第16話 かのじょ

 彼女は『みえない怪獣』の絵ばかりを描いていた。

 熱心で、そればかりだった。はたから眺めていても、なぜか思うほど、その絵を、それも似たな絵ばかり描いた。

それで描く度に理由を訊ねた。答えいつも同じだった、微塵も変えない。

『怪獣がすきだからさ』

 その答えと笑顔、ふたつでひとつを返してくる。一度たりとも、笑顔がないときはなかった。

 彼女と知り合ったのは大学二年生の始まり頃だった。春で、よくある流れだった、知人の紹介という領域の出会い方。はじめてあったとき、いい印象を与えようとか、上手くやろうとした記憶はない。手応えのない出会いだった。それが、なんとなく付き合うようになった、同じ歳で、同じ学年。ただ、大学は別で、彼女は美大生だった。

『わたしは美大に通い、そして貴方は美大以外の大学に通っているという構図』

 自身で気に入っているのか、よくその言い方をした。

 なにが面白いのかは、けっきょく最後まで理解できなかった。適切な反応も思いつけず、いつも放っておいた。

 けど、いってしまえば彼女は放っておいても、自分だけで幸せになれるような人だった。しかも、自分勝手に生きても、ぎりぎり人の迷惑にならないし、不快さを与えない、そういう天賦に恵まれている人だった。顏は好きだった。最初からあの顔が好きだったのか、だんだん麻酔にかかったように気に入っていったのか。おそらく、後者の方だった。だんだん、好きになった。

 いつだったか、彼女はじぶんの顏を自己分析した結果を発表してきた。ときどき、そういうことを発表してくるので、発表攻撃と、心で名付けていた。

『ほんとは、じゅうぶんに魅力的だけど、自分の魅力には無自覚な感じ、って顏、してるでしょ、わたしの顔』

 あかるい発表攻撃だった。

 でも、いったいなにが言いたいのか、やはり、よくわからなかった。クラシックな少女漫画の主人公的な顏ということを言っているようにも聞こえた。いや、きっと、またどこかで拾って来た情報を、整理することなく、いますぐ自分の言葉として使ったりしたのだろう。そして、こうして使い、しくじっているのだろうと思われた。けど、しくじりをものともしない。

 そんなズルさも彼女の天賦だった。こちらにはない。

 あるとき、彼女はまた、とうとつにいった。

『まえにさ、貴方はわたしのことをこう言った、きみは、少しだけ当たりクジの遊園地みたいな人、だって』

 好きな絵を描きながら。

 みえない怪獣が町を破壊する絵を書きながら。

『というか、他の女の子にそんなこといちゃダメだよ』

 鉛筆の先を向けて言って来る。

 彼女の住む部屋での一幕だった。

 そして妙に上手いウィンクをした。本質的には何の注意なのか、もしくは他愛のないアドバイスだったのか、みきわめることが出来なかった。

 そんな彼女との日々は、急いで解く必要のない謎ばかりがひたすら生産されていった。ときどき、記憶から取り出してみては、眺め直し、解いてみようとしたが、だいたい解けないままだった。

 その謎について、

『それって貯金だよ、人生の貯金に値する』

 以前、素直に感じていたその話したとき、そう返された。

 どういう意味だろうか。その返しにより、また、急いで解く必要性のない謎が誕生した。謎は、彼女と一緒に入ればいるほど、つくられる。彼女といると、減るものほとんどない。いや、じっさいは何かが減っていたのかもしれないが、増えてゆく感覚の方が強すぎた。

 美術館へはよく出かけた。彼女がいつも美術館を選んだ。あちこちの美術館へ行った。近くから、遠くまで。時には、とおく、旅行もかねて行った。

 絵のことはわからなかった。ましてやアートのことはわからない。彼女は絵について、自発的に作品の解説はしてくれなかった。聞くと、教えてくれたが、専門用語は使わない。それに、どこか彼女が放った発言で、こちらが作品に抱く印象に影響がでないよう気遣っていた。

『人の作品を見るのは義務でね、自分で決めた義務というわけでして』

 あるとき、聞いてないのにそういった。

 なぜか、やや渡世人風に。

 人の作品を見に行った後は、たいてい彼女は自分の作品づくりに没頭した。わかりやすく人から影響を受けていた。描くのは決まって、あの『みえない怪獣』だった。『みえない怪獣』が破壊する。壊すは決まって廃墟だった。

『まだ生きている場所を壊すのはしのびない』

 そこに描かれる廃墟は実在する場所に限られていた。どれも、自分の肉眼で見た場所、立ち入った場所なんだと語った。廃墟を巡ることに夢中となっていた時期があるらしい。

『なぜハマっていたのか、きっと若かったからだと思う。いまは少し違うけど、若さも少し失ったし。でも、その頃のわたしにあれに魅力を感じたのは真実。じゃあ、どんな魅力を感じたかって、言葉で説明しても、どうかなぁ、いまは、たぶん誰だって言えるような言葉にしかならないと思うからやめとく。ボンヨウな語りになる気しかない。無理にがんばって、誰もやったことのない言葉の表現で説明はしないの』

 時々、饒舌になる。話ながら、彼女は自身のほんとうの部分を見つけだろうとしている気がした。その証拠に一生懸命に話していた。ただし、本人は気づけていない。無意識のうちに、全力で走り出しているに近しい。

『でも、なにか感じたのは、かくじつなんだ。あったんだよ、アレにはかくじつになにかあって、それがまだ自分なかにあるから、描いてるのかな。あー、それか、もしかすると、せっかく調べてわざわざ多額の交通費をかけていろいろ見にいったんだから、無意識にもと取ろうとろうとして作品にしてるのかも』

 後半部分は安定剤めいた発言だった。もしくは、時間とお金の浪費の正当化だった。

『そう、たかが小銭のために』

 そして、自分で思いついて気に入ったのか、決め台詞のようにそういった。

 じつに面倒な人だった。そばにいると苦笑が絶えない、会う度に、あたらしい種類の苦笑を与えてくる。それでも苛立ちはおぼえたことがない、一度もない。どれも彼女の天賦の才能に思えた。動物園のひそかな人気生命体のように。とにかく、最初からその動物に生まれ落ちたゆえの人気、というズルさがある。そして、観ている方はそうやって、わざとややっこしい表現で誰かに説明したくなる。そういう、じつに面倒な人。

 彼女の声を聞くのが好きだった。明るいときでも、暗いときでも、彼女の声を聞くのが好きだった。

 彼女はいったいなんだったのか。いつだって考えていた。いまでも考える。だが、考えると、どうやっても過去を思い出すことになる。

 ある日、彼女は亡くなった。大きな災害のなかで起こった不幸だった。同じ災害で他にも多くの人が亡くなった。

 彼女は消えてなくなった。大学卒業後のことを、ふたりで話し合っている時期だった。けど、これまで想像していた未来とは、違う種類の未来を迎えた。どうしてばいいのかわからず、茫然とした。

 そして思い出す。

『いや、どうせ、わたしは絵さえ描ければ幸せだし』

 ある日の彼女の話しを思い出す。すがれる場所を探して思い出す。

『かりに、もしかりにだよ。私が絵で成功しても、しなくても。いやいや、とうぜん成功したい、成功する気だ………って、じゃあさ、その絵で成功ってどういう状態なんだね? ってー、定義の論争はおいといてね。なんていうか、わたし、いつも絵を描いてて、だんだんできあがってきて、完成まぢかになると、無条件で幸せになってくるんだよね、おお、いけるいけてよー、って。今度は辿りつけるはずだ、って思えてくる。まあ、いざ完成すると、おや? はて? あの幸せはなんだったんだ? ってことばかりだけどね。でも、そんな安上りで都合いい生物だよ、わたしなんぞはね』

 安価な便利雑貨でも話すように自身を紹介する。

 絵は描かないし、なにもつくりださない。それを、きかされても同じ体験がないので理解はできなかった。

 だが、自分のたぐりよせた言葉で話し、笑ってみせる彼女をまえにすると、彼女が笑うなら、そうなんだろうと思うだけだった。

 けど、彼女がいなくなってしまった、災害で。災害で彼女が亡くなったと知ると、他の人は、最後はどんな感じだったのか、それを知りたがる人は多かった。どうも、大きなニュースになるような、名のついた災害で亡くなった場合、その死の方について、好きにきいていいものだと思っているらしい。とにかくなんでも聞いてくる、そのとき君はどこいた、彼女と最後に会ったのはいつだった。いま悲しいか、もう悲しくないか。たくさん、きかれた。

 彼女と同じ大学の仲間たちが、彼女が残した絵で個展を開くことをしたのは卒業間近のことだった。仲間同士でカンパを募り、町の小さなイベントスペースで、彼女の残した絵で個展を開催した。彼女が多く描き残した『みえない怪獣』が廃墟を壊す絵を並べて飾った。初日にはいかなかった。最終日の夕方に行った。

 彼女はずっと『みえない怪獣』を描いた。繰り返し、繰り返し、同じテーマで描く。似たような絵ばかり描いて楽しいのか、そう思っていた。その絵を描くとき、よく隣にいた。だから、その絵たちを知り過ぎていた。だが、はじめて壁に並んだ状態で絵を見た。一枚一枚ではなく、描かれた多くの絵を同時に目にした。

 彼女だ、と思った。

 彼女の絵に囲まれた空間に立ち、とにかく、彼女だ、と思った。

 それは絵を見た感想としては、きっと、それはおかしなものだった。ただ、この絵は、絵たちは彼女なんだ、と思った。

 そのあたりまでで、彼女との想い出は最後になる。扉は閉められてゆく。彼女との新しい思い出は生産されない。そこからさきは、都合よく記憶を捏造するしか手がない。

 けど、みっともないのは嫌だった。だからあとはニヒリズムに頼るぐらいしかなかった。

 ショウと出会ったのは、彼女の個展会場だった。いや、正確には出会ってない、同じ時、同じ空間にいて、同じ絵の前で、すぐ隣に立っていた。

 目立つ男だった。他者の目を無差別にひく。性別に関係なく、その場にいた半分以上の人間は、絵よりも先に彼を見る。

 嘘みたいに優れた外貌だった。いつの間にか自分の隣に立っていた。そしてひとときの間、一枚の同じ絵を見ていた。

 彼女が最初に描いた『みえない怪獣』が廃墟を破壊する絵だった。真実、ショウがそばに立っている間は、彼女のことを忘れていた。

 なんだこの人間は、その外観に、かつて体感したことにない衝撃さえ受けていた。

 ふと、ショウが壁にかけて展示してあった彼女の絵へ両手を伸ばした。額の端を両手でそれぞれにつかみ、ゆっくりと壁から外した。あまりにとうぜんのような動きだったので、じっと、見ていた。いや、動けなかった。体験したことのない存在感のせいか、脳が、目の前の光景を、現実としてうまく処理でいなくなっていた。

 ショウの横顔はよくおぼえている、笑んでいた。彼女の絵は、ショウに手のなかで、好きに愛でられていた。

 気づくと、ショウの姿は会場から消えていた、絵もなくなっていた。

 ああそうか、飾っている絵は売られてしまうのか。

 と、その場では思うようにした。そうか、売っているんだ、だからか。売られているのか。いま遭遇したその体験を、なんとか理由をづけて現実へ落とし込もうとした。違和感はあった。でも、ひたすら自分を納得させようとした。違和感をないことにした。会場にいた関係者にその有無を確認まではしなかった。

 当然、いまにしてみれば、許しがたい機能不全だった。心を何かに仕留められていた。そして、その場で戦うという発想はまったく生み出せなかった。そうか、売られるのか、売るなんて、惜しいよな、でも、そんなものなのかもしれない。じぶんで勝手に決めた世界に、ただ準ずるように落ちていた。

 それから三か月後だった、最初の怪獣ショウがネット配信を通じ、世界中に披露された。

 みえない怪獣は、彼女が最初に描いた絵の場所へ現れた。ショウが会場で手にした絵の廃墟だった。ショウは、そこへ、みえない怪獣を出現させ、破壊させた。

 実際に怪獣ショウの存在を知ったのは二回目が終わってからだった。ネット上のニュースで取り上げられていた。ショウと名乗る青年の顏、姿が作者として掲載されていた。

 顔は完璧に覚えていた。この男は実在したんだと思った。あれは幻ではなかった。

 だとしたら。と考え、急いで彼女の絵を確認しようと思った。無い勇気をつかって、彼女の実家へ連絡をとった。彼女の親と話すのはその時がはじめてだった。彼女が生きている間、会うことを避けていた。こわかった。彼女はいいよ、会わなくて、それでも平気だといってくれた。

『まあ、きみが、ビビりながら、うちの親と会う姿はみたいけどね』

 ともいった。

 彼女の母親に会って、から話をきいた。それから個展を開いた彼女の友人たちの話をきいた。

 そして、わかった。

 個展が終わってから彼女のすべての絵が行方不明になっていた。

 そしてそのことを知っている者は誰もいなかった。

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