第10話 友人の遺言
しばらくすると、腰くらいの背丈の傀儡が部屋に入ってきた。傀儡は両手で朱塗りの盆に茶器一式を乗せている。西洋急須は洋風なのに、白磁の柔らかな白と丸みで部屋との違和感を感じさせない。
畳に腰を下ろす琥珀の横で、陶器の肌の傀儡が止まる。琥珀は慣れた手つきで、一度お湯で暖めておいた茶碗に、お茶を注ぐ。明るい茶色の液体の柔らかな香り。茶托には小麦の焼菓子が添えられている。
「どうぞ。茉莉花の香茶。落ち着くよ」
差し出した碗を両手で包み、紫は鼻先を寄せる。
「いい香りですね」
「だろ? お茶っ葉には妥協したことがないんだ。と言っても、産地に摘む季節や加工なんかを気分に合わせるくらいだけど」
これは半発酵の烏龍茶がメインだけど、と付け足す。
「美味しいです。お茶煎れるの、上手いですね。趣味なんですか?」
「んー、趣味、ね。趣味なのかな。考えたことなかったな。あの事故があってからは、いれる機会もなかったしね」
「え? 機会って? 自分では飲まないんですか?」
「ああ、いや、そうだな……自分で飲むためには、滅多にね。いいや、この話は一旦おしまい。自己紹介の続きをしないとね」
お茶を一口すすると、
「まずは図書寮が何か、から始めようか。ちょっと退屈な講義だけど、我慢してくれよ」
──そもそも図書寮というのは、朝廷に尽くす機関だ。国家と役人のために史書を編纂及び言語で記された文化財の保存に努め、必要に応じて皇族や役人に貸し出すことから始まった。その役目は今では本亭に譲られている。本亭に対しての分亭のほぼ全てが、資料の提供先を一般国民に変えて久しい。
普通言うところの図書寮は、地上で発行されたあらゆる書籍・定期或いは逐次刊行物(一般人が目にするのは主に雑誌だ)を初めとする記録媒体を蒐集・分類・管理し文化の保存に努め、各都市で利用者の要求に応じて閲覧・貸出を行うことを通じて、地域の文化の発展に貢献すると共に、娯楽を提供する施設である。
第五分亭〈壺菫〉は質でこそ本亭に劣るが、分亭では最大の敷地面積を誇る図書寮都市だ。他の都市とほぼ同等の規模を有するこの都市は、まるごと一つが図書寮である。外界と繋がる唯一の駅に城門が直結され、訪問客用の宿泊施設や必要な設備が揃い、図書寮の開架と繋がる。外壁が少数の住人のための住居であり、内側の建造物は閉架で、本のためのものだった。
蔵書数は何千万冊とも何億冊とも言われ、多数の職員が本の管理に携わり、資料の提供を利用者に行っている。
第四分亭は、巨大な〈壺菫〉の敷地内にごく最近つくられたごくごく小さな分亭である。
「言い直してなんだけど、今の紹介はちょっと間違ってる。図書寮の組織図に、第四分亭はない。朝廷や創立者が縁起を担ぐ人間のせいで四なんて数字は今まで欠番だった。できたのは今朝だ。架空の役職だよ。俺を左遷するためのね」
なるべく軽く言ったつもりだったが、声がざらついていた。お茶を口に含む。
「君も知っての通り、ひと月ほど前、あの事故が起きた。事故が起きれば後片付けをする人間が必要になる。臨時に組織されたその部署に俺は志願した」
「浮遊都市落下事故、〈月の接吻〉ですね」
「事故の影響で、〈壺菫〉への旅券は制限された。何故旅券が使えなくなったのか。駅では聞かされなかっただろ」
「はい。ただ使えなくなった、と」
「逆に言うとね、出ることもできなくなってるんだよ」
「……それはどういう意味ですか?」
「言論統制。おだやかじゃないだろ。ニュースや新聞だと被害は建物だけで大したことないとしか読めないように書いてあるからね。多分、正式な詳細発表はもう少し先だな。言論統制がしやすいから、〈壺菫〉で事故が起きたとも言えるな。正確には事故の原因の実験だけどね」
今この国の都市は、進む環境汚染を避けるために、西洋で言う城塞都市化している。正確には巨大な櫓を建て、櫓の上に都市を建てているのだ。
「目的はこの都市に合ったものだったけどね。書籍の保管場所が足りないから土地を増やそう──ってね。それに際して、新開発の技術を試すことになった。それが浮遊都市だ。地上から空中に逃れることを目的に開発されてきた。この都市が選ばれたのは定住してる人間が職員だけだからだ。言論統制も、実験場所の閉架図書への入館は厳重な審査があって個人の把握が楽だっていうこともあって、それに利用者の殆どが学者で研究資金がない。おまけに地位も名声もないことが大半だ」
皮肉な笑みを浮かべる。
「金で黙らせることも容易だって考えたんだよ。何かあっても学者が目指すのも重用するのも多くは大内裏だからね、就職口も握ってる。大抵のことは握り潰せる」
語尾を半ば吐き捨てるように言ってから、語調を緩める。
「資料もあるけど、図書寮本亭ので十分だから被害が出てもいい、って考えたんじゃないかな」
「…………」
「しかも、外縁近くに、小規模の浮遊部分を造るという、規模としては些細な計画だった。それでも初めての試みだったから、慎重に慎重を重ね、何年もの時間を費やして計画された」
しかし計画は失敗。墜落した浮遊部分は直下の一部を潰しながら都市にめり込んだ。
落下部分に住む職員がその日、残っていたわけではない。
職員は言うまでもなく、計画に危機感を持っていた利用者は、大事を取って避難していた。死者は幸いにも出ず、重軽傷者も数人という規模のものだ。だから復興に手も付けられずにほぼ放置されている。
「俺が詳しいのは、落下部分に実家があったからだ。救助作業も行った。人と資料への被害がないかを確かめるために。被害は軽微──と発表されている。傀儡を除いてはね。事故に備えて殆どの作業員は傀儡だったから」
でもその実態は。
軽微の中に、自分の両親が含まれている。
思い出そうとして琥珀は首を振り、目をしばたたく。もう少し、自分の中でどの様に伝えればいいのか、整理がつくだけの時間が欲しい。冷静に語れる自信がない。
「状況はこんなところかな。じゃあ、次に君がどうしてここに来て、どうやって事故現場まで入り込んだか聞かせて貰おうかな」
「案内されてきました……っていうのは、駄目ですよね」
「駄目。君が気づいてたか分からないが、君を旅館まで案内した書司は、俺の親友で、俺に案内を頼もうとしてたって話だったからな」
そういや東吾に弁当を渡したままだったな、と今更気づく。後で役所まで取りに行くか。
「確かに、事故現場で見たような気がします」
「旅券見せたんだろ? 俺にも見せてくれるかな」
「………これです」
荷物の中から取りだした薄紫色の和紙を見せると、
「確かに、聞いてたとおりだな。あの人のだ。どうやって気に入られたのか興味があるな」
「竹村さんも仰ってましたが、発行してくれた方はそんなにすごい方なんですか?」
質問に質問で返され、一拍の間を置いて琥珀は意図に応じることにした。
「色々な意味でね。俺とは姉弟弟子の関係にあって、向こうの方が実務経験では随分上だよ。書司としての能力もね。とはいえ、何せ気が強いもんだからそっちの方で有名かな」
「そう、私、運が良かったんですね」
「けど、俺が本当に知りたいのは旅券のことじゃないよ。太刀を賜るような身分の人間が何で追われてるか、かな」
いつしか琥珀の目と言葉は鋭さを増して芙蓉に投げかけられていた。
彼女の一連の行動が不快だったからではない。左遷された琥珀の心情は、彼のたどってきた過去や経歴もあって、権力側に無条件に好意的、とはとても言えない。書司としての本能が、彼個人の事情に感化されて表面化しただけのことだ。
書司とはそもそも、本を始めとする資料を専門に扱う技能を有する人間を指す。彼らは異能で、職務の中でもある一つの職務に非常に特化されていた。本を書架に並べて整理すること、整理のための識別票を付ける──識別票に類記号・整理番号を記入する──こと。それが琥珀の口にした〈分類〉である。
識別票添付、識別票張り。定義づけのことだ。
本に対してだけでなく物や人ですら〈分類〉する異能が書司になる。
「わざわざここに来たのは相応の理由があるんだろ? あの不毛の森に白や青で染まった河川は、旅行の車窓の景色には華やかすぎる」
芙蓉はこっくりと頷いて、表情を真剣なものへと変えた。
「私がこの都市へ来るのは、友人との約束だったんです。彼はこの都市に定住している職員の一人でした。都市の整備に関わる仕事をしていると聞いたことがあります。最近は会ってませんでしたが、大仕事がもうすぐ終わるから、久しぶりにこの日に会おうと言われていました」
「それが今日?」
「はい。でも会えなかった。友人の名前は榛名諒」
どこかに三人はいそうな名前をゆっくりと発音する。聞き手は一瞬眉をひそめると正しい回答を導き出す。
「その名前には聞き覚えがあるな。帝直属の傀儡師の、商標の一点モノだった気がする。つまりは数少ない意志ある傀儡だ」
「ご名答です。よくご存じですね」
「特許権も書司の仕事の範囲内だからね。
「彼の冬作品群の“榛”の榛名です。量産ではなくれっきとした一体しかない傀儡です。人と変わらない、より人から憎まれる傀儡です」
逆に千年前から平安時代の文化を表面的にでも保持してきた理由は、植物の生態にあったと言えるだろう。日本という国は気候が温暖で四季があり、様々な植物が生い茂っていたが、古来より有用な植物が非常に多い国だった。実を食し、葉は屋根や布団になり、柔軟な枝がバネになり、強靱な幹が釘の替わりすら果たす。そういう国だった。
だったと過去形なのは既に常識。
かつて利用し尽くされ汚染された地表は今では見捨てられ放り出されている。人々は首都を始めとして、西洋の城塞都市のように城壁で外部から身を守ると共に、人体を改良せざるを得なくなっていた。
人口も減り、単純な労働力は文明の発達と傀儡という絡繰り人形に担われるようになった。
傀儡として最も有名なのは、今琥珀が使っているようなお茶汲み人形だろう。
遙か昔には、茶を盆に乗せて運び、茶碗を取ると反動でおじぎし、くるりと後ろを向いて去っていくという単純な動作しかできなかった絡繰りは、独特の植物群により発展を見せていた。
玩具か、ただの絡繰りか。まず発達したのは劇を演ずるような見せ物としての資質である。見せ物として発達すると、傀儡は動くようになった。てこと糸、鯨のひげでできたゼンマイに加え、丈夫な種々の木々でつくった歯車などが、弓曳童子という、実際に矢を放つことができる傀儡をつくった。糸はただの鯨のひげではなく、様々な処理を施して強度もなめらかさも高めているもので、ほんのり紅く染められている。それを様々な板にかみ合わせて人間で言えば腱の役目をさせるのだ。筋力が強ければ、動きに無駄がなければ。追求すればやがて傀儡は人の、手練れの弓師の技を習得することになる。
お茶汲み人形は給仕をし、笛吹き人形は実際に曲を奏でることができるようになった。
行き着く先は人間と寸分違わぬつくり、動きである。芸術の域に達している。
人に似た傀儡は影武者として軍用として使われ始め、今では都の貴族などが個人的な警備としてすら使うようになっている。
傀儡は食事も睡眠もとらず、疲れも知らぬ。長時間の無休労働が可能になると、やがて溢れかえった傀儡は機械の手が入らなかった人の仕事を、心を奪い去っていった。夫は美しい傀儡に恋い焦がれ、女は男手を不要とした。子は傀儡に世話をされて育ち、老人はにこにこ笑って頷く傀儡に声が枯れるまで話し続けた。
人は恐れた。夫が奪われることを、結婚と出産を望まぬ女の出現を、子の笑顔が人形に移ることを、人との交わりを拒絶する老いた両親を。
恐れは、帝の寵愛深い美貌の中宮のことまで、あれは人でなく傀儡だ、と陰で噂させた。
「私は傀儡である友人の榛名諒に会いに、ここまで来ました。彼は、私の師でした。というより、兄でした。物心ついたときにはそこにいて、これからもずっといることが当たり前だと思っていたんです」
一息入れて、言葉を続ける。
「彼と会う約束をしたのが、浮遊都市最上階につくられた、月光庭園だったんです」
聞いた琥珀は、黙り込んでしまう。
傀儡を友人だと、見知らぬ人に堂々と言い切ってしまうというのにもだが、榛名諒が傀儡であり都市の業務に関わっていると分かった今、何故彼女が追われる立場にあるか、ある予測ができたからだ。
「その時、この本を持って来てくれと」
琥珀の手の中にある本を示す。
和綴じの本だ。材質は紙。当然のようだが、最古はパピルスから、木簡竹簡、絹に石、羊皮と、文字を記した媒体は多種多様だ。装幀は──線装本。いわゆる袋綴じのことだ。糸が四つの穴をくぐってノドを綴じている。四針眼訂法という和装本ではごく一般的な綴じ方だ。紙は楮で、薄緑に染色された表紙だけ、別紙で裏打ちされて強度をつけてある。表四、つまり裏表紙に印字された価格の上に訂正票が貼り付けられて、半額表示があった。ゾッキ本だろう。主に出版社が経営難で、大方は倒産して、在庫を安価で売る、その本のことだ。
奥付をめくる。発行日は二三○○年一月二十五日。十五年前に発行されていた。業界の慣例として奥付の月日は目安にしかならないが。
出版社は堀川書房とある。巻子本や和綴じで上質の本を出版することを旨としていた。出資者の事業が上手くいかなくなってからは一般からの出版や製本も請負っていたが、苦労の甲斐無く五年前に倒産している。
肝心の書名は──『シデコブシ』、副書名が『今を生きる古代植物』。
内容に目を通す。
この本が発行された当時、植物の復権運動があった。それを踏まえると、中身はなかなかに反朝廷的な内容でもある。
人間の搾取により変質した植物が出始めたとき、変質の原因も元に戻す方法も不明であり、人工の植物の研究が始まった。この試みは成功し、人は地上を捨てた。復権運動は旧来の植物の価値を認めようとする運動だ。主に変質した植物を受け入れよう、元に戻そうと考える者で、琥珀の両親も運動に参加していたと言える。
本の内容は、上記の考えから一歩推し進めて、まだ変質していない植物があるという主張だ。それが本の題名にあるシデコブシという木蓮の仲間である。日本の、それも限られた湿地にだけ生える低木で、希少種であり古代から生き残っているということから、これを手がかりに旧来の植物を元に戻していこうというのが著者の主張で、正しいのか素人目には判別のつかない引用や表が散りばめられている。
堀川書房は出資者が学者肌だったからこんな内容でも出そうと思ったのだろう。
一通り全ての頁を繰ったが、書き込みも折り目もついていない。
表紙を撫でた指先の違和感に、琥珀は小さく、そうか、と呟く。
「……これだな」
琥珀は懐から小刀を取り出すと、糸の結び目を解いて下閉じを切り、一枚一枚の紙をばらばらにする。印刷面を表にした袋とじの紙の裏を一枚一枚見るも何もない。
逡巡したが、そのまま表二、つまり題名が記された表紙をめくったところの、表紙を補強する裏打ちの紙を引き剥がす。
剥したところにはもう一枚紙が貼り付けてある。
それが、図書寮が追っているものであり、榛名諒が残したものだった。
*
君がこの文章を読んでいるということは、今、僕は死んでいるんだろうね。
再会の約束を守れなかったことをどうか許して欲しい。
僕は、この災害が起こるべくして起こることを、生みの親から示唆されていた。
父さんは失敗を危惧して、僕を木工寮に入れ、実験に携わらせた。強制ではない。
君が僕を救おうと努力してくれているのは痛いほど知っているし、災害の結果も予想
がつく。僕自身も、そうしたかったんだ。
結論から言うと、残念ながら現在まで機能や設備に問題が見当たらない。何か起こる
としたら実験当日になるだろう。僕は数多くの同胞と共に、最後まで浮遊都市に残る
ことになる。どんなに人間らしく振舞おうと、傀儡は人間の傀儡だ。贋物の心臓だ。
故に何が起こったか口では伝えられない。でも魂というものがあるなら、僕はきっと
自分に刻み付けてみせる。
小さい頃から努力家だった君の努力が、今度も実っていることを願っている。
それと、喧嘩したあの日に言えなかった言葉を言うな。
行って来る。今までありがとう。
君の願いが叶いますように。
*
「……故意……」
図書寮の交通制限も、俺が発掘するのを止めさせた理由も。
事故が故意の可能性、いや、可能性じゃない。ほぼ決まりだ。
両親を、事故で失った。
あの日の琥珀の業務は、閉架書架の図書の回収だった。返却期限を過ぎた図書を回収する作業は定期的に行われており、その日が琥珀の順番だった。都市を出る際には必ず正面入り口を通らなければならず、閉架から旅館への退館時にも、返却期限を過ぎたものは持ち込めない。一冊一冊の書籍は電子タグで管理されているため、借りっぱなしの書籍は放置されない。貸出期限を過ぎて届く督促状が無視された場合、書司が強制回収に行く。
大抵は訪ねて説明すれば返してくれるのだが、時々自分のものにしようとする連中もいて、今回も一件、書籍を持ち去って行方不明になっている利用者がいた。昼過ぎから捜索を始め、夕食時にはもう回収しているはずだったが、どこに行ったのかさっぱり足取りがつかめない。
実験前には家族と共に避難するつもりだったが、結局利用者を発見し、本を取り戻したのは翌日の午前二時、実験開始の時間だった。楼上から切り離された浮遊都市は、一旦浮かんだものの失敗、ゆっくりと墜落し〈壺菫〉にめり込んだ。あたかも巨大な月が落ちたように見えた。
そして──両親は行方不明になり、潰された実家の中から発見した。まさか落ちる可能性を考慮していなかったわけもないだろうに、避難していなかったのだ。だから余計、両親が死んだという意味を、ひと月経った今でも、まだ正しく理解できていない。
理解できるほど、正しく清い親子関係を築いてこなかったし、子どもよりも仕事に命をかけていた両親が、何も残さずにあっけなく死ぬ、なんてことは考えられなかった。研究資料と一緒に埋まるなんて、一見ありそうで、こんなに似つかわしくないこともない。両親の研究が反政府的で他人の協力をなかなか得られなかったことを加味すれば、余計に。
「どうしたんですか?」
呆然とする琥珀を、心配げな目が見ていた。
「これを」
渡された紙に素早く目を走らせて、芙蓉は自分の懐にしまい込む。
「君は、本当は……いや、ごめん。どうする? 探し続けるか?」
「成田さんを左遷させ、私を追い回すほどの何かがあるなら、であればこそ、やり遂げなければならないんです」
真剣な目をしていた。
「これは、遺言だけど。私は、まだ生きている可能性を信じます。発掘でも見つけてないですよね?」
「まだ見つけてない」
「私も、諒に言い忘れていた言葉があったの」
「うん」
「──行ってらっしゃい、今まで、ありがとう」
一瞬だけ悲しそうな顔をしてから、決意を秘めた顔で、芙蓉は琥珀の顔を見上げた。
「壊れていても、直すこともできます。事故がもし故意によるものなら。きっと、真相を掴んでみせます」
涙を拭った指先で刀を掴むと、彼女は、立ち上がった。
「その前に」
琥珀が待ったをかける。
「何ですか?」
「俺は辞令を受け取って来なきゃならないんだ。今朝異動が決まったばかりで、人づてに聞いただけだから。それまでここで待っててくれるかな」
「あ、はい」
「今日はゆっくり休むといいよ」
琥珀は重くなる口を、自身の動揺を悟らせないように、また不安を与えないように、できるだけ早く動かしながら告げる。
衣擦れと共に琥珀は立ち上がり、ぽんと強ばった肩を叩く。傍らに置いてあった黒繻子の書物を手に取る。唇が笑う。唇だけで笑う。
くるりと体を反転させ、大内裏へと向かった。
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