第15話 拒絶
青天続きだった近頃にしては珍しく灰色の雲に覆われた日のこと。
カレンがカウンターでの対応を、ソフィアがホールでテーブルや食器の片付けを担当して昼休憩の繁忙を凌いでいた。
食事中の騎士や文官も少なくなり、ようやく一息つけるかと肩の力が抜けたときにそれは訪れた。
「失礼。食事の配達を頼みたいのだが、まだ間に合うだろうか」
食堂の開け放たれた扉から顔を覗かせたのは神経質そうな顔立ちの男。カレンはひと目見てピンと来た。以前、『金髪の女性』に配達依頼を申し込んできた男だ。
ホールにいるソフィアに直接話し掛けた男が一歩食堂内に足を踏み入れた。その胸元に朱色の帯が垂れたバッジが付けられていることで確信する。
内心で焦るカレンをよそに、ソフィアは愛想のいい笑顔で対応し始めた。
「はい、受け付けております。配達先はどちらに?」
「第八執務室に一人分を。昼休憩中に間に合うのであればいつでも構わない」
「わかりました。すぐに用意してお届けします」
満足のいくやりとりが出来たからだろうか、男は頷くような会釈を見せると素早い身のこなしで食堂を後にする。それを見届けたソフィアがカウンターへと戻ってきた。
「ちょっと配達に行ってくるわね」
「ねぇソフィア。前に名指しの依頼があった話をしたでしょう? そのときに申し込みに来られたのがさっきの方よ」
「すごいのね、カレン。顔まで覚えてるなんて」
「大丈夫かしら。あの方、ソフィアに直接お願いするつもりだったと思うの」
懸念していたことが現実のものとなってしまった。
下心を含んだ依頼なら変わってあげたいと思うのだが、カレンはすでに一度断られてしまっている。ソフィア自身が面と向かって引き受けているので入れ替わりで配達すれば更なる不興を買う恐れもある。
「食事を配達するだけだから大丈夫よ。すぐに戻ってくるわ」
彼女の方には不安の欠片もないらしい。あっけらかんとした様子で配達用のバスケットを取り出したのでカレンも準備を手伝った。
「気を付けてね」
「えぇ。一人で任せちゃうけどよろしくね」
薄ピンクの三角巾を揺らしたソフィアの後ろ姿が遠ざかる。
何事もなければいい。カレンにはそう思うしかない。
不安を顔に出すわけにもいかず、平静を装ってカウンターに立つ。食事を乗せたトレーを意味なく並べ替えてみたり、目立つ汚れがあるわけでもないのに拭き掃除をしてみたり。余計なことを考えないように身体を動かしていると、深緑の制服が食堂に入ってきた。
その巨躯に似合わず、ゆったりとした足取りで近付いてくるのを察したカレンは手近なトレーの皿にふたつのパンを急いで足した。
「カレンさん、こんにちは」
「こんにちは、レグデンバー副団長」
普段なら柔和な笑みで掛けられる挨拶がどこかぎこちなく、躊躇い混じりに感じられた。返すカレンも形式張った響きにしかならない。
刺繍を見ないで欲しいという非礼を謝りたい気持ちがあったはずなのに、合同訓練でソフィアに向けて発されたあの言葉で何かが決壊したようだった。ぎりぎりで堰き止めていた感情が殊勝な思いを黒く塗り潰してしまった。
(……話したくないわ)
その気持ちがパンを追加したトレーをすっと前に押し出す。何も言わずに受け取って立ち去って欲しかった。
「……先日の合同訓練はお休みのところをありがとうございました」
「……いえ」
しかし彼は言葉を継いだ。
顔を直視出来ずにいたが、口調にはやはり気まずさのようなものが滲んでいる。誤解だとかそんな意図はなかっただとか言っていたので、レグデンバー自身もあの発言が不用意なものだと理解しているのだろう。
仕事として引き受けたのだから不満をぶつけるつもりはない。
だから終わったこととしてもう触れずにいて欲しい。
「その、あの日のソフィアさんの装いも素敵でしたね」
ささやかに願うカレンは別方向から殴られた気分だった。
(どうしてそれを私に言うの?)
怒りとも悲しみとも判別出来ない気持ちが沸々と湧いてくる。
不要だと思うのなら放っておいてくれればいい。
彼女が素敵な女性であることはカレンだってよく知っているし、カレンを同じ舞台に並べてくれなくてもいい。
カレンを通じてソフィアに取り入りたいなら、それは無駄な話だ。
「ソフィアに直接お伝え下さいますか?」
「何をです?」
「私から彼女には伝えられないので、直接褒めてあげた方がソフィアに喜んでもらえると思います」
周囲には漏れ聞こえないように、けれどレグデンバーには伝わるようにきっぱりと言い放つ。私に言わないで、という気持ちを暗に込めて。
話はおしまいとばかりにもう一度トレーを前に滑らせると、はっとした様子のレグデンバーが手を掛けた。
「……わかりました」
やや呆然としながらも頷き、それでも最後にはゆるりと微笑んでテーブルへと向かっていく。
その背中を見てカレンは大きな脱力感に見舞われた。やっと言えたという達成感と、言い辛いことを告げてしまった後ろめたさがごちゃまぜになる。
レグデンバーやソフィアを思いやった言葉のようだが、その裏には自分には話さないでくれという強い願望があってのこと。耳障りの良い言葉を選んだだけのこと。形を変えただけの拒絶に違いない。
誰かを否定したり拒絶することがこんなにも神経をすり減らすことだとは知らなかった。イノール家の一員であった頃は否定や拒絶をされる側の立場で、やり過ごすことだけしか考えていなかった。
父や母の長きに渡る拒絶の原動力が自分自身の存在だったのかと思うと、益々気が滅入る。こんな考えを抱くことすら領地で暮らしていた頃はなかったので、気持ちの浮き沈みに全身が翻弄されている気がする。
悩ましげな息が零れ出るのと同時に、食堂の入り口にソフィアの姿を見た。
「お帰りなさい。無事だった?」
「ただいま。大丈夫、お食事を届けてきただけよ」
にこにこと朗らかな笑顔に少しだけ気分が浮上した。
取り越し苦労であったことに安堵し、名も知らぬ文官を疑ってしまった自分を心の中で反省する。用心深いのは悪いことではないはずだけど、行き過ぎればこちらが無作法な人間に成り下がってしまう。人との距離を測ることに慣れていないカレンには見極めが難しい。
ソフィアのように上手く人付き合いが出来ればいいのに、とこっそり思った。
「ねぇ、カレン」
配達用のバスケットを片付けるソフィアに潜めた声で呼び掛けられた。
「今日、お仕事が終わってから時間ある? ちょっと付き合って欲しくて」
「何も予定はないわ。どこかに行きたいの?」
同じく囁き声で返事をすると、ソフィアが僅かに目を泳がせた。もにょもにょと唇を動かしてからようやく切り出す。
「ちゃんとした刺繍を刺したくてね、どんなハンカチが良いか見立てて欲しくて」
誰かに向けて刺す刺繍なのだろう。
時折彼女の練習に付き合っているが、日々上達の色は見えている。完璧な作品といかなくても、きっと受け取る相手は喜んでくれるのではないだろうか。
「もちろん付き合うわ。どこか良いお店はあるかしら?」
「母がお気に入りだったお店があるのよ。そこに行きましょ」
ふと閃いた。
(私も贈り物の刺繍に挑戦してみようかしら)
突然の閃きだったが、とても良い案のように思えた。
もやもやした気分を吹き飛ばしてしまいたい。何かに集中すれば余計な考えは頭から消えてなくなるのではないだろうか。
「私の見立てにも付き合ってもらえる?」
「カレンも? 誰かに贈るのね?」
「内緒よ」
あなた宛てよ、とは明かさずに笑って誤魔化した。
そう言えば誰かに贈り物をする習慣など今までに一度もなかった。それに気付いてしまうと途端に心が色めき立つ。先程とは裏腹に自然と頬が緩んでしまい、何を贈ろうかと逸った想像が脳内を駆け巡る。
だから察知出来ずにいた。
カウンター前にレグデンバーが立ち尽くしていることに。
「ごちそうさまでした」
戻されたトレーの食器は今日も綺麗に空。食べる速度もいつも通り。しかし発された声は平常よりも低く響き、藍色の瞳はどこか伏せがちだった。
レグデンバーは気怠げに会釈をすると、そのまま食堂を後にした。
(ソフィアがいるのに、どうして?)
カレンの隣にいるので気付かないはずはないのに、声すら掛けずに去っていってしまった。
体調が悪いのか、はたまたカレンの前ではソフィアを褒め辛いのか。
理由を探ろうとする意識を頭を軽く振って追い出した。
それはカレンの考えることではないと思ったから。
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