傀儡の森

有沢楓

第1話 序章 逆さまの月

 凍えそうな空気を切り裂いて、夜道を影が疾走する。

 霜を踏みしだく音と荒い息遣いの重なりを、男はずっと聞いていた。

 懐を探り、銀盤の懐中時計を月明かりに照らすと、既に午後二時を回っていた。

 二十分はゆうに走り続けたと思っていたが、長針は先程と角度を変えていないように見える。時計を懐に押し込み辺りを見回す。右手に、土製の築地ついじ塀に嵌った門があった。

 ためらうことなく寝殿造りの建物に入り込む。


 門から一番近い、牛車を止める車宿にくつのまま上がり込む。住居であるなら閉められるべき門にも、屋内と外を隔てるしとみにも、鍵はかけられていない。屋敷はひっそりと静まりかえっていた。ここだけではない。この都市の殆どの建築物が無人なのだ。だから一旦入り込んでしまえば、外からそうとは分からない。


 闇に紛れて別の建物を渡っていけば、と男は思った。渡って、追っ手をまいて、どれか一軒に駆け込んで、日の出まで隠れていればいい。夜が明けたなら始発の列車でこの都市を出よう。


 幾つかの部屋を駆け抜け、裏道へ続く部屋に入り込む。寝殿造りの常で、屋敷の中は扉の類が殆どない。脚はしばらく前から痛みを訴えており、挙動が粗雑になっていたから、音を必要以上にたてずに済むことはありがたかった。


 部屋を仕切る屏風の隙間を抜け、御簾を巻き上げて部屋を囲む廂に出る。この外を、蔀が仕切って、更に簀子と呼ばれる、高欄てすりの付いた縁側がぐるりと取り巻いている。

 蔀の一部――半蔀はじとみ――を上げ、隙間から周囲を伺った。廊下は塵一つ無く掃き清められ、左右に伸びた先は闇に消えている。


 飛び出そうとして、気配に気付いた。とっさに身を傍らにあった棚に隠す。

 足袋らしい足音が簀子を歩いて近づいてくる。足音は男の隠れている部屋に、当然はばかることなく入ってくる。足取りに迷いはない。

 自分の使い古された心臓の音までが聞こえてしまうのではないか。男はそうも思ったが、息を必死に詰め両腕にしっかと目的のものを抱える。まだ、まだ気付かれていないかもしれない。

 そんな微かな期待は裏切られる。


「隠れていないで、出てきてもらえませんか」

 足音の主が少年の声で呼びかけた。

「男と追いかけっこする趣味はないんです」

 袂から掴み出した紙片の束を指先でぴんと弾く。

「これが何だか分かりますか? 督促状ですよ、と・く・そ・く・じょ・う。失礼ですが、貴方の部屋の郵便受けから拝借しました」


 少年は辺りをぐるりと見回した。

 二十畳ほどの部屋の壁面は天井に届くほどの棚で埋められ、どの棚にも書籍がぎっしりと詰まっている。中央に四列、背中合わせの書架が並ぶ。


 督促状の束が書架の切れ目に投げ捨てられる。男から見える場所に、だ。

 男はかたい首を回して紙片を確認し、紙片に落ちかかった影に後ずさりをしようとするが、無情な声がかかる。


「ああ、逃げたって無駄ですよ。貴方にとっては迷路でも、俺には庭みたいなものですからね」


 白い足袋が目の前の床を踏み、狩衣姿の少年が現れた。開いた肩口から見える下の衣の色と、袖口を縫う色糸が美しい。今は色糸は動きの妨げにならないようにと引き絞られている。

 無造作というよりは、手入れのされていないに近い黒髪。年齢は十七、八歳くらいだろうか。男の半分も生きてはいないだろうが、平安時代より続く衣装の着用は──狩衣姿は公的機関の正式な職員であることを意味していた。


「早く返して頂かないとこちらとしても困ってしまうんですよ。貸出期限は一週間、というお約束でしたよね。罰は受けて頂きますよ。公共施設に土足で踏み込んだという点も含めてね」


 少年の薄く微笑む目が、屈んだまま後ずさりを始める男が抱えている物体に注がれる。


「さあ返して下さい。沓も脱いで頂きましょう」


 男はとっさに立ち上がり、それを振り上げて、少年目掛けて振り下ろした。風を切る、鈍い音。少年は二歩退いて一撃を避けるが、それは二、三度振り下ろされ、横に振り回される。


「おい。言っとくけど、それは図書寮ずしょりょうと国民の皆さんの財産なんだよ」


「誰にも、誰にも渡さない──やっと、やっと見付けたんだ、コレさえあれば私の研究は──」


 焦げ茶色の物体。それは硬い表紙にくるまれた本だった。背の部分に、持ち出し禁止を示す禁退出の三文字が燦然と輝いている。


「血迷ったか。外に持ち出したところで“散る”だけだ」


 対峙して初めて、男は声に怒りを含ませた少年が、もう片方の手に黒い本を下げていたのに気付く。黒繻子の表紙の本をぱらぱらとめくる。


「まさか、そんな、それは」

「まさかもなにもないけどね。ここを何処だと思ってる?」


 図書寮に所属する職員のうち、ほんの一握りしか存在しない書司しょじ


「中務省図書寮 大属さかん。一等書司成田琥珀。図書寮利用規程、閉架図書の扱いに関する注意事項の利用義務違反により強硬手段を執ります」


 本から該当の頁を探し当てる。


「520」


 本に挟まった紙片と、筆を抜く。

 紙片は、縦は三寸(九センチ)に足りず、横は四寸(十二センチ)余り、縦に二本、横に十本程度の線が入り、中央下部には丸い穴が開いているという奇妙なものだ。指で軽く曲げても折れない程度の厚さからすれば、正確には紙片と言うより札。

 札に、少年が何事かを書き付ける。


 男は逃げようと一歩踏み出して、足を滑らせた。床にごちんという鈍い音をたてて、膝を打つ。再び立ち上がろうと腰を浮かせたところで、踏み出したもう一方の足が勢いよく滑る。二度、膝をしたたかに打ち付ける。


 顔をしかめて床に付いた手の平が、あたかも油の上のようにずるりと滑り、手の平は空気を押し上げただけだ。かわりに勢いづいて、手首から二の腕までが床板に擦り付けられる。


「っ」

 男は声にならない声を上げた。


 上背に似合わずやや童顔の少年は、眉間に寄せた皺をゆるめ、手にしていた黒繻子の本を閉じた。にっこり微笑むと、尚も暴れる男の追撃を易々とかわし、顔面への一撃を受け止める。ひょいと手から本を奪う。


「これ、絶版なんだ。限定三千部の希少本。無下な扱いをするなよ」

 言いながら男のもう片方の手を取る。

「じゃあ、早く避難しよう。いくらなんでも、今日逃亡することはなかったのに」


 語尾に頭上からの地響きのような音が重なり、潜めた眉に皺が寄せられた。懐中時計を見ると、既に約束の時間を示している。


「まずいな、始まったか」

 男はびくりと身体を震わせた。

「始まったというと、実験がか?」

「そうだよ、もう二時半。四条のこの辺りだって油断はできない」


 少年は滑りながら歩く男を促して屋敷を出ると、空を見上げた。都市を覆う天蓋は既に外されており、本物のさやかな光の満月が浮かんでいた。気候制御の機能も外され、冷たい外気が足下をなめていく。


 よく見れば、満月の横にもう一つ、小さな鈍い銀色の月が並んでいる。銀色の月はだが、次第にその大きさを増し始めた。

 足が止まる。銀色の月が月光庭園の下腹だと、男も少年も知っていた。


 少年は空を見上げていた。地響きが、揺れが、轟音がそれに混じる様々な音をじっと聞いていた。砂埃とかすかな火薬や何かの焼ける臭いの混じる空気を、静かに吸っていた。


 月を見上げていた。

 ただただ、ずっと。

 月が大地に接吻するまで。

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