第43話 彼の隣

 朝、寝台で意識を覚醒したそのときからカレンにとって落ち着かない一日が始まった。

 昨日食堂を訪れたカッツェに、本日早朝から遠征部隊が最後の行軍を行い、王都に帰還すると知らされていたからだ。

 特に大きな問題もなく、護衛対象を含めた全員が無事に王国入りを果たしたとも教えられ、ほっと胸を撫で下ろした。


 しかし一夜明けて昼当番に入った今、カレンの心はふわふわとして置き所が定まらない。無事の帰還と近々会えるであろう嬉しさ、想いを伝えることへの緊張、縁談にまつわる不安、それらがぐるぐると渦を巻いて胸を去来する。


(お仕事に集中しなくては)


 今すぐにどうこうなるわけではないのだから、と自分に言い聞かせて眼前の職務に取り組む。けれども深緑の制服が視界に入るたびに胸中がざわめいて仕方なかった。


「カレン、配達を頼めるか」


 もう昼食もほとんど捌けてしまった頃合いにカッツェが食堂に現れた。目立つ赤髪がいつもより僅かばかり丁寧に整えられている。


「第十二執務室に四人分だ。時間は……」


 配達と聞いてすぐさま準備をしようと動きかけたカレンだが、カッツェは虚空を見つめて考える素振りをしている。


「そうだな、三時過ぎに届けてくれるか」

「お待ち下さい、カッツェ団長。私の終業は三時ですし、夕方当番の方は四時に来られるのでそのお時間には伺えません」

「寮に戻る前に届けてくれればいい。着替えは済ませて構わないし、食器はこちらで返却する」


 随分と横暴な依頼で、さすがに即答出来ない。

 そもそも当番の割り当てを彼は把握しているはずなのに。


「私の独断でお受けするわけにはいきません」

「じゃあ職権乱用させてもらおうか、第二騎士団長命令だ」

「えっ……」


 にやりと意地悪い笑みでカッツェは言い切った。


「マーリル女史には話を通しておくから安心しろ。そういうわけだから三時過ぎに四人分、すまんが手配を頼んだぞ」


 後半はカレンの背後の料理人たちに向けられていた。彼らもやれやれといった風情ではあるが、声に出して承諾している。


(い、いいのかしら)


 配達後の直帰など職員規則から大きく外れていると思うのだが。しかしカッツェは一仕事終えた様子でさっさと食堂を去っていく。

 不安に駆られるカレンの元に統括責任者のマーリルがやって来たのはそれからしばらく後のこと。想定外の配達依頼にマーリルから直々に許可を言い渡され、やむなく納得するはめになった。



◇◆◇



 着替えを終えて身なりを整えたカレンは更衣室から食堂へと戻った。終業前に用意した配達用のバスケットはそこに置いてあるからだ。

 調理台の料理人たちに「お疲れ様です」と声を掛け、バスケットを持ち上げて回廊に出た。


(この時間にお食事……やっぱり今日はお忙しいのかしら)


 帰還する騎士たちの出迎えで慌ただしくて食事の余裕がなかったのだろうか。四人分ともなればそれなりにずしりと重い食事を運びながら、そんなことを思う。


「ご依頼のお食事を配達に参りました」


 第十二執務室の扉脇に控える騎士にそう声を掛けると、制服を着用していないカレンであるにも関わらず、ご苦労様と労いの言葉を返してくれた。こんな些細な出来事にも自分自身の居場所が感じられて、じんわりと温かい気持ちになる。

 やがて室内に伺いを立てた騎士によって扉は開かれた。


「わざわざすまんな」


 入室したカレンに真っ先に開口したのは依頼を持ち掛けた張本人だった。扉の真正面、一際大きなテーブルで書類を広げていたカッツェは気だるげに立ち上がると、ひょいと片手で部屋の一角を指す。


「食事はそのテーブルに置いてくれ、カレン」

「え?」


 カッツェの語尾に被さったのは別の男性の声。

 声がした方向――カッツェが指し示したテーブルに首を捻ると、そこには見慣れたチョコレート色があった。


「カレンさん?」


 十日ぶりに見るレグデンバーが藍色の瞳を瞠ってこちらを凝視していた。

 普段より豪勢なあつらえの制服と黒の肩マントは見送りの日に見掛けたときと同じもの。けれど頭髪は風に煽られたかのように空気を含んで日頃よりもふんわりとしている。騎乗による行軍を終えた後であることが窺い知れた。

 思いがけない再会に驚くのはカレンもレグデンバーも同じようで、しばし二人で見つめ合う。


「俺は少し出る。ドノヴァ、後は任せた」


 配達を頼んでおきながら、そんな言葉を残してさっさと退室するカッツェ。

 状況が飲み込めない中、バスケットの重みだけが現実的で、ひとまず食事をテーブルに置いてしまおうと足に力を込めた。


「ドノヴァ殿、こちらは?」


 凜とした女性の声がカレンの動きを止めた。

 レグデンバーが振り返る仕草を見せたので、彼の巨躯の影にその人がいたことがようやくわかる。

 すらりとした高身長の女性だった。

 意思の強そうな若草色の瞳と引き締められた唇、後頭部の高い位置で結われた艶やかな亜麻色の髪、真っ直ぐに伸びた背中と脚。どこをとっても美しく、目を奪われてしまう。

 その身を包む薄紫色の衣装は普段よく目にする騎士服に似通っていた。


「あぁ、ゼーラさん。驚かせてしまいましたか」


 女性に向けてレグデンバーは微笑みかけた。ゼーラと呼ばれた女性はレグデンバーをひたと見つめている。

 一方でカレンの心臓はバクバクと脈打ち始めていた。

 見も知らぬ女性がレグデンバーを名で呼んでいる。それが二人にとってはさも当たり前のような空気すら漂わせて。


「彼女は食堂職員のカレンさんです。こちらの王城では職員の方々に食事の配達をお願い出来るのですよ」

「なるほど、そういうことでしたか」

「カレンさん、こちらは」


 立ち尽くすだけのカレンにレグデンバーが視線を移す。しかし彼の言葉はゼーラによって遮られた。


「ゼーラ・ノクホーンと申します。隣国アレアノイアより参りました。ドノヴァ殿と同じく、騎士として国に仕えております」

「今回隣国よりお迎えした方が女性だったので、女性騎士も多く帯同していただいているのですよ」


 そう注釈を付けたレグデンバーがはっとした様子でカレンの元にやって来た。知らず握り締めていたバスケットの柄をカレンの手から掬い上げる。


「重かったでしょう? 気付けずにすみません」

「い、いえ。あの、配膳させていただきますね」


 滑らかに口が動いてくれない。

 再会出来て嬉しいはずなのに、思い描いていた出迎えの言葉がどこにも見つからない。それもそのはずだ。こんな再会は想定していなかった。

 この場にいるのがレグデンバーだけであったなら、もっと違う言葉も拾えただろう。けれど彼の名を当たり前に呼ぶ女性が現れて動揺せずにはいられない。


(レグデンバー副団長もお名前で呼んでいらっしゃるわ……)


 ゼーラが家名でなく名前だと判明したとき、頭が真っ白になってしまった。

 レグデンバー侯爵の話を漏れ聞いたあの日、噛み合ったかに思えた歯車が少しずつ狂っていくような気持ち悪さを感じた。しかし今、狂いに狂ったずれが一周して再び噛み合っていく、そんな感覚に襲われている。


「カレンさん、どうして私服を?」


 震えそうな手でバスケットの中身を広げるカレンにレグデンバーがそっと問う。


「……今日は三時で終業なんです。カッツェ団長が帰寮前の配達で良い、着替えも済ませて構わないと仰いまして。マーリルさんにも許可をいただいています」

「団長が……無茶なお願いでご迷惑をお掛けしてしまいましたね」


 作り笑いで首を振る。上手く笑えている自信はない。

 蝋引き紙に包まれた香草焼き肉、パン、蒸し野菜を順番に並べていく。レグデンバーとゼーラがカレンの手捌きを眺めているのがわかった。


「団長は何人分の手配を?」

「四人分と伺っています」

「四人分……」


 レグデンバーが訝しげに呟く。

 この部屋で食事をするのに相応しいのはカッツェとレグデンバー、そしてゼーラだろうか。肝心のカッツェは姿を消してしまったが。

 カレンが仕事を終えて退室すれば彼らは二人きりになる。その事実がまた気を重くさせる。しかし与えられた職務をこなさなければならないのも当然のことで、間もなく四人分の食事を並べ終えてしまった。


「お待たせいたしました。配膳が整いました」

「ありがとうございます、カレンさん」


 久しぶりの笑顔を向けられて嬉しいはずなのに心は晴れない。

 いつ戻ったのかと尋ねたい気持ちも、無事の帰還を労る言葉も、会えて嬉しいと告げたい想いも全て呑み込んだ。


「カッツェ団長は食器を返却すると仰って下さいましたが、夕方当番の方に言付けを置いておきましたので後で回収に伺うと思います」

「重ね重ね、申し訳ありません。無茶を言わないように言い含めておきます」


 レグデンバーとのやりとりを聞いていたゼーラがくすりと笑う。


「失敬、職員の方々とも友好的に接しておられるので微笑ましいなと思いまして」

「確かにアレアノイアの厳格な雰囲気とは異なるかもしれませんね」

「えぇ、温かい職場で好ましいです」


 二人は朗らかに談笑しているがカレンには隣国のことなど理解出来ず、居心地の悪さが増す。


「ゼーラさんもすぐに慣れると思いますよ」

「えぇ。私自身も馴染めるように努めます。今後カレン殿にもお世話になるでしょう。よろしくお願いいたします」


 ゼーラが唐突にカレンに向き直り、頭を下げる。その意味がわからずに狼狽えているとレグデンバーの助け船が入った。


「ゼーラさんは護衛騎士としていらっしゃいましたが、ゆくゆくはこちらにお住まいになるのですよ」

「そう、だったのですか」

「いずれ当国の騎士団に正式に転属される予定で、それまでは第二騎士団預かりとなっています」

「ドノヴァ殿には公私に渡ってお世話になってしまって恐縮です」


(公私に渡って……)


 それはどういう意味なのか、だなんて訊けるはずもなく。彼らが騎士同士の付き合いを超えていることだけがカレンに明かされた。


「事情は理解しました。こちらこそよろしくお願いいたします。お食事、冷めないうちにお召し上がり下さい。それでは私は」


 ガンッ、と重たく響く音に続けるつもりの辞去の言葉は遮られた。

 驚きにカレンが肩を弾ませる一方でレグデンバーとゼーラが鋭い眼差しを扉に向ける。何かが叩き付けられたのであろう扉を恐る恐る振り返るカレンの前に深緑の広い背中が身を挺して立ち塞がった。

 漂う緊張感に息を詰める中、ガチャリと空を切るような開閉音。

 レグデンバーの影から顔を覗かせたカレンは、現れた闖入者に目を瞠った。

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