第20話 第十二執務室
小説とケーキと楽しいおしゃべりのお陰か、明くる朝の目覚めは快適だった。
誰かに起こされずに起床する生活は不便なようで心地が良い。続く身支度も朝食も、人に身を任せてしまうよりも自ら動いた方が意識がはっきりと覚醒する。
半年前に比べるとずっと慣れた手つきで身辺を整えたカレンは昼当番の仕事に向かうため、自室を後にした。
◇◆◇
早番のソフィアがカウンターに入っているのでカレンはホールの担当に回った。
急いで食事を終えて職場に戻る者の中には食器はおろか、椅子でさえも引いたままで放置していく者が少なからずいる。国の中枢を担う方々は大変だわ、と働き者たちの後始末に精を出していた。
「こんにちは、カレンさん。少しお時間よろしいですか?」
テーブルの天板磨きに夢中になっているところを背後から呼び掛けられた。
「は、はい、何でしょうか?」
気配に全く気付けなかったので鼓動と共に身体も弾んでしまったのだが、相手は気にする様子もない。
「食事の配達をお願いしても構いませんか?」
「はい、もちろんです」
「では、第十二執務室に一人分をお願いします」
一人分。その言葉を額面通りに受け取ってしまって良いのだろうか。
「あの、どなたがお召し上がりになるのでしょうか?」
「私です」
にっこりと微笑むレグデンバーの視線を受け止めながら、頭の中では「パンの追加が必要ね」などとこれまでの経験が囁いてくる。
しかし、少し気掛かりがあった。
「あの、お届けは私が行ってもよろしいのでしょうか?」
これまでのレグデンバーの発言からソフィアに配達して欲しいのでは、と勘繰ってしまう。いつぞやの財政部門の文官のように。
「今はお忙しいですか? 多少遅れても問題ありませんが」
「いえ、大丈夫です。すぐにお届け出来ると思います」
「ではよろしくお願いします」
人好きのする笑顔でそう言い残すとレグデンバーは颯爽と去って行った。
(ソフィアと話さなくて良いのかしら)
カウンターに行けば確実に彼女と会話が出来るのに。
そもそもレグデンバーに配達を依頼されるのが初めてのことで、その驚きもある。カッツェに負けず劣らず彼も食事を平らげる速度は速い。
配達を待つよりも今ここで食べて戻った方が早いのでは、と思わないでもないが、事情を知らないカレンが口出し出来るはずもなく。
今行うべきは配達準備に取り掛かることだった。
◇◆◇
第十二執務室に向けてカレンは広い廊下を歩く。
数多くの執務室のうち、一桁の数字が付く執務室は内政にまつわる部署が使用すると聞いたことがある。それらの部署に詰める文官は時間に追われて仕事に没頭することも多く、食事の配達依頼は珍しいことではなかった。
一方で騎士団が使用する二桁数字の執務室には、過去一度も訪れたことがない。
食堂でおかわりありきの食事をしているか、任務で王城を離れているときには外食をしているか、カレンはそんな印象を抱いている。
当然のことだがすれ違う者の多くは騎士服を纏っており、カレンの姿を認めると軽い挨拶や会釈をしてくれた。半年で築いた人間関係の広がる先にあるものが目に見えてわかり、嬉しくなる。
やがて『第十二執務室』とプレートを掲げた重厚な扉の前に辿り着いた。
「ご依頼を受けて昼食の配達に参りました」
扉脇に立つ騎士に伝えると話は通っていたようで、わざわざ扉を開いてくれる。
失礼します、と声掛けして入室した部屋は石レンガの壁と石畳の床に囲まれた灰色の世界で、まさしく無骨といった造りをしていた。
その部屋の奥まった位置に鎮座する頑丈そうなテーブルに今回の依頼主の姿を見つける。すでに彼はカレンを視界に捉えていた。
「お待たせいたしました。昼食をお持ちしました」
「わざわざありがとうございます。そちらに置いていただけますか?」
大きな掌が示したのは壁際に置かれた丸テーブル。無機質な部屋に似つかわしくない、金の装飾がところどころに輝いた華奢なテーブルだった。
言われたとおりに丸テーブルに向かい、バスケットをそっと置く。
蝋引き紙に包んだ燻製肉のソースがけ、小鍋に入れた野菜たっぷりのスープ、パンみっつとカトラリーを丁寧に配置して、いつでも食べられるように整えておく。
「今日も美味しそうですね」
またも気配を感じさせずに背後に立っていたレグデンバーが料理を見下ろして言った。失礼します、と椅子に腰掛けた彼の手には書類が握られている。食事をしながら仕事も進めるつもりらしい。
「この部屋に似合わないテーブルセットでしょう?」
カレンの心の内を読んだかのような言葉だった。
「騎士団は王族や貴族との繋がりが欠かせませんから、どうしてもこういった趣向のテーブルセットを用意せざるを得ないんですよ」
苦笑交じりということは、騎士団にとって不本意なのだろう。実際に大柄なレグデンバーが腰掛けた椅子は何かの拍子に壊れてしまうのではないかと心配になる。
器用に包みを開きながら、何気ない口調で彼は言った。
「一昨日は無事に帰れましたか?」
「はい! その節はありがとうございました。何事もなく、無事に帰ることが出来ました」
本来こちらから切り出さなければならない話に水を向けられて、カレンは慌てて謝意を告げる。
「お恥ずかしいところをお見せしてしまい、任務の最中にご迷惑までお掛けして申し訳ございませんでした」
「とんでもない。カレンさんからは何ひとつとして迷惑など
下げた頭に優しい声が降ってくる。社交辞令ではない本心だと感じられる、温もりのある声音だった。
優しい人だ、としんみりするカレンは、はたと気付く。
腰を折って下げた頭がレグデンバーにはよく見えているはずだが、その頭には三角巾が巻いてある。カレンが刺した刺繍入りの三角巾が。
「あの、もうひとつお詫びしたいことがございまして……」
頭を上げきれずに言ったため、くぐもった声は徐々に小さくなっていった。
「カレンさんに謝罪を受けるようなことはないように思いますが?」
「いえ、あの、以前三角巾の刺繍を褒めていただいたときに、『ご覧にならないで下さい』などと失礼なことを言ってしまい……」
やはり語尾は消え入ってしまう。
改めて自分の口から説明すると恥ずかしさが倍増する。伏せた顔が熱く紅潮しているのが嫌でもわかった。
「……あぁ、そんなこともありましたね」
「はい。その節も大変失礼いたしました」
「謝っていただくほどのことではありませんよ」
ふっ、と息を吐くような笑い声を伴ってレグデンバーは言ってのけた。
「ですが、もしその言葉に理由があったのなら、お聞かせいただいても?」
恐る恐る顔を上げるとゆるりと笑んだレグデンバーと目が合った。
どうやら彼に負の感情はないらしく、カレンの口も緩んでしまう。
「大した理由では……お褒めの言葉に見合った腕前なのかと自問しても答えがわからなくて、そう思うとお見せすることが恥ずかしくなってしまったんです」
「それだけ、ですか?」
「それだけ、です」
肩を縮こませるカレンの耳に、今度は明確な笑い声が聞こえた。
「あのときの言葉は本心からのものなので深読みしないで下さい。良かったです、失礼を働いたわけではないようで」
朗らかにそう言うと千切ったパンを口に放り込んだ。
「お食事のお邪魔をしていますね。そろそろ失礼いたします」
そもそも食事を配達したら速やかに戻るのが鉄則だ。ソフィアに食堂を預けているのに、のんびりおしゃべりをしている場合ではなかった。
「待って下さい、カレンさん」
「はい?」
しかし、レグデンバーの方から待ったが掛かる。
食事についての何かだろうか、と気軽な返事をしたカレンだったが、料理人自慢の品々には目もくれずにこちらを見つめているレグデンバーの眼差しは驚くほどに真剣だった。
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