第5話

 アイラは一枚の書類を前に頭を抱えていた。側室の志願書類のうちの一枚である。


「頭が痛い」

「せっかくのいい男が描かれた紙切れを前にしてなぜ頭が痛くなるのですか、陛下」

「この名前を見て言っているのか」

「もちろん、このナタリアの視力に異常はありません。こちらの方は襲撃者から身を挺して陛下を庇った素晴らしい元近衛騎士です。ナタリアはあまり男性が好きではありませんが、この男性には感謝しています。陛下をお守りした世界一素晴らしい男性ですから」

「そうだな。問題なのは、なぜ彼が側室に志願してきたかということだ」

「いいではありませんか。彼は今指導係でしょう? 近衛騎士団長や副団長が側室に志願してきたわけでもないのですから」

「だが、あの怪我が原因で彼は指導係にならざるをえなかった。せっかく入った近衛騎士団で輝かしく出世できていたかもしれないのに」

「しかし、彼はちょうどいいです。だってもともと平民で先代からやっと男爵位となり、騎士となって陛下を守りそして今側室に志願だなんて! しかもですよ、側室に志願するということは陛下を少なからず慕っていたということでしょう! すぐに物語が一つ出来上がります。民衆は絶対に好きです、熱狂します」


 いつも男に厳しいナタリアが大げさなほど褒めたたえる。


「ナタリアは彼に甘くないか?」

「陛下の盾にもなれない男はみな無価値です。彼は一度盾になりました。それだけでこの世に存在するだけの価値があります」


 アイラは紙切れを指でつまんで持ち上げた。


 ナイル・コールマン。

 異母兄弟の仕向けた襲撃者からアイラを庇って腕を負傷した騎士。歴史的観点から言えば、つい最近男爵家となったコールマン男爵家の子息。


 アイラを庇った時の腕の怪我のせいで彼は近衛騎士としての一線から退いた。


「気になるなら呼んで話を聞けばよろしいのでは? 彼だけ呼ぶと他の側室志願者がうるさいならば陛下が偶然を装って会いに行くのもいいでしょう。騎士の指導係なのですから陛下が偶然通りかかっても不自然ではありません」


 しばらくアイラは悩んだが、休憩と称して散歩がてら会いに行くことにした。


 ナイル・コールマンは指導中ではなく、部屋で書類仕事を行っていた。アイラが開いた扉の前に立っていることに気付くと驚いて立ち上がる。慌てたのか机に足をぶつける音がした。


 褐色の肌に輝く金髪。護衛をしていた時は少し目立つと思っていたが、改めて対面すると綺麗な男だった。髪は指導係になってから少し伸びている。


「陛下」

「指導係というのはそれほど書類仕事があるのか」

「他の管理職の騎士たちは机に向かう仕事が苦手なので書類のチェックを頼んでくるのです。このまま提出すれば不備だらけです」

「そなたが抜けたらここは大変そうだな」


 思わず口にした言葉でナイルの目に若干の期待が宿った。アイラは自分の失言に舌打ちしたくなる。


「今日はそなたに質問をしにきたのだ。なぜ側室に志願した?」


 アイラは無意識に側室になれるような期待させてしまったことに罪悪感が湧き上がってきて咳払いしながら質問する。


「そなたは……私のせいで怪我をした。そなたの未来を閉ざしたのは他ならぬ私だ。側室に志願するほど何か困っているのか? 仕事を押し付けられているのか? 部下が言うことを聞かないのか?」


 罪悪感から思わず質問攻めにしてしまった。ナイルはイスを持ってきてくれるが長居するつもりのないアイラは断った。


「何か困っていることがあるなら言って欲しい」

「困っていること……でしょうか」

「バカにされていないか? 怪我が酷く痛んで仕事どころではないのか? 大丈夫なのか。正直に言って欲しい。咎めはしない」


 アイラはナイルが陰湿な嫌がらせを受けていると想定していた。怪我で使い物にならなくなった騎士は部下から舐められやすい。積んである書類も押し付けられたのかもしれない。部下が言うことを聞かずに訓練にならないのかもしれない。ただでさえナイルは爵位が低い方だ。舐められる。


「陛下とこうやってお会いするのは本当に久しぶりです」

「? そうだな」

「近衛騎士だった時は陛下にお会いするのは簡単でした。小指の爪ほどの大きさでしか陛下が見えないほど遠くからでも。しかし、今はそれもかないません」

「いいではないか。安全に過ごせる。私の周りは危険が多い。そなたは身をもって知っているはずだ」


 ナイルはゆっくり笑った。陰のある笑い方だ。アイラはさらに心配して口を開こうとした。


「私が困っていることは、陛下に会えないことなのです」

「は?」

「側室になれば陛下が会いに来てくださるかもしれません。他の男の元に行かれるとしても、ハーレムを歩く陛下を見ることができるでしょう。今の状況よりもずっと、ずっと可能性があります」


 ナイルはなぜか温度のある視線でこちらを見ている。アイラは言葉を咀嚼できなかった。しばらくして、ある可能性にたどり着く。


「そのようなおべっかは使わなくていい」

「陛下、私は嘘つきでも世辞が言える人間でもありません」


 あり得ない。そんなことはあり得ない。誰が私のような情けなく、そして時に残虐非道な女を好きになるのだ。ナタリアくらいか。そして、ヒューバート。

 だって、ナイル。お前の怪我は私のせいなのに。私が早く異母兄弟を処分していればそんなことにはならなかった。


「まさか。傷がそんなに酷く痛むのか?」


 その言葉にナイルは沈痛な面持ちになる。アイラはやっぱりと思った。仕事に支障が出ているから将来が不安で側室に志願したのだろう。側室になれば金は出る。アイラとの間に子供ができればアイラが退位しても年金がもらえる。

 アイラがそのように一人で納得していると、ナイルは笑った。


「陛下は勘違いをなさっておいでです」

「いや、そんなことはない。傷が痛んで仕事に支障が出ているのだろう? 将来の不安から側室に志願したのか」

「いいえ。私は葛藤しております」

「ふむ?」

「先ほど私は嘘つきではないと口にしてしまいました。ここで傷が痛むと言えば私は嘘つきになりますが、陛下がより私に目を留めてくださるので大変痛むと答えたくなります」


 なんなのだ、この男は。

 男爵家の子息なのに高位貴族のような回りくどい言い回しをする。


「では、痛まないのか」

「実は、寒い日にはまだ痛みます」


 アイラは責任を感じて少し視線を落とした。


「今この部屋で書類に囲まれて口にするとは思いませんでしたが……私は、陛下をずっとお慕いしておりました」


 予想もしていない言葉にアイラは顔を上げて目を瞬いた。


「お慕いする陛下をお守りできたことは私の誇りです。ですが、最近は陛下のお姿を見ることもかなわない日々でした。だから一縷の望みをかけて側室に志願したのです」


 耳まで赤くしてそんなことを話すナイルにアイラはただただ面喰った。こんな表情が嘘でもできるなら大した奴だ。女王としてのプライドでなんとか表情を管理して返事を絞り出す。


「そうか」

「はい。正直に、そしてこのような部屋でなんのロマンチックさもなくこのようなことを口にして陛下を困らせてしまい申し訳ございません」

「別に困ってはいない。咎めぬと約束した。そなたの事情が分かって、その、良かった。邪魔をした」


 アイラは最大限、威厳がある表情に見えるように頑張って部屋を出た。時間にして十分も経っていないはずだが会議を二本分こなしたくらいに疲弊した。


 どこが事情が分かって良かった、だ。激しく混乱させられただけではないか。アイラを混乱させて心に爪痕を残すのがナイルの目的だったなら、彼の目論見は成功している。


「いかがでしたか、陛下」


 執務室まで戻ると、ナタリアが早速すり寄って来る。


「信じられんが、ナイルは私のことが好きらしい」

「まぁ、うふふ。そうですよねぇ、ぐふふ。命はどうか分かりませんが、騎士としての未来をかけるくらいに彼は陛下がお好きでしょう」

「ナタリア、気持ち悪いぞ」

「陛下の顔が面白いです」

「驚いただけだ。やはり側室に支給される金目当てなのだろうか。何かに困っていないか裏を取ってくれ」

「その必要はないと思いますけれども分かりました。陛下は好意を示されることに慣れていらっしゃらないのですね。私がいつも重く示しているのに」


 アイラは振り返ってナタリアの頬を撫でた。


「私のことなぞ好いてくれるのは、ナタリアとヒューバートくらいだと考えていた。昔は王女、今は女王の権力に群がるだけだろう? 私を見てくれているのはナタリアとヒューバートだけではないか」


 ナタリアは目を細めてアイラの手を握り、馴れ馴れしい行動とは裏腹に恭しく重く頷いた。彼女の笑顔はアイラへの好意に溢れていて疑いようがない。


「ナイル・コールマンを側室に迎えますか?」


 いつも知的なナタリアが小首をかしげる姿にはギャップがある。

 アイラは少し考えてから頷いた。


「あの者は、ヒューバートが殺された日に護衛にあたっていた騎士の一人だ。入れる。加担していなくとも護衛のスケジュールを漏らした可能性もあるし、ナイル・コールマンが犯人でなくとも彼が側室にいれば他の騎士たちの情報も手に入りやすいだろう」

「陛下をお守りしたにも関わらず、彼を疑っていらっしゃるんですね」

「私はすべてを疑っている……彼は限りなく平民に近い生活をしていた。民衆受けもいいから入れておく」


 どうせ、私のことを慕っているなど嘘でしかないのだから。

 私は信じない、信じられない。どうして怪我をして将来を棒に振ってまで私などを庇うのだ。私が王太女だったからだろう。それ以上でも以下でもない。慕っているなど、ましては愛しているなど信じられるはずがない。

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