遠くまで行きたかった

十洲海良

1.

雨粒は密やかに部屋へ閉じこもる君を溶かす熱となるかな


人ごみに紛れて消えゆく黒髪を振り返らんとするまで憎み


助手席を乗り越えてなおヘルメットのシールド越しに見る色は青


断たれればその空白に気付きたるわれの声は世界の涯てへ


眠りから醒めたる君が口ずさむ歌舞伎の口上甘く漂う


ひざまずく意味を知らない君といて祈りは何かとわれ自問する


陽炎のまやかしを眼に写しとり膨らみ熟れろ夏至物語


甘やかさ纏う真昼の床にいてたゆたうカーテン眠りを誘う


残像が薄れぬように目をつむり部屋には君の淡い香水


過去へゆくバスを一人で待ち居たる少女に問えば花いちもんめ


骨董の蝶を捕らえに出かけゆく君は帰らずわれを燃やさん


愛らしき子供が無邪気に屠りたる蝶の花粉は玉虫の色


果てしない家路を帰る夕暮がわれに降りたる蔑みの雨


溶け合わぬ肌を宥める苛立ちがあなたとわたしを隔てる国境


二度と見ぬ君のうなじの黒髪が渦巻く様を緻密に描く


眠りから醒めつゝシーツ弄りて探さん夢で逢いたる人を


振り返る幻疾うに姿なくわれを苛む透明な檻


ゆるやかな背中のカーブ滑りたる指を振り切り忘却へ発つ


何ひとつ似ぬ青年にわれ委ね脳裏によぎる彼の残像


皮膚の下張り巡らしたる赤き血は忘れんとする人を象る


昨夜まで隙間を忌みて幾たびも触れたその手は最も遠く


背を向けてラテックス着けるいとおしき姿に戯れ肩に咬み跡


肌に乗る汗はたちまち冷えてゆく窓の外には灼かれたる夏


「口紅を塗って」と真面目にせがむ君思わず笑う夜のしきたり


火照る手に手繰り寄せられ着く場所は三度訪れ小さき死の果て


月光を聴きつつ窓を開け放て外には蒼きナトリウム灯


火照る手に手繰り寄せられ五感さえ確かなものとは思えなくなり


澄み渡る夏の青空仰ぎ見て甘く小さな死を繰り返す


0と1変換されし衝動を持て余しては空に満月


メモリより消したる君の番号を登録、削除、登録、削除


留守電のメッセージ聞きたく繰り返し掛けたる君の十一桁を


六月の冷たき雨を身に受けて鈍色の空は誰の肖像


灰色のアスファルト濡らし黒にする初めの一滴恋に似ている


雨の日の怠惰な衝動脱ぎ捨てて背後の体温確かに抱く


濡れた肌冷やしてしまえばこびりつくあなたの匂いも雨に溶けゆく


時間さえ曖昧にする曇り空眺めつかき消す昨夜の記憶


白むとは名ばかり空は青みつつ破壊を連れてわれを起こさん


繰り返し響く低音掠れゆき目覚めてみれば午前四時前


蒼の空仰ぎ見ながら窒息す彼の黒きを受け止めたい夏


窒息すあなたの指を引き手往く光の注ぐ水面辺りへ


恋だとは思えず求む欲望に付ける名前を教えて欲しい


ほの暗い書庫に眠るる谷崎はかくも麗し腐臭を放ち


血の色の函に入りて鎮座する亡き文豪は五百十七頁


迷走しわれの心象風景はまことの夢でも色さえつかず


紙の上滑る指から生まれたるあなたの吐息かくも乱れリ


荘厳なアリアを聴きて微睡みを混沌に変えてきみは飛びたつ


苦しげに織り成すきみの手が描く指のさきにはひと吹きの夏


犯人を捜す手つきでわれの手を引きたる君の甘い教唆


謎解きは延期にしよう宵闇が罪ときみを洗い流すまで


嘘ならば上手に使えと呟いたきみの涙が最高の嘘


どのような言葉を使えどあらわせぬ愛とは何か教えて欲しい


堕ちてゆけ他の誰もを必要としないほどに崩れてしまえ


微笑みを優しきひとと受け取りて君は殺意を丸呑みしたり


期限まで騙しあっては欲し合う愚かな欲を恋を呼びたい


震えつつきみが吐き出す体温をわれは膜越し受け取りて往く


思い出を押し流すまで振り続け意思遮りし宵闇の雨


うつくしき背中に伝うひとすじの汗は濁りて夢の残骸


置き去りのラジオ転がりし和室にて不在の存在はぐくむ孤独


押し込めし渇きを慰む一滴は誰のものでもなき夕立


ひとひとりこわすことなどかんたんだだってきみをあいしてるもの


宵闇が道連れにせむと墜ちてゆく茜眩しき迫り来るあを


わが眼より出でたる雫の冷たさに憎しみおぼえ目覚める夜明け


生まれては嘆くことの意味を知り殺意はぐくむ母の日の朝


誰もなく静まり返りて午後二時の廊下に敷かれしリノリウムの毒


あやふやな未来の断面なぞりては静かに嘲笑う若き肖像


振り向かずうつむくきみの顔(かんばせ)の白きをうつし水の反映


鮮やかな路線図が描く行き先を考えあぐねて快速逃す


返信の速さ競いて逢い引きの純度量ればわたくしの勝ち


添えられし月夜は円く梔子の衣まとひし新しき夢


薄氷の透かす水面に映る君鮮やぎたればむねつぶる朝


人知れずしたためし文行く当ては無きに成せども恋ひていとほし


教科書にアンダーラインを引くように恋のページに君を描きたい


レシートの裏に番号したためて釣りごと返せば君が笑った


生まれ落つる日より数えし櫛の目を朱の花びらで埋めゆく五月


特別な月です五月はあのひとが旅立ちわたしが生まれた季節


父親を知らぬ娘が真夜中に家出目論む第二日曜


思い出は未完成のままだ夜が明ける刹那を欲してシャッターを切る


夕立のはじめの一滴見逃して恋にまみれる十五歳の夏


黒縁の眼鏡の向こうに視る君はきらきらきらと蠢く座標


図書館の静寂破る一撃は声にならざるペディキュアの赤


ルールなど無用なものだと君が云う 縛りがあるから楽しめるのに


雨の日に拾いし犬の濡れた毛と戯れ即断 「名前はしょぱん」


夕闇のぬるい青から零れゆくタグはあの日の待たれた渋谷


思い出を思い出さない術としてあなたが教えた煙草の吸い方


空っぽの自己などアピールしてみせる流行りの靴に合わせた中身


夢見ても飛び立ったりなどしないよう風切り羽を抜き去りし午後


空っぽのからだに希望を詰めているあなたの吐息だったらいいのに


捨てられた空き瓶でさえ美しく光奏でる冬の早朝


強風の吹きし午後には吾が髪が背中を越ゆる第二金曜


神だけが静寂連れて訪れる夜半に満ちる清潔な歌


統べてなお幻滅したい真夜中にただいまを云ういとおしい声


待ちながら三月の王は座れない記憶の果てのリカバリとして


世界には言葉が溢れかえるのにあなたをあらわす単語だけない

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遠くまで行きたかった 十洲海良 @kayiratooshu

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