旅立ちと決意
カトマンズ空港に降り立った瞬間、遠くにあるヒマラヤ山脈の壮大な眺めに心を奪われた。
『まず自分が何者でもないって認めるために、旅に出るんだ』
今の沙羅には家族もいない。
学生時代の辻村の言葉を思い出している。何者でもないというのは、自由で孤独なことなのかもしれなかった。
リュックサックと小さなスーツケースひとつ持って、騒々しくて活気がある街に向かって歩き出す。けたたましい車のクラクションの音。スパイスやお香の香り。ストリートを飾る色とりどりの旗、そして壁画。
全てが鮮烈で、そのまぶしさに目を細めた。
──私が今まで悩んでたことって実は小さいのかも。
突発的に日本を飛び出し、この未知の世界に圧倒され、同時に胸を躍らせている。
にぎやかな街並みを歩く足取りが少しずつ軽くなっていく。
美味しそうなスパイスの香りにつられて、小さな地元の食堂に入る。シンプルな内装で壁には色々な写真が飾られていた。
ネパール語のメニューが読めなくて、適当に注文すると豆のスープと野菜のカレーが運ばれてきた。しっかりスパイスの効いたカレーは、頭をスッキリさせてくれる。
異国の地の日常は、落ち込んで弱り切った心に活気を与えてくれた。
食事を終え、カフェで口コミを見て、女性一人でも安全そうなホテルを探していると、突然日本語で声をかけられた。
「ちょっと! 後ろ!」
「えっ?」
振り向くと、男が沙羅のリュックに手を出していた。慌ててリュックを引き戻すと男は去っていった。
「ぼんやりしてたら盗まれるよ」
「ありがとう」
二十歳くらいのショートカットの女の子で、日焼けしていかにもバックパッカーですといういでたちをしている。
「旅、慣れてないの?」
「あ、うん。実は一人で海外は初めてで。しかも今朝思い立って来たの」
旅の達人のような雰囲気の女の子だから、沙羅が慣れていないこともわかるのだろう。
「どこに行きたいとかも決めてないの?」
「全然。今から考える。ホテルも」
「へぇ。そういう行き当たりばったりの旅をする人に見えないなぁ」
「ふふ。当たってる。ガラにもないことをしてみたくなったの」
人懐っこい女の子はユカと名乗った。バイトでお金を貯めては、旅に出るのだという。そういう行動力が自分にはないし、日本では知り合うことのないタイプだから、面白くて話が弾んだ。
「なんか日本にずっといると、息が詰まっちゃうんだよね」
「若い女の子の一人旅ってご両親心配するんじゃない?」
一回り年下の女の子だから、つい沙羅も心配になる。大人の自分だって心細いけれど。
「うん。でもどんなことしてたって、親は心配するものだよ」
「まぁそうだけど」
「中学から学校行ってなくて、家にずっといた時期もあるから今は好きにさせてくれるんだ」
「へぇ」
皆色々あるのだ。簡単に言えないことを抱えながらも、笑顔でいる人もいる。
「見て。聖地を回ってるの」
ユカは一眼レフを取り出して、今回の旅で撮った写真を見せてくれる。
夕日に染まる寺院が美しい。
「いい写真」
「でしょう。沙羅さんはどんなところへ行きたい?」
「うーん、決めてない。っていうかこの国のこと全然知らない」
「びっくり。むしろどうして来たの?」
「学生の時、好きだった人があちこち旅をしていたのを思い出して、私ならやらなそうなことをしたくなったの」
「ふぅん。そういうのって人生の転機によくあるよ」
「そうかな」
「予定がないなら袖振り合うのも多少の縁で、今日は一緒に回ろうよ。私明日帰国するの。ホテルもまだなら相部屋で安くなって助かるし」
思いがけない出会いだった。自分とは全く別の人生を歩むユカと旅を共にするのはとても魅力的だった。いつもならやりそうにないことがしたい。
「行く」
「決まり。じゃ、今日はパシュパティナート寺院に行こう」
夕闇が迫る中、ユカと古い路地を抜け、目的地へと向かう。
バグマティ川の川岸にある寺院は巡礼者が多く訪れるネパールの聖地だった。日が落ち切ると、ランタンに照らされた寺院は幻想的な美しさで沙羅を魅了した。
中庭から、僧侶たちが祈りの声が聞こえてくる。
沙羅は、その場の雰囲気に圧倒されながら、ユカの隣で静かに目を閉じ、祈りに耳を傾けた。
ふと見ると川でなにかを燃やしている。
「あれは?」
「火葬場があるの。焼いたら川に流すんだ。輪廻転生を信じて」
そう言って一人で川のほうへ歩いて行ってしまう。
ユカが首につけている小さなネックレスを外した。よく見るとガラスの小さな瓶で、中に白い粉が入っている。
蓋を開けて、その中身を川に撒いた。
流れていく川の水をユカは、静かにただじっと見つめている。
なんだか声をかけてはいけない気がして、黙ったまま見守る。
ホテルに戻ったユカがポツリと呟いた。
「さっきの白い粉、元カレの骨なんだ」
「うん」
特段驚かなかった。こういう場所ならなにが起きてもおかしくないようなそんな気がした。
その悲しげな横顔を見守り、ユカはもしかして、誰かに傍にいてほしかったのかもしれないと思った。その誰かになれてよかったと、そう思った。
「私が学校行けなくなった時に、ネットで知り合ってずっと付き合ってたんだけど、病気で死んじゃったんだよね。あんまり寂しくて、火葬場から戻ってきた時に少し失敬したの」
「そう」
「引かないんだね。沙羅さん常識人なのに」
ユカにとって、弔いの旅だったのだ。
「彼は色々な国に行きたがってた」
どうしようもなく不器用で見方によってはグロテスクな行為でも、沙羅は咎める気になれなかった。
「常識的に生きてたら幸せかっていうとまた別だから。そこまでひたむきに愛されて、彼も幸せだったと思う」
それは本心からの言葉だった。ユカの一途な愛に救われることもあっただろう。
「病気がちで、あまり遠くに行ったことがなかったから、どこかへ行きたいっていつも言ってたの」
「ネパールに連れてこれてよかったね」
「そーかな。独りよがりじゃないかって、迷いはあった」
「正しさだけを守って生きるには、私たちの人生は短すぎるのよ」
「ワオ! 大人みたい」
「大人ですから」
そう言って二人で笑った。こんな独特の楽しい夜はなかなかない。
「沙羅さんが旅したきっかけは?」
「夫に不倫されて、自分も不倫して、母が亡くなったの。色々道を踏み外してここにいます」
「はー。人生色々だ」
「まぁでもちっちゃい気もするな。私の悩みなんて」
「うんうん。そうだ。人生なんとかなる。私も帰ったら現実に戻る。またぱーっとどっかに行くとは思うけど」
ネパールの旅が終わったら日常に、現実に戻るのだという。将来は不登校や引きこもりの子を支援するNPOで働きたいと言うユカを心から尊敬した。
たくさんのことを話して、おしゃべりしながら眠ってしまった。
翌朝、帰国するというユカにまた日本で会う約束をして別れた。
一人に戻ると少し、いやかなり心細い。知らない場所は苦手だ。
あと二日。どうしても見たいものがあった。
辻村が昔見せてくれた沙羅双樹の花の写真は、散ったあとのものだった。どうしても咲いているところが見たい。季節的にはギリギリ見られそうだった。
けれども、たった一日しか咲かない儚い花。出会えるかどうかは運次第だった。
敢えて調べず自分の足で探し歩く。行き当たりばったりだから当然すぐに見つかるはずもない。やっと見つけても、散ってしまったばかりだったことも何度もあった。
長い石畳を歩き、時には山道を登る。日差しは強く、汗ばむ肌に埃がまとわりつく。でも、そのすべてが、自分に必要なことに思えた。
それでも、諦めずに歩き続けた。市場の喧騒を抜け、静かな寺院の回廊を彷徨いながら、色々なことを思い出す。
両親のこと、誠のこと。そして辻村とのこれから。
──私は一体なにを望んでいるんだろう。
もう少しで自分の心に届きそうな気がした。過去を振り返り自分が本当はなにを望んでいるのか考えた。
それこそ足が棒になるくらい歩き回って、そして考えた。
三日目。日本へ帰る日の朝。
もう駄目だろうなと思いながら、最後にと立ち寄った寺院の片隅にそれはあった。
「咲いてる……」
沙羅は息をのんだ。まるで時が止まったかのようにその場に立ちすくむ。
小さな淡黄色の小さくて可愛らしい花。夕方には散ってしまうのに、そんなことは関係ないとばかりに気高く、美しく咲き誇っていた。
その小さな花びらの一つ一つに、自分の過去の断片でも見ている気持ちになった。
「やっと会えた」
そっとその小さな花弁に手を伸ばす。柔かな手触りに、心に抱えていた葛藤から解放されるような気がした。温かい雫が頬を伝う。
どんな生き物も、植物も終わりがあるからといって生きることを拒んだりしない。皆刹那を精一杯生きている。
自分の名前が嫌いだったこともある。父を憎み、夫の裏切りに気づかないふりをして、辻村の好意に甘えていた日々。
たとえ、終わりがあったとしても、全てが嘘だったわけではない。
人を許すこと。自分を許すこと。信じること。その難しさを知りながら、心の中で決意を固める。
移ろいゆく時を誰かと共にいたいと願い、愛することを諦めたくない。
空港についてから、辻村に電話をかけた。何度かメッセージが来ていたけれど返信できずにいたのだ。きっと心配している。
「もしもし」
「連絡が取れなくて心配してた。どこにいるの」
「ちょっとネパールに」
電話ごしに驚いているのが伝わる。
「ちょっとって距離じゃないでしょう」
「辻村さんも、ちょっとアフリカ行ってくるとか昔言ってましたよ」
「そうだっけ。いつ帰るの。そっちへ行こうか?」
ちょっとの距離じゃないと言いながら、フットワークが軽いのが彼らしい。
「いえ。今から帰ります」
成田空港に到着すると、辻村が迎えに来ていた。沙羅を見ると、駆け寄ってすぐに抱きしめる。
「なんとなく、もう会ってくれないんだと思ったよ」
「少し、考えたくて」
「また裏切られるのが怖い?」
「怖い。でももしあなたがフラフラしてたらちゃんと喧嘩する。ほかの女性に惹かれたら取り戻す」
「変わったな。沙羅」
「もう逃げない。好きな人を手放したくない」
たとえ失ったとしても、この瞬間の気持ちは本物で、嘘になるわけではない。辻村ともどうにもならない別れが来るかもしれない。
ずいぶん遠回りをした。また失敗するかもしれない。それでもいい。
今ならまっすぐな気持ちで言える。
「私にはあなたが必要なの。これからも傍にいてください」
無言のまま強い力で抱きすくめられる。
辻村の肩越しに、空港の外にある空が見えた。
夕焼けの中、飛行機が滑走路から離陸し、空高く上昇していく。オレンジの光を浴びながら、飛行機は自由な空の向こうへと飛んでいった。
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