第7話 ドノヴァ・レグデンバー
「俺の名前、知ってくれていたんですね」
深緑色の制服を纏った男性は確かに医務室で出会った騎士だった。
「レグデンバー副団長が仰っていたのをお聞きして……突然お名前で呼ぶだなんて不作法を失礼いたしました」
「いやいや、嬉しいです」
にこにこと気持ちの良い笑顔を浮かべるフローランはカレンと同じ年頃だろうか。日頃言葉を交わす団長や副団長に比べると威厳はないが、親しみやすい空気を醸し出している。
「先日は医務室までわざわざありがとう。助かりました」
「お気になさらないで下さい。あの、お怪我の具合は……?」
「全然問題なし!」
ぽん、と何かを軽く
「まだ包帯は巻いてるけど出血は止まってるし、そんなに深い傷でもないから。順調に快復に向かってます」
「そうですか、良かったです」
あの日太腿に巻かれていた包帯を思い出して、カレンは安堵の笑みを
並ぶトレーのひとつを手繰り寄せたフローランはそのままテーブルに向かうことはせず、緩んだカレンの顔をじっと見つめてから切り出した。
「改めてお礼がしたいって話だけど」
「お気遣いだけで十分です」
「いや、うーん。気遣いとかそんなんじゃなくて、もし迷惑じゃなければ外に食事に行ったりとかどうかなって」
そこでカレンはピンと来た。
おそらく彼はソフィアを誘いたいのだろう、と。
「それはその、私の方からは何とも……」
「そんなに深く考えないで。軽い気持ちで付き合ってもらえたらいいんだ」
そうは言ってもカレンが勝手に答えるわけにはいかない。
「訊いてみても構いませんか?」
「え、出掛けるのに許可が必要だった?」
きっとソフィアも断るだろうけれど、念のため確認しておかなければならない。
そんな思いで話を繋いでみるが理解してもらえないし、理解し難い言葉を寄越される。やはり男性の心の機微を察するのは難しい。
「フローラン、何をしているのですか」
だからそれは助け舟だと思った。
「副団長……お、お疲れ様です」
「君は疲れている様子ではなさそうですね」
フローランの隣に並んだレグデンバーが静かにトレーを置く。器の底が綺麗に見えるということは、大盛りの肉団子もあっという間に彼の腹に収まってしまったらしい。
たじろぐフローランとは裏腹にレグデンバーは人好きのする美しい笑顔を保っているが、幾分声が低いように感じられた。
「怪我が完治していないのに出掛ける余裕が?」
「いえ、ただお礼をしたいな、と……」
「謝意は団長から伝えてありますので、これ以上は必要ありません」
「え、肝心の俺の意思は……」
「必要ありません」
藍色の双眸を細めて笑みを深めるレグデンバーの言葉には抗えない迫力がある。
目の前で繰り広げられる大柄な男たちの応酬をカレンはぼんやりと見守るしか出来なかった。
「副団長、それって接触は許されないとかそういうアレですか……?」
「どうせなら食堂での無用な声掛けは禁止と定めましょうか」
「え、団長と副団長は?」
「君たちの代弁者は必要では?」
フローランが口の中でもごもごと言っているが明確な音にはなっていない。そんな彼をレグデンバーが更に追い立てた。
「君は夜勤組でしょう。無駄話をしている余裕はありませんよ」
それはあなたもでは、と心の中で思うが口に出すことはしない。上司と部下の一般的なやりとりをカレンは知らないから。
何かを言いたげな表情のフローランが一礼してテーブルへと去っていく。その後ろ姿をしっかりと見届けたレグデンバーがカレンに向き直って相好を崩した。フローランに向けていた笑顔とは違い、気圧される雰囲気など全く感じさせず。
「部下が失礼しました」
「いえ、謝っていただくほどのことではありませんから」
「ご迷惑をお掛けしたでしょう?」
「私自身には関わりのないことですし、気にしておりません」
「え?」
虚を突かれたような表情になった。こんなレグデンバーを見るのは初めてのことだ。
「ソフィアもきっとお断りしたと思うんですけれど、確証はないので曖昧なお答えしか出来なくてお気を悪くしたかもしれません」
「フローランはあなたを……いえ、何でも」
言い掛けて
そのとき一人の騎士がトレーをカウンターに戻しがてら、レグデンバーに「お疲れ様です」と声を掛けていく。対するレグデンバーも「夜勤でも気を引き締めるように」と副団長らしい顔を覗かせた。
カレンの中で何かが引っ掛かる。
「レグデンバー副団長は今晩は夜勤ではないのですか?」
「書類仕事を終わらせるために残っていただけです。何故そう思われたのです?」
「お昼のお勤めならソフィアと会っていらっしゃるかと思いましたが、そうでもないようでしたので」
「あー……はい。そう、ですね。昼は外で、そう外食を。こちらには来れなかったもので」
「そうだったのですね」
ならば余計にソフィアの顔を見たかったのかもしれない、と納得した。
「ところで、カレンさん」
「はい?」
不意にレグデンバーの瞳が真剣味を帯びた。
「先程のように団員から誘いの言葉などがあるかもしれませんが」
「フローランさんのことですか?」
「イグニです。フローラン・イグニ。家名で呼ばれるのが賢明かと」
はっとする。
子爵家から離籍して一介の市民となったものの、気安く男性の名を呼ぶべきではないと気付いたからだ。いや、気付かされたと言うべきか。
「ご忠告ありがとうございます」
「いえ。それでフローラン……イグニのような者が今後も現れるかもしれませんが、どうか相手にせず聞き流して下さい」
恐らくこの声は張本人にも届いているのだろう。向こうのテーブルでガクリと肩を落とすフローランの背中が確認出来た。人前で叱られている気分になったのかもしれない。
「肝に命じておきます」
(私にそんなお誘いがあるとは思えないけれど)
心の中でこっそりと付け足しながら頷いておいた。
「ソフィアさんにもそうお伝えいただけますか?」
なるほど、と思う。
カレンは言わば呼び水で、ソフィアに対しての注意喚起が主目的なようだ。
「えぇ、もちろんです」
彼女が軽率に誘いを受けるとは考えがたいが、そう答えておく。
ようやくレグデンバーの表情が柔らかさを取り戻した。
「ところでカレンさんは私の名前をご存知ですか?」
「はい、存じ上げております」
「本当に?」
「ドノヴァ・レグデンバー副団長、ですよね?」
(カッツェ団長がそう呼んでいらっしゃるし、それに……)
明確な自己紹介は過去に一度受けたきりだが、こうも頻繁に顔を合わせる人の名前は忘れようがない。
しかし、わざわざ問われるということは忘れていると思わせる要因があったのだろうか。彼の名を口にしながら抱いた不安は一瞬で吹き飛んだ。
「正解」
と、レグデンバーが笑み崩れてみせたから。短い言葉ながらも普段より砕けた口ぶりで、カレンが言い当てたことを真実喜んでいるように見える。
「長居をしてしまってすみません。そろそろ仕事を片付けてきます」
思わず見入ってしまった笑顔のままでそう告げられ、はっと意識を引き戻す。
「お疲れ様です」
「カレンさんも。それでは、おやすみなさい」
就寝の時間にはまだ早いが夜の挨拶を置いてレグデンバーは帰っていく。
その背中が開かれた扉の影に消えるまでしっかりと見送ってしまった。
(女性に人気があるのも納得だわ)
職員寮で時折漏れ聞こえる職員たちの評判を思い出しながら。
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