は二十代程の、カールベルクという西の小国からひとり、修行の旅の最中にやってきたというまだ歳若い騎士が言った。

「こうして、顔の傷を手当てしていただいた恩だ。ダリーズ卿、あなたは」

 東の帝国の領土の隅にある、花も咲かない砂漠の民が住まう領地。突然の帝国の侵攻にも耐え抜いて今日でちょうど三週目だった。

「………私は、陛下を最後までお世話いたします。そう決めて、今日まで生きてきました」

 ファラハード・ダリーズ卿。気難しい盲目の砂漠の王唯一の近習として仕える騎士が言う。この砂漠では騎士だけでなく、王もまた近習を従える風習があった。ダリーズ卿の菫色の目には、そんな孤高の王へ対する美しい思慕と陶酔が、外を焼き尽くす炎の光よりも激しくちらついている。王の前では男性として振る舞うこの近習は、女性だった。

 盲目の砂漠の主アルトゥーロ王。年の頃は五十を過ぎた頃合の、威厳と孤独に彩られた男が、天幕の奥でひとり静かに佇んだまま問いかけた。

「………そこに残っているのは、遍歴の騎士と言ったな。名は」

「ゴードン・カントス・ミーンフィールドと申します」

「砂漠を知らぬ一介の騎士が、我が手勢の中で最後まで生き延びるとは。そこに転がっている帝国兵の甲冑を着れば落ち延びることができよう。……だが、その前にひとつ教えてやれることがある。こちらへ」

 手招きされるがままに、ミーンフィールド卿は王の前までやってきて傅く。

「………緑の魔法使いが、何故砂漠に?」

 魔法が使える、ということは誰にも教えていなかったはずだが、何故にこの王はそれを知っているのだろうか。そんな疑問が浮かぶが、今はそれをこの王に問いただす時ではない。

「剣のみで己を試すには良い機会かと」

 くつくつと王が笑う。

「それで帝国相手に顔に大きな傷を追うとはなかなかに間抜けな騎士だ。しかしまあこの状況でここまで生き延びるとは大した者でもあるらしい。………我らが冥土に発つまで立ち会うにもよかろう。この大天幕を焼き払い、必ず落ち延びるように」

 一心同体のように過ごしていた近習のダリーズ卿の本当の性別を、この盲目の王は知っているのだろうか。だがそれをここで聞くのも野暮なことだ。すると、そんな心を見透かしたのか、王が静かに問うた。

「我が近習の瞳の色は何色をしている?」

「菫色ですが」

「菫か。砂漠には咲かぬ花か」

 ミーンフィールド卿が、思わず返事を返す。

「………いいえ。私は砂漠に菫が咲くのを見ております」

 何故そんな言葉が自分の口から出てきたのだろう。自分でもまるでわからなかったが、王はその言葉をゆっくりと吟味するように、盲いた瞳で自分の瞳を凝視する。そして言った。

「生まれつき目が見えぬ故に、帝国の王位には就けず、このような砂漠に放り出された。二十年も昔のことだがな。……だが、余には目が見えぬゆえに『見えないはずのものが見える』ことがある。この国の王、我が兄が恐れるのも当然のこと」

 天幕内に一段高くなるよう出来ている『王の間』に佇み、アルトゥーロ王は白い杖をミーンフィールド卿の肩に乗せる。

「正直でお人好しの緑の騎士よ。おぬしはここで散るさだめではないな。だが覚えておくように。……刻んだ縁とは、切れるものではない。おぬしの顔に刻まれた傷のように。誰がおぬしの顔に縁を刻んだか、決して忘れぬように」

 そして、杖を降ろして地面を三回叩く。ダリーズ卿を呼ぶ時の合図である。

「………ファラハード。否、本当は、砂漠の女の持つ平凡な名のひとつでも持っているのだろう。我が菫よ」

 ぎょっとしたダリーズ卿が自分の方をきっと睨む。ミーンフィールド卿は静かに首を横に振ってやった。

「何故、それを」

「おぬしの目は菫と聞いた。余に墓はいらぬが、菫一輪を携えて冥土を歩くのは、花の香らぬ我が砂漠の散歩よりも愉しいものやもしれぬ。前におぬしが願い出たように、この余と共に何処までも逝くことを許す。準備を」

「有難き……ああ、有難き幸せであります、陛下」

 ダリーズ卿が、まるでプロポーズを受けた乙女のように顔を紅潮させ、唇からほろりと喜びの言葉を漏らす。

 帝国と砂漠の民との戦。砂漠の民らも大勢力相手に予想よりははるかに長く戦った。それにしても、砂漠の女性というのは何と不可思議な存在なのだろう。騎士として、それを止めるべきなのか否かを考える。

 しかし、顔を紅潮させ、迫り来る死の足音よりも軽やかに死出の支度をはじめたダリーズ卿を見て、開きかけたはずの口は自然に閉じていく。

 ゴードン・カントス・ミーンフィールド。この時二十三歳。それは後に生涯の相棒『鳥の魔法使い』と出会い、遍歴の旅に出るよりも前の出来事だった。



 目を覚ますとパンを焼く優しく愉しい匂いがする。近習のテオドールは意外にも早朝のこの仕込みが得意だった。刺繍の図案を考えながらパンを焼くとあっという間らしい。そろそろロッテが迎えに来る時間だ。

(懐かしい夢を見たな)

 王と近習が永遠に眠る大天幕を焼き払う前に、ダリーズ卿の冷たくなった掌をそっとあの白い杖に添えてやったことを思い出す。

 婚姻にも似た永遠の旅立ち。金の砂漠を燃やす紅い焔よりもなお熱い、人を想う心。それを見届けたのが自分のような一介の異邦人で良かったのか、今でも明確にはわかりはしない。

(帝国か)

 ファルコが海の彼方から持ち帰ってきた種が芽吹きだしている。小さな小さな緑達が、若葉ならではの幼い声で、卿に朝の挨拶を投げかけながら微かに揺れる。

「おはよう。今日から久々の登城になる。帰りは少し遅くなるが、給水器に水を入れておこう」

 懐かしい夢のせいか、寝台の上に腰掛けたまま、ミーンフィールド卿は大きく息を吐く。そして立ち上がり階段を降りてそっと外に出ると、庭の隅には菫の鉢植えがあった。

 ほかの花々とは異なり、砂漠の色によく似た鉢に植えられた菫。地面だけを見つめるように咲く花が、静かに揺れて朝の挨拶をしてくれる。僅か控えめに香る小さな紫色の花。

 砂漠の民は墓を持たないという。だが、彼なりの追悼であり、最も苦しかった遍歴の旅を忘れないための鉢植えである。

(ロッテには話しただろうか)

 カールベルク城に行く途中の馬上で、ロッテやテオドールにも話すべきか。否、もっと楽しい話が良いだろう。何を話すかは、朝食を食べながらゆっくりと考えることにしよう。ファルコとの道中は愉しいことがあまりにも多かったが、その中に『レディや未成年にも聞かせられる』ものは一体いくつあっただろうか。

 そんなことを考えながら立ち上がって一息つくと、ミーンフィールド卿は、館の入口脇の橘の木の横を通り抜け、食堂へと静かに戻っていった。

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