第8話・百目婆

 特に眠くはないが、何だか身体はフワフワしている。世界全体が眩しく感じるからだろうか。夜勤を終えた完全な徹夜明けは、いつもの景色もどこか違って見えてくる。

 これから出勤していく会社員風の人達が、まだ眠そうに欠伸をこらえた顔でバス停に並んでいるのを横目に、千咲は自販機で買ったコーンスープで指先を温めながら歩いていた。足早に駅に向かう周囲の様子を他人事のように眺めながら、ゆっくりと改札への階段を昇っていく。


 これまでとは真逆の生活時間。今から帰ってシャワーを浴びて、それから寝るとなれば目が覚めるのは何時だろう。世の中の流れとは逆行しているみたいで、ちょっと気分がいい。徹夜明けのおかしなテンションのまま、千咲は自宅の最寄り駅まで帰ってきた。


 通っていた短大からはたった二駅の距離。進学を機に一人暮らしを始めてから二年半、駅から続く大通りにはまだ一度も入ったことが無い店もたくさんある。そういった面ではまだまだ遊び足りないなと思うことがある。


 学生向けのワンルームマンションが多いこのエリアからは、無事に試用期間が終わった後にでも引っ越すつもりでいた。マンションの一階にコンビニが入っていて、周辺が深夜でも騒がしいのが嫌だった。でも、千咲自身が夜中に家に居ないのなら、別にそれももうどうでも良くなってきた。


 ――んー、でも、近くに大きいスーパーが無いんだよね、この辺。


 駅前にある小綺麗なスーパーは総菜やアルコールの品揃えはいいが、普段使いにはちょっと割高だ。もう学生じゃないんだからと実家から仕送りを打ち切られて以降、どうも敷居が高くて入り辛い。社員になったといっても時給で働く契約社員。そんな贅沢をする余裕はない。


 ――日用品は店の近くのドラッグストアで何とかなってるけど、肝心の食料品が……。あ、わざわざ引っ越さなくても、他のスーパーに行けるように自転車があればいいんだ。あれ、自転車って、いくらくらいするんだろ?


 ちょうどすれ違った自転車を羨まし気に横目で眺める。朝の澄み切った空気の中を颯爽と走るのは気持ちが良さそうだ。そんなことを考えている内に、見慣れたコンビニの看板が視界に入ってくる。


 マンションの建物の脇にある玄関アーチを潜りかけた時、コンビニの置き看板の横で、背を丸めて立っていた和装の小柄な老女と目が合った。背筋に冷たい物が走ったように、身体中がゾクッと震える。明らかに異様な雰囲気を漂わせた老女は、薄汚れた古い着物の裾を引きずりながら、千咲の元へと近付いて来る。


 コンビニの前で煙草を吸っている客もいたが、彼には老婆の姿は視えていないみたいだ。歩道を通る人も気にする様子はない。その異形が視えているのは千咲ただ一人。


 裸足で歩くペタペタという足音が、千咲の後ろに迫り寄る。ちらりと振り返り見れば、艶の無い髪を振り乱した老婆が恨めし気なじっとりとした視線で、千咲を捕まえようと黒ずんだ腕を伸ばしていた。そのこちらに向かって伸ばされている腕には、生気のない無数の眼。まるで鱗のように、腕の表皮にびっしりと並んでいる。明らかに人外だ。その老女の全ての眼が千咲の方を見ているのだ。


 恐怖で声が出ない。たとえ助けを求めたところで、これが視えているのはおそらく自分だけ。脚がもつれそうになりながら、千咲は必死で駆けだした。睡眠不足のせいか、思う通りに足に力が入らない……。


 だが不思議なことに、身体中に眼を持つ老婆が三歩離れた距離以上を近付いてくる気配はなかった。千咲との間に、何か視えない壁でもあるかのように。これは白井から手渡された護符の魔除けの効果なんだろうか。


 急いで階段を駆け上がり、三階にある自宅に飛び込んだ後、そっとドアスコープから外の様子を覗いてみる。そして、ドアの向こうに誰もいないことを確認すると、千咲はふぅっと肩で息を吐いて深呼吸した。まだ心臓がバクバクと早鳴っている。


 白井が言っていたタチの悪い物というのは、さっきのみたいなのだろうか。視えなかったとはいえ、いつもあんなものを連れて歩いていたのかと思うと、ゾッと背筋が凍りつく。昨日までの自分の能天気さに呆れてしまう。


 驚きと恐怖と睡眠不足が重なったせいだろうか、シャワーも浴びずに千咲はベッドへと倒れこんだ。いろんなことが一度に起こり過ぎて、今は何をする気力も出ない。疲れ切った頭も身体も、ただただ休めたい。

 護符を入れたスマホケースをぎゅっと握りしめながら、千咲は深い眠りについた。



 枕の横で転がっていたスマホがLINEの通知を知らせる音で、千咲はビクっと全身を震わせて飛び起きる。耳のすぐ真横で鳴り続けている通知は、どうせグループLINE内でスタンプ合戦にでもなっているんだろう。煩わしいとマナーモードに切り替えてから枕の下に突っ込む。


「……もうちょっとだけ、寝かせてよぉ」


 カーテンの隙間からは少しオレンジがかった夕日が差し込んでいる。思ったよりも長く寝てしまったと、ベッドの中で両腕を伸ばした。

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