第7話・化け狸

 この店で唯一日の光が差し込んでくるのは、エントランスの自動ドアと入り口壁面のガラス窓。眠ることを目的に来店する客もいるくらいなので、ブースの天窓は常時ロールカーテンが下ろされていて、一日中いつでも薄暗かった。自動ドア越しの柔らかな朝日に気付き、千咲はカウンターの中で大きく伸びをする。日の光の眩しさに目を細めながら、どうにか夜勤をやり切ったという充実感を感じていた。


 夜行性なのだろうか、女郎蜘蛛はたくさんある脚を丸めて天井付近で縮こまっている。それでも十分に迫力のある大きさではあるが。

 白井の言う通り、特に何も仕掛けては来ないし、一晩中いつでも視界の内に入ってくれば嫌でも慣れるかと思ったが、やっぱり何度見ても怖いものは怖い。たくさんある長い脚も、グロテスクに黒光りしている胴体も、ギラギラした大きすぎる眼も、全てが息を飲むほどに恐ろしい。


 平日ということもあってか、この店で夜を過ごしていた客は喫煙禁煙の両ブースを合わせて五人。休前日にもなればもっと賑やかなまま朝を迎えるが、学生の長期休暇中でもなければ平日なんて閑散としていることが多い。その内一人は最寄り駅の始発時間になると、慌てたように退店して行った。サラリーマン風だったので、これから帰宅して着替えてからまた出社なのだろうか。この店で少しは身体が休めていたら良いのだけれど……。


 奥の厨房では白井が、注文を受けたばかりのモーニングセットを作っている。ポテトが揚がるフライヤーの音と、パンがトーストされている匂い。早起きか徹夜かは不明だが、朝勤でも頻繁に顔を見かけたことがある若い男性客が、ドリンクバーのコーヒーサーバから魅惑的な香りを漂わせていた。


「おはようございまーす」


 入口前に中型トラックが横付けされると、作業服姿の短髪の配達員が一抱えある茶封筒と紐で束ねられた雑誌を持って小走りで入ってくる。書籍専用の宅配便業者だ。当日発売の雑誌やコミックスはいつもこの時間に送り届けられる。たまに配送が遅れて朝勤の時間にズレ込むことがあり、これまでも何度か顔を合わせたことはあった。


 慣れた風にカウンター上に荷物をドスンと置いてすぐに戻っていくだけだから、トラックのエンジンはいつも付けっぱなしだ。入る時に開いた自動ドアが完全に締まる前に出ていくほどの早業だ。


 大蜘蛛は業者の出入りにはピクリとも反応していない。このあやかしは、本当に無害なんだろうか。何の目的があってこの場に留まっているのだろう。分からないことだらけだ。


 深夜客の半分が退店した後のブースはとても静かだった。まだ眠りこけている誰かのイビキと、カチカチというコントローラーの操作音だけが微かに聞こえているだけ。同じ空間にいても、それぞれが全く違う過ごし方で朝を迎えたようだ。


 バッシングから戻った千咲がフロントで消毒液の補充をしていると、聞き慣れた原付バイクの音が外から聞こえてきた。いつもの特徴あるエンジン音だ。


「あ、店長が来られましたよ」


 フロント裏の事務スペースに向かって声を掛ける。夜勤の報告書を記入していた白井から「ああ」という興味なさげな返事が戻ってくる。


 ――店長は化け狸だって言ってたよね、確か……。


 先輩から聞かされた情報に半信半疑で外の様子を覗ってみると、いつもと同じシルバーのヘルメットを窮屈そうに被った中森が、ちょうど原付から降りようとしているのが見えた。


「へ?!」


 千咲は眼をパチパチと何度も瞬きして確かめる。徹夜明けで幻覚でも見ているのだろうか。それとも、知らない内にうたた寝でもして夢を見てしまっているのだろうか。中森のバイク姿なんて、今まで何回も見たことがあり珍しくはないはずだ。

 驚いたと同時に、なんだそういうことかと納得している自分もどこかにいた。


 これまで原付バイクだと思っていた物の正体は、なんと三匹の狸だった。まるで騎馬戦の馬のように隊を組んだ三匹は「フー、フー」と苦しそうに息を吐きながら、中森の巨体を担ぎ上げていたのだ。彼のバイク音がなぜか苦しそうに聞こえていたのは、間違ってはいなかった。巨体が降りた瞬間、三匹はホッとしたように肩で大きく息を吐いていたのだから。


 それだけじゃない。原付に化けた狸の頭にヘルメットを置いて、いつも通りの穏やかな表情で自動ドアを入ってきた中森には、頭の上に厚みのある2つの丸い耳があった。「おはよーっす」という普段と同じ挨拶に、千咲は「お、おはよう、ございます……」とぎこちなく返すのが精一杯だ。


 しかも、カウンター前を通り過ぎていく中森のお尻には、短く太い焦げ茶色の尻尾が揺れていて、どう反応したものかと頭を抱える。本人は完璧に化けているつもりなのかもしれないが、獣要素が全く隠しきれていないのだ。


 ――た、狸だ……本当に、狸だっ。


 アワアワと動揺が隠せないでいる千咲の様子を、白井はフロントに設置されている防犯カメラの映像を、事務デスク前のモニターで見ながら笑いを漏らしていた。


「おはよーっす、白井君。どう、忙しかった?」

「別に」


 今日のシフトを確認してから、中森はデスク脇に置かれた業務連絡用ノートを手に取る。パラパラとページを捲って目を通すと、愛想の無い同僚の顔をちらりと見てからハァとわざとらしい溜め息を吐いた。


「ここでは僕の方が立場は上なんだからね。もっと愛想良くしてくれなきゃ」

「はっ、言ってろ」

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