第116話 手帳
116 手帳
起きるのが辛い。
疲れとか寝不足とかじゃない。
フェルが柔らかすぎる。仰向けの僕にフェルが横向きで体を密着させている。フェルの右手が僕のパジャマの胸の辺りを掴んでいる。
起きるのが辛い。
次の休みは絶対朝寝坊しよう。
体勢を変えてフェルの寝顔を見つめる。
こんな僕にフェルは好意を持ってくれている。
フェルのことが好きだ。初めて会った時からずっと。
頑張ってフェルにふさわしい男になろう。そのためには今の仕事を頑張らないと。
気合いを入れて布団から出る。暖房をつけてフェルを起こした。
タマゴと牛乳を買って戻って、ご飯を炊く。今日はおにぎりにはしなかった。
お弁当箱の半分にご飯を薄く盛り付け、
お醤油に浸した海苔をその上にのせる。
その上にご飯で蓋をするようにご飯を盛り、最後にふりかけを散らした。
空いているところにオーク肉の生姜焼き、オムレツ、ポテトサラダを詰めた。
もう1個のお弁当箱にフルーツを入れて、これで生姜焼き海苔弁当の完成だ。
「今日はおにぎりではないのか?……いや、答えなくて良い。私が野暮だった。お昼を楽しみにしているぞ」
今日も嬉しそうにカバンにお弁当をしまって、フェルと一緒にギルドに向かった。
フェルは今日もゴブリンを狩るらしい。
今日は赤い風と一緒にいくつかの集落を回るそうだ。
店に着いて鍵を開けて中に入る。
店の窓を開けて換気をした。
昨日もらったレシピ通り野菜の皮剥きをしてスープの下拵えをする。鍋に水を張りスープの出汁をとった。
お湯が沸く前にさっさと掃除を済ませた。たまにアクを取りながらハンバーグ用のタマネギとニンジンを刻んでいく。
ガンツの包丁がとても使いやすいから、みじん切りがとにかく楽しい。出来上がったみじん切りを大きなボウルに入れて専用のフタで埃がかぶらないようにする。
サンドラ姉さん遅いな。
できることはもう進めちゃおう。
ミンサーで挽肉をどんどん作ってボウルに入れていく。挽肉はいろんな料理に使うのでとにかく大量に作らなくてはいけない。昨日ロイは大きめのボウル3つ分挽肉を作っていたので、同じように作った。
小熊亭のハンバーグは牛肉が6で豚肉が4。大きめのハンバーグをふっくら焼いている。一度作ってみたいけど、牛肉が少し割高なんだよね。ホーンラビットの肉に慣れてしまうと、そのコストパフォーマンスの良さからなかなか逃れられない。でも余った切れ端とかで良いんだよな。今度お肉屋さんで安く買えないか聞いてみよう。
お肉を保冷庫に入れて、氷を補充しているとサンドラ姉さんがやってきた。
「ごめんなさい。遅くなっちゃった。ケイ、大丈夫だった?」
「昨日ロイがやってたように準備を進めてました。スープは出汁を取ってあるからすぐ作れますよ。ハンバーグの準備もしておきました。あとはどうしてましたっけ?」
サンドラ姉さんが仕込みのチェックをする。
「すごい。大体出来てるわ。ケイ。スープは作れる?レシピ通りでいいから作っちゃって。わからないことがあればその都度聞いて構わないから。あたしはハンバーグの準備をしちゃうわ。遅れてきたのはクライブには内緒よ」
レシピをもう一度確認してスープを作る。
具材を順番に入れていってしばらく煮込んだら丁寧にアクを取る。
その間にサラダの準備だ。サンドラ姉さんに今日使う材料を聞いて野菜の準備をする。
「そういえば昨日のサラダ結構美味しかったわ。あのパンを揚げたやつ、あれ、スープに入れても美味しいと思うのだけれど」
「あれ、クルトンって言うんです。前に何かの本で読んだことがあって、サンドラ姉さんが言う通り、普通はスープに入れるものらしいですよ」
「やっぱりそうなのね。じゃあ今日のスープに入れてみましょう。昨日の残りのパンがそこにあるからそれで作ってくれる?そのボウルがいっぱいになるくらいまで作っちゃって良いわよ」
揚油を温めてパンを細かく切る。ガンツの包丁が使いやすい。ほんとみんなに感謝だな。
ずっと使っていた包丁もいいけど、ガンツの包丁を使うと、もう他の包丁は使えそうになかった。一生大切に使おう。
サンドラ姉さんに聞いて、揚油にラードを足した。クルトンを少し香ばしく仕上げたかったからだ。
サンドラ姉さんは驚いていたけど、僕の意図を理解して許可をくれた。
スープの味をサンドラ姉さんに確認してもらって、スープは完成。今はひたすらハンバーグの成形をやっている。
「これが終わったら少し休憩にしましょう。ケイはコーヒー飲めるわよね。とっておきのを淹れてあげる」
サンドラ姉さんはハンバーグの成形のコツを教えてくれて、2人でどんどんハンバーグを作っていく。仕込みが終わってサンドラ姉さんとコーヒーを飲んでいたら師匠が出勤して来た。
慌ててコーヒーを飲み干そうとしたら、休んでていいと言われる。
ちょっと緊張しつつもコーヒーをすする。サンドラ姉さんのとっておきはとても美味しかった。今度売ってる店を聞いてみようかな。
「あたし、コーヒー好きなのよ。いつか喫茶店をやろうと思っててね。かわいいお店でデートってやつ?恋人たちが素敵な時間を過ごせるようなお店にしたいの」
サンドラ姉さんが目を輝かせながら言う。けっこう乙女なんだな。姉さん。
「もし開店したら手伝いに行きますね。人手が必要な時は声かけてください」
「あら、約束よ。ケイが手伝ってくれたら助かるわ。絶対声かけるから、こき使ってあげる」
「楽しみにしてますね」
「小僧、今日のスープはお前が作ったのか?」
スープの味を見ていた師匠が急に僕に声をかける。ドキッとして僕はサンドラ姉さんの顔を見る。
「ア、アタシの指示でね。ケイはけっこう料理ができるみたいだからレシピ通りにやってみなさいって言ったの。味も問題ないと思うけどいけなかった?」
「ダメだと言ってるわけじゃねえ。まだ小僧には早いと思ってたからな。よく出来てる」
直立不動で僕は2人の話を聞いていた。
「小僧は卒業だな。ケイ、あとでレシピを渡すから明日もお前がスープを作れ。明日はサンドラが休みだからな。俺も早く来る」
「わかりました。やらせていただきます」
「スープのレシピは写して構わん。店のレシピも同じだ。繰り返し作って自分のものにしろ。昼休みにでも手帳を買ってこい。金を渡すからしっかりとした装丁のやつを買え。そいつをレシピ帳にして大事に保管しておくんだ」
「お金なんて、大丈夫です。自分で買いますから」
「俺が買ってやるって言ってんだ。黙って受け取っとけ。就職祝いだな」
そう言って師匠が笑う。
笑うと怖い顔がさらに怖くなった。
それから師匠の元から独立する時まで、数えるほどしか師匠が笑った顔は見たことがない。
メアリーさんが出勤してきて昼の営業が始まる。
昼の営業は夜よりお客さんが多いとはいえ、メニューが3つしかないから比較的簡単だ。
「ケイ。付け合わせが足りねえ、ブロッコリーを茹でろ」
「ケイ、余ってもいいから多めに作りなさい。夜も使えるんだから」
師匠の言葉が足りないところはサンドラ姉さんがフォローしてくれる。正直助かる。明日はサンドラさんいないんだよね。不安だ。
師匠はニンジンのグラッセを作る用意をしている。保冷庫から切ったニンジンを出し、師匠のところにもっていく。
師匠は何も言わずそれを受け取る。
ロイがいないからやることはとにかく多い。でもミナミで働いた経験が生きている。お昼の営業はそつなくこなせた。
サンドラ姉さんが賄いを作っている横で夜に使う野菜の下拵えをする。
「ホランドのところでやれてたんだものね。そんなに動けるのも当然だわ。今のところよくやれてるんじゃない?」
「けっこう必死です。昼はまだなんとかなっても夜はめちゃくちゃですね。昨日は何が何だかわからないうちに仕事が終わったというか。さっきメモを見返したら相当焦ってたんでしょうね。書いていることがめちゃくちゃでした」
「そんなに最初からなんでも出来たら困るわ。夜はメニューを覚えたら大体なんとかなるわよ。それまで頑張りなさい。あ、それ終わったら鶏肉の下処理をお願い。チキンカツの大きさは覚えてる?大体180グラムよ」
鶏もも肉の筋を丁寧に取って形を整える。切れ端はシチューに使うので無駄にはならない。こういう細かな作業をする時はやっぱり使い慣れた今までの包丁のほうがいい。ちょっと切れすぎるんだよね。ガンツの包丁。あとで時間のある時に研いで調節しよう。
「ずいぶん使い込んだ包丁ね。そこまで使い込んでる包丁なんて初めて見たかも」
「田舎でずっと使ってたのを出てくる時じいちゃんに貰ったんです。思えば5歳の時から使ってるかも、あの時はデカくて使うのに一苦労だったけどすっかり小さくなっちゃった」
「ガンツはそういう道具を大切にする人を気にいるわ。それを見たらガンツと仲がいいのも納得だわ」
「ガンツも最初は怖かったんです。そういえばこの包丁見せてから優しくなった気がしますね。それで工房に通されて解体用のナイフを研げって言われて。僕、包丁研ぐの結構得意なんです。今ではガンツにしょっちゅう手伝わされてます」
「へぇ、あのガンツがね。いいじゃない。あ、そうよ。切ったもも肉は一度洗うの。血合いとかこすり落として」
水洗いした鶏肉は丁寧に水気を拭き取り仕込み用の皿に並べていく。
「中皿取ってくれない?あとスープよそって。もう少しでできるから」
サンドラさんが作ったのはホーンラビットのトマトソース煮込みだった。ベースはオークソテーに使っているトマトソースなんだけど一味、違った香草の香りがする。
少し甘みがついてるのはニンジンかな。
すりつぶして入れてる?あー多分ニンジンのグラッセの余ったやつを潰して入れたんだ。
「サンドラ姉さんこれ美味しいですよ。ニンジンの他に、この入れてる香草ってなんですか?」
「教えてもいいけど、それじゃあ勉強にならないから、ちょっと自分で考えてみなさい。食糧庫にあるものしか使ってないからそんなに難しくないと思うわ。今日の終わりまでに答えが出せたらこのレシピ教えてあげる」
そう言われて真剣にトマト煮を味わう。どこかで食べたような気はするんだけどな。
「サンドラ。これ夜のメニューに出せ。20食くらい作っておけばいい。ケイ、昨日と同じサラダを出すからな。営業が始まる前に準備しておけ。それとこの金で手帳を買ってこい」
師匠は僕に銀貨1枚渡して、2階に上がっていった。
休憩中にゼランドさんの商会に走る。30分しかないから急がないと。
店には3男がいたので捕まえてレシピ帳が欲しいと伝えた。
「へー、クライブがそんなこと言ってたんだー。結構気に入られたってことじゃない?よかったじゃん。あ、これなんてどう?クライブいくらくれたの?え、銀貨?そしたらこっちにしなよ。表紙が皮だから多少水に濡れても大丈夫だよ。後から紙も足せるし。銀貨1枚にしてあげるから」
値札を見ると銀貨3枚だった。
「ありがとう3男。大事に使うね」
「紙が足りなくなったらまたおいで、中身はそんなに高くないから大丈夫だよ。あ、そうだ、弁当箱が入荷したよ。買っていく?」
3男が食器コーナーに案内してくれる。
アルミの容器は両端の留め金でフタを固定する仕組みになっていた。パッキンもついていて中身の汁が漏れないようになっている。
「売れ行きが良かったら色付きとかデザインをもう少し工夫しようと思っているんだけどね。ちょっとごついよね」
「少し小さめのが欲しかったんだ。これ2つ買っていくね」
「了解。2つで銅貨8枚ね」
「3男?それ原価じゃない?」
「だってこれケイくんの発案でしょ。原価でいいよ」
そうだった。契約書まで交わしてしまったのだ。
「父に言っておくね。あー、そうだった。ケイくん。就職おめでとう。そのうち食べにいくから頑張ってね」
「ありがとう3男。今週は多分バタバタしてて何も話せないと思うから、仕事に慣れた頃に来てくれると嬉しいな」
商会を出て走って店に戻る。こんな時でも魔力循環をしてしまう。なんかクセになってるな。
店に戻るとサンドラ姉さんがコーヒーを飲んでいた。僕を見るとポットから僕の分も注いでくれた。
さっそく買って来た帳面にレシピを書き写す。
「ちょっと隙間を開けて書いておくといいわよ。どうせあとでいろいろ書き込むことになるんだから」
サンドラ姉さんにそう言われて紙面を大きく使ってレシピを写した。
「ずいぶんいい手帳買えたわね。お金足りたの?」
「3男が銀貨1枚にしてくれたんです。師匠からもらったお金全部使っちゃったけど大丈夫ですかね?」
サンドラさんは笑って言う。
「そんなの全然気にすることないわよ。クライブが買ってやるって言ったんだもの。むしろアタシにしてみればよくやったって思うわ。大丈夫、クライブはそんなことで怒らないから」
師匠が2階から降りてきた。
手帳を見せてお礼を言う。
「師匠。手帳ありがとうございます。3男が銀貨1枚にしてくれました。大事に使います」
「いい帳面だ。末っ子もたまにはいいことするじゃねぇか」
手帳は大事にカバンにしまい、夜の準備をする。コロッケのレシピを見せてもらい、それ通りにタネを作る。
「ケイ!ハンバーグも補充しとけ」
「わかりました!」
「ケイ、じゃがいもが足りないかも、もう少し剥いておいて」
「姉さんそこに剥いたやつ置いてます」
「ケイ。そろそろ開店するぞ、サラダの準備できてんのか?」
「今、やってます!」
「ケイそこの容器使っていいから、少し多めに作っておきなさい。始まると補充出来ないわよ」
「わかりました!」
「クライブ。ケイのクルトンこれから毎日用意するから、パン多めに発注しといて」
サンドラ姉さんはクルトンを気に入ったみたい。確かに便利だもんね。
「ケイ。パンの切れ端でもいいんだろ?パン屋には余ってる切れ端よこせって頼んどくぞ」
「切れ端で充分です。本にもそう書いてありましたから」
前世の知識はもう何かの料理の本で見たことにしてしまおう。
さあ用意もできたし、営業開始だ。
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