かいな

坂並佐藤

かいな

近頃、うっすらと、人の腕のようなものが虚空に浮かぶのが見える。

 なんということのない日常の中、大学への通学途中、友人と話をするとき、家でひとりPCを見ているとき。時間も、場所も問わず、それは浮かんでいる。

 はじめ見たときは驚き、恐ろしく思ったものだが、日に数度、浮かぶ腕を見ることが当たり前になって二か月も過ぎると、気にならなくなってしまった。

 精神的な病にかかり、幻覚でも見ているのだろうか。ひとに相談すれば、きっとそう思われるだろう。場合によっては専門医院への通院を勧められるかもしれない。インターネットでそれらしい検索をしても、ピンとくる言葉は「せん妄」くらいだ。しかし、問題がある。というのは、「問題がない」という問題だ。私は、虚空に浮かぶ腕を見るようになってから、かなり自分を疑った。できるだけ客観的に、ともすれば、悲観的に自分を観察した。だが、変わりないのだ。腕が見えるようになる前と、その後で、なんら変わりがない。朝起きて、学校に行って、授業を受けて、昼飯を食べ、また授業か、曜日によってはアルバイト先のスーパーに向かい、総菜を買って帰る。休みはたいてい昼まで寝て、それからバイトだ。

 「俺、最近変かな」

 自分ではわからないこともあるだろう。よく授業を一緒に受けている友人に、率直にたずねてもみた。そっけなく装っているが、内心はかなり怖かった。変だと言われれば、自分が正気かどうか、もはや自分自身では判断できない状態に来ている、ということだ。

 「え?・・・なんかあった?」

 何かあったかと聞かれ、宙に浮かぶ腕のことを言うべきか、とも思ったが、当初と主旨が違ってしまう。

 「いや、なんとなく。俺はいつも通り変わってないつもりなんだけど、ひとから見ると変に見えることもあったりするのかな、って話だよ」

 「ふーん」

 友人は、興味があるのかないのか、缶コーヒーに口をつけた。

 「誰に何言われたか知らんけど、人間、それなりに差が出るように生まれてんだから、気にすることないんじゃない?」

 彼はどうやら、質問の意図を取り違えたらしい。私が誰かに悪口でも言われたと思ったのだろう。励ましてくれた。

 「やさしいねぇ。さぞモテるだろう」

 優しい友人は、苦虫を嚙みつぶしたような顔をした。

 「お前は本当に優しくないよな」

 私は、彼が大学入学後まもなく、高校時代から付き合っていた交際相手と別れてしまったのを知っている。一年以上前の話だ。以降、彼は誰とも付き合っていない。

 少し笑いあって、時計を見る。そろそろ次の授業の時間だ。

 「ぼちぼち行こうか」

 そう言って時計から顔を上げると、白く細い女の腕が、友人の肩に乗っていた。ぎょっとして少し放心していると、彼は不思議そうにこちらを見る。

 「どうした?」

 打ち明けるべきだろうか。だが、打ち明けたところでなんだというのか。

 「・・・いや、ちょっとクラっときただけ」

 授業ももうすぐはじまる。いずれにしても、今でなくともいいだろう。


 腕は、見るたびいつも違う腕だった。先ほどのように女の腕であったり、太く筋肉質な男の腕であったり、子供の腕のこともある。意味を考えてみたりもしたが、見当はつかなかった。脈絡がなさすぎるのだ。浮かぶ腕の種類にも、時間にも、場所にも、意味は見いだせなかった。強いて言えば、いつも腕が浮かんでは見えるが、それほど高くに見えたことはない、ということくらいだろうか。大学の棟内や友人の家など、二階、三階で見えることもあるので、地上からの距離とは関係ないだろうが、言うなれば「手の届く範囲」にしか現れていない。

 先ほど、友人の肩に乗っていた腕には、随分驚かされた。今まで、腕が明確に何かをしたことはなかった。いつもは視界の端に浮いるのが見えて、ただそれだけだった。何か、意味があったのだろうか。直前の会話。モテるだのなんだの、あのくだらない会話を、腕は聞いていたのだろうか。そういえば、はじめ見たときはうっすらと、景色に混じるように見えていた気がするのに、さっきはくっきりと見えていた。もしかして、以前から段々と色濃く見えるようになっていたりはしなかったか。

 思考の渦に飲まれているうちに授業は終わり、今日はバイトもないので帰ることにした。友人は所属しているサークルに顔を出すらしい。


 駅のホームに立っていると、また腕が浮かんでいた。線路の上、ホームから「手の届く」距離だ。人はまばらで、私はその手から少し距離を置いた。見えなくならない範囲で、しかし、「手の届かない」範囲へ。

 浮いているのは、若い手だった。少し細いが、多分男の手だ。できるだけさりげなく見ていると、手の前に女性が立った。おそらく同じ大学の学生だ。妙な不安と焦燥感に駆られる。彼女は、「あの手の届く距離」に居る。ホームには、アナウンスが流れた。まもなく急行電車が駅を通過する。線路の奥に電車が見えてきて、私は彼女の方へ歩いて行った。不自然にならないように、とは思ったが、危機感が勝ってしまい、うまくできていたかはわからない。

 汽笛が鳴り響いた。車のクラクションより、低く鈍いが、大きな音だった。

 電車は通過し、浮いていた腕は、いつの間にか消えていた。

 女性が不審そうにこちらを振り返る。会釈だけして、通り過ぎて端まで歩いた。さぞ、怪しい人物に見えたことだろう。


 それからしばらくは、何もなかった。友人とは週に数度顔を合わせるが、特に変わった様子もなく、不意に浮かんだ腕が見えてしまうのは、相変わらずだった。

 

 ある朝、目覚めたときに、ふとした後悔に襲われた。大したことではない。前日の夜、洗濯機を回したまま、中の衣類を干さずに寝てしまったのだった。

 眠い目をこすりながら、洗濯機の中身を見る。少し、臭う。湿った臭いだ。もう一度洗濯機を回し、その間に朝食をとった。

 食べ終わった頃合いで、ちょうど洗濯の終わりを知らせる電子音が鳴った。洗濯物をまとめてカゴに入れ、ベランダに出る。少し風はあるが、いい天気だった。洗った服をおおむね干し終えて、カゴを見る。最後にバスタオルを残してしまった。そのまま干せる場所はない。どうにも、自分は要領が悪いなと頭を掻いて、物干し竿にかかった衣類を少しずつずらしていく。ハンガーがうまく外れなくて、ベランダの柵の方に移動して、外側に背を向けた。

 ひっぱられた。

 強い力で。

 後ろに。下に。落とすような引き方だった。

 私の両肩を、男の腕がつかんでいる。

 私は必至でうずくまる。ガン、と音がした。ベランダの柵の端が、錆びで腐食して外れている。目の前の服を掴む。服は物干し竿ごと大きな音を立てて落ちてしまった。なおも引く手の、中指を掴んで逆に折った。誰もいないはずの虚空から、うめき声が聞こえた気がした。そうして、腕は消えた。急いで部屋に戻り、しばらく放心状態だった。何も、考えられなかった。


 学校は行く気にならなかった。昼過ぎに大家さんに電話をして、ベランダの柵が壊れた旨を告げた。業者に頼んで、明日にでも見に来てくれるとのことだった。洗濯物は落ちたままにしてある。とてもベランダに出る気になれなかった。

 夕方、連絡もなしに、友人が原付に乗ってやってきた。

 ピザを食べて映画を見たかったが、ひとりではつまらない、と思ったのだそうだ。ありがたいことにピザ持参だったが、ありがたくないことにレンタルしたホラー映画のディスクも持参してきた。

 ベランダの惨状を目にした友人に、柵の話をした。友人は私が止めるのも聞かず、落ちた衣類をひろってカゴに入れてくれた。ホラー映画を見た後、酒を飲みながら他愛もない話をしていた。原付で来たくせに。どうやら、今日は泊まっていくつもりらしい。

 私はついに、彼に浮かぶ腕の話をした。日ごろから老若男女さまざまな腕が浮かんで見えること、今日、その腕に引かれてベランダから落ちそうになったこと。ただし、ホラー映画になぞらえて、おどろおどろしく、言い方を変えれば、面白おかしく、だ。

 そうは言っても、こちらとしては、割と本気だ。彼も話のところどころで息を飲んだ。だが、多分、本当だとは思わなかっただろう。それでいい。そういう風に話した。そういう風でもいいから、聞いてほしかったのだと思う。そうして、夜は更けていった。

 

 翌朝、友人は早々に帰っていった。私も午後からアルバイトだ。洗濯物は、もういちど洗って、室内に干した。早いうちに内装業者の男性が来て、ひとまず応急処置をしてもらった。正式には、また工事に来てくれるらしい。話ぶりから、大家さんがいつも依頼している業者のようだったので、ふと、他の部屋でこんなことはないのかと聞いてみた。この部屋以外は、特にベランダの柵や留め具が錆びているという話は、今のところはないそうだ。


 男性の帰り際、扉を開けた時に、廊下に腕が浮いているのが見えた。男女どちらか判別がつかないが、老人の腕だ。業者の男性は愛想よく「気の毒だったね」などと言いながら、何事もなく帰っていった。


 ほどなくして、ベランダの柵は取り換えられた。念のためか、私の部屋だけではなく、足場を組んでアパート全室を工事していた。

 友人には、彼が所属しているサークル内で彼女ができたのだそうだ。少し付き合いが悪くなった。

 今も、宙に浮かぶ腕は見える。

 危害を加えてきたのはあれきりだったが、見える頻度も、とくに減ることもない。

 浮かぶ腕は、私の日常に入り込んでしまった。

 私は、やはり異常だろうか。いつか機会があれば、病院で相談でもしてみようと思う。なんとなく慣れてはしまったのだが、恐ろしいものは恐ろしい。


 でもさあ、道で君の後ろを歩いている人間も、急に君の首を絞めてくるかもしれないよ。

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