30. 聖獣に愛されし者(カルの視点)

 シアは大使公邸の中で、ずっと一人で育ったそうだ。もちろん、使用人や家庭教師はいたけれど、他人の大人しかいない世界。

 そんな中で、なんでも話せる友達は母親しかいなかったのだろう。たとえ、返事は返ってこなくとも。 たった一人の友達。


「ずっと友達でいてね。カル、どこにもいかないで」


 俺たちを探しにきた衛兵に連れられて王宮に戻るときに、シアは涙目になってそう言った。だから、安心させてあげたくて約束した。


「ずっと一緒にいるよ。どこにもいかない」


 その言葉を聞いて、シアは輝くような笑みを浮かべた。そばにいた衛兵すら、思わず見入ってしまうような素敵な笑顔だった。


 シアは、ともすると消えてしまいそうな、線の細い子供だった。その姿を目にしないかぎり、この世には存在しないような。手を離したら、あっという間にどこかへ連れていかれてしまうような。


 まるで羽化したばかりの蝉のようだった。何年もを暗闇で過ごし、やっと殻から出た真っ白な幼生は、やがて地上の大気に汚されて七日で死ぬ。捕まえようとしても、どうしても捕まえられない。


 シアは俺にとっても、初めての友達だった。彼女は自分が守るんだ、絶対に死なせたりしない。そう幼心に誓うまで、それほどの時間は要さなかった。


 それまで誰にも、そんな気持ちになったことはない。初恋だった。


 たぶん、初めてシアを一目見たときから、俺は彼女に恋をしていた。身も心も彼女に捕らわれてしまったんだ。


「シア? 泣いてるのか」


「……幸せだから」


 腕の中のシアは、静かに泣いていた。さっきまで、確かに俺のものだと、やっと手に入れたと思っていたのに。


 まるで指の間から砂がこぼれ落ちてしまうように、シアはいつも俺の腕をすり抜けていってしまう。


 その不安をかき消そうと、俺はシアの華奢な体を抱きしめた。さっきまであれほど火照っていた彼女の肢体は、今はもうひんやりと冷たい。


 シアは本当に人間なのだろうか。人の姿を借りた精霊じゃないのか。


「愛してる。誰にも渡さない」


「……うん。カル、どこにもいかないで」


 そう言って、シアは俺の背中に腕を回して、俺の胸に頬を寄せた。それでも、その涙は止まらないようだった。


 なぜなんだ。一体何がシアを不安にさせてるんだ。言葉でも体でも、全身全霊で愛を伝えても、シアはいつも悲しそうだ。

 こんなふうに初めて体を重ねた後ですら、俺はシアを泣かせている。彼女が落ち着いて眠るまで、頭を撫でてやるくらいしかできない。


 そして、早朝に目覚めたとき、シアは隣にいなかった。俺がどれだけ心配したか、たぶんシアには想像もできないと思う。もう二度と会えないような、そんな気がしてしかたがなかった。


 だから、中庭の泉のそばに佇む彼女の姿を見つけたとき、俺は安堵のあまりにその場に崩れ落ちそうだった。それでも、また会えたという喜びに満たされて、俺はシアに駆け寄った。


 その瞬間、目の前の光景に息を呑むことになった。


 シアのそばには、真っ白な馬がいた。ただの馬ではない。一角獣。ユニコーンだった。見事なたてがみはシアの髪と同じ銀色で、その姿は白濁した朝もやに溶けて、いまにも消えてしまいそうだった。


 シアの姿も銀色の光に包まれて、少し霞んで見えた。そのまま消えてしまいそうに。


 純潔の乙女にだけ、その心を許すと言われる聖獣ユニコーン。シアに鼻ずらを撫でられて、気持ちよさそうに目を細める。その姿は崇高で、俗世の欲に汚されてもなお、清浄な魂を宿すシアに魅了されているかのようだった。


「シア! ダメだっ! そっちに行っちゃいけないっ」


 俺の言葉にシアが振り返った瞬間、聖獣は静かに走り去り、シアの姿に色がさした。そうだった。シアにはまだ俺の魔法がかかっているんだ。今の彼女は、黒髪に黒い瞳、すこし褐色の肌をしている。じゃあ、俺が見た光景はなんだったんだ?


 俺の困惑をよそに、シアは嬉しそうに俺の腕の中に飛び込んできた。その笑顔は日の光のようで、急に周囲のモヤが晴れた気がした。


 そして、シアは俺の唇に人差し指を押し付けて、こう言ったのだ。


「しーっ、黙って。大きな声を出しちゃダメよ。野生の馬が来ていたの」


 目を凝らして森のほうを見ると、確かに黒い馬が走り去っていくところだった。俺は夢を見ていたのだろうか。


「水を飲みに来たのよ。あの森に棲息しているんじゃないかな? きれいな黒毛の子よ」


 そう言って微笑んだシアは温かくて柔らかく、間違いなく幻ではない。血の通った人間だった。

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