第29話 〈天満月〉内裏、清涼殿。

〈天満月〉内裏、清涼殿。

 朱の絹を纏った青年は、報告に深い息を吐いた。


「月が、落ちたか。して、あの娘は書司に守られて帰ってきたと」

「……御意」

「そうか」


 長い沈黙が横たわった。 

 それに耐えきれなくなったのか、青年の横で報告を一言も発せずに聞いていた女性が、おずおずと口を開く。


「父上」


 父上と呼ばれた、だが女性より少しだけ年長にしか見えない報告者は、目線だけを上げた。


「何でございましょう」

同胞はらからはご無事でおられるでしょうか」

「宮様たる御方がお気にかける身分の者ではございません」


 予想していた答えに、宮様と呼ばれた女性は目尻を下げる。

 艶やかな髪は肩に掛かり、清水のように衣の先に流れていた。紅の薄様に綿を入れた紅の上着を装って、絵巻物のごとき美しさを添えているが、決して髪には及ばず、その髪の持ち主の悲しげな顔でさえ、髪すらも引き立て役にしていた。


「気に病むことはない」


 青年がゆっくりと頭を振る。

 たおやかな肩を抱き寄せて、妻の耳元で青年はささやいた。


「罪のない娘は、罪を負わなかった。それで良い」

「主上」


 報告者は既に二人の視界から消えていたが、一礼をし、その場を後にする。


 前方に人影を見つけて足を止める。


「これは、書司寮助殿」

「傀儡師殿にはご機嫌如何ですか」


 檜扇を手に、にこやかに空木行成は笑う。彼の後ろには私設蔵人の藤原飛燕が厳しい顔で控えていた。


「ええ、何時もと変わりませんよ」

「傀儡師殿の息子が亡くなられたと伺いましたが?」

「彼は息子と呼ぶに及びません。言うまでも無いことと思っていましたが。それにしてもお耳が早い」

「いえいえ、〈壺菫〉が図書寮の管轄であるから、たまたま耳に挟んだだけのことです」


 ぱたんと扇を閉じる。


「これも、小耳に挟んだことですが」

「何でしょう」

「傀儡師殿が外戚であるのを好ましく思わぬ人間がいると」

「何故そのような根も葉もない噂が立つのでしょうか。嘆かわしいことです」


 ただの傀儡師には、実家から天皇の妻を出すだけならともかく、娘を相応の后の地位につけることはできない。


「主上の中宮へのお情けは、桐壺更衣にも劣らぬご寵愛ぶり。畏れ多くも、人域を超える程に美しく、たおやかであらせられます。出自までも疑う下種な輩がおります故」

「たとえば、中宮蔵人所の非蔵人の、藤原路草であるとか?」

「ご存じならば話が早いですね。私の可愛い部下も彼に手出しをされまして。ご忠告申し上げに参った次第です。古くから京には鬼が棲むと言いますからね」


 宮中も鬼だらけですからね、と空木は楽しそうに微笑んだ。


「ご忠告、ありがたくお受けします」

「ゆめゆめ油断召されませんように」


 柔らかな声で告げて、空木行成は傀儡師の横を通り過ぎていった。

 残された傀儡師は、簀子から空を見上げる。作り物の月は本物と同じ月齢で、ひどく細く、今にも消えてしまいそうな光を放っていた。


「済まなかったな、諒」


 月に言葉を手向けると、男は再び厳しい顔に戻る。

 男に感傷は不要だった。


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