第3話 十一月のとある日 猫、現る

「ありがとうございました、またのご来店をお待ちしております」

 俺はめいっぱいの営業スマイルで、馴染の客を見送った。

 店から駅に向かうまでの階段を降りていく客の背が、次第に小さくなっていくのをぼんやりと見つめる。

 季節は十一月。

 朝晩の空気はだいぶ冷たくなったものの、昼の今は晴天で日差しが強く、やや暖かい。

 キュルル、と空腹を知らせる音が聞こえ、腕時計を見ると十二時を過ぎていた。

「昼か……」

 確か、次の予約客の来店時間は十三時だ。

 ちゃっちゃと昼飯を食ってしまお……ん?

 再び、キュルルと音が鳴った。

 しかし、それは俺の足元から聞こえてくる。

「にゃーん」

 ちりん、というかすかな鈴の音と共に、柔らかい鳴き声が聞こえ、もふっとした毛の感触がふくらはぎ辺りに発生する。

「猫……?」

 美容室しょくば近くで猫を見かけるのは始めてだ。

 茶トラの、体の大きさから見て、まだ大人になりきってないような猫。

「どこから来たんだ、お前……もしかして捨て猫? いや、首輪してるから飼い猫か……」

 俺はしゃがみこみ、すり寄ってきた猫をまじまじと見つめた。

 黒い首輪には、半月のモチーフと黒い鈴が揺れている。

 くりっとした、黄色い瞳が可愛らしかった。

 なぜか、脳裏に妻のまひろの顔が浮かぶ。

 サッと胸に冷たいものがよぎった。

「なんでだろ……変なの」

 俺は猫の柔らかな頭を撫でながら、しばらくまひろのことを考えていた。

 まひろも違う店で、俺と同じ美容師をしている。

 最近は、夜も朝も家であまり会話していなかった。

 静かに淀んでいく空気が、別れへのカウントダウンを始めている気がしてならない。

「ちゃんと、向き合わないとな……お互いのこれからの為にも」

 それは、頭ではわかっている。

 だが、感情がそれにブレーキをかけるのだ。

 その理由が単なる面倒くささから、なのか。

 それとも、まひろを愛しているからなのか。

 もう、よくわからない。

「悪いけど、これから昼飯を食わなきゃだから、お前にかまってる時間はないよ。お家に帰って、ご主人様からご飯をもらいな」

「にゃーん」

 猫は大人しく俺に撫でられていた。

 俺の言葉に返事をするように一声鳴くと、とことこと日陰に入っていく。

 やはり飼い猫だ。かなり人馴れしている。そのうち、住み慣れた我が家に帰るだろう。

 俺は奇妙な未練に終止符を打って立ち上がり、店に戻った。

 店内から、ちらりと外にいる猫を盗み見ると、まだそこにちょこんと座ったまま店を見ていた。

 あいつ……俺が帰るまで、そこにいるだろうか。いや、そんなわけないな。

 きっと優しい飼い主が待っているんだろうし、腹も空かせてるから、すぐに家に帰るさ。

「さぁて、飯だ飯だ」

 俺は押し寄せる欲求をなんとか片隅に追いやって、さっさとコンビニで買ったクリームパンに齧りついた。

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