さよならの向こう側
離婚が成立して、数日後。
「私、離婚しましたので苗字が変わります。飯村沙羅になりました」
一応職場の皆に報告すると、パートの一人が明るく声をかけてくれた。
「おめでとうっ!」
あまりに本心からよかったねという言い方で、思わず笑ってしまった。
「おめでとうは不謹慎じゃないですか?」
別のスタッフが眉を顰めたが、沙羅は嬉しかった。
「いえ、再出発なのでおめでとうって言われて嬉しいです」
今時離婚なんて珍しい話でもないが、やはり話すのは勇気がいる。
納得いかない義両親への説明や、金銭面の整理など気が滅入ることが続いた。
誠と暮らしたマンションを出る時、新しい部屋は借りずに母のアパートから病院と職場を行ったり来たりすることにした。
片道電車で2時間かかるので、体力的にはだいぶきついが、一人暮らしだから家事もたいしてすることがないし、しばらくこの暮らしを続けるつもりだった。
「泉さん、じゃなかった飯村さん。ちょっといい」
マネージャーの高梨ナナに、こっそり声をかけられる。仕事のできる美人なキャリアウーマンで、社内では辻村の恋人だとも噂されていた。
「なんでしょう」
「ね、離婚の原因って辻村さんじゃないわよね」
「……違います」
直接の原因ではないけれど、無関係とも言い難い。全て見抜くような目で見られ委縮する。
「そう。プライベートは別に構わないけど、辻村さん今雑誌とかテレビの取材とかも受けていて、まるきり一般人ってわけでもないのよ。だから変な噂が立つのは避けてね」
最近世間で、不倫──特に有名人の不倫は犯罪の如き扱いで、ともすれば全てを失うこともある。一般人の誠や麗香も失ったものは大きかった。
誠も来年から北海道にある支店に左遷されることになった。麗香は心を病んで仕事をやめて実家に帰り療養しているらしい。
「はい。お店や辻村さんにご迷惑をおかけするようなことは決してしません」
来年から海外にも支店を出す関係で、辻村はこれまで以上に多忙になる。母の看護を続けながら、会うのは難しくなる。
沙羅が一人身になったことで、逆に今後は疎遠になるような気がしていた。
[沙羅、会いたい]
最近はイベントで全国を飛び回っている辻村からメッセージが届いた。
辻村とは離婚してからきちんと話していない。
これからどうしたいのか、自分でもわからずにいた。
──またうまくいかなくなったらどうする?
自分との関係は、一時的なもので、いつか彼にふさわしい女性が現れるのではないかという思いもぬぐえずにいた。
自分自身もう結婚なんてこりごりだった。
結局のところ、離婚という大事件で傷ついた心は、回復していなくて、全身ギブスで新しいことに挑戦していいのか。
今年で33歳になる。悩んだり迷ったりしているうちにあっというまに年を取ってしまうものだ。
勢いだけで行動できる年齢でもない。
自分にとっての幸せがもうわからなくなっていた。
☆喪失と自由
離婚して三か月。母の容態が急変した。
仕事を早退し、駆け付け、なんとか看取ることができた。
驚いたのは、お通夜に別れてから会ったことのなかった父親が現れたことだった。すっかり痩せて年齢よりもずっと年を取って見えた。
「一人で大変だったな」
その言葉にひどく感情を乱された。そうさせたのは、父親だ。まだ心の中で処理しきれない苦いものがたくさんあった。
「私の役目ですから」
もう自分の父親ではなく、他人だ。自分の中にいまだに父に捨てられて傷ついた少女がいる。結婚に失敗し、唯一の肉親の母まで喪ってしまった。
「なにもできなくて、悪かった」
そう言って父は香典とは別に沙羅に分厚い封筒を渡し、線香をあげて帰っていった。
見ると中には50万円ほど入っていて、それが今父親にできる精一杯だったのだろうと思うと複雑な想いに駆られた。
あとから親戚に、父が今一人暮らしをしていることを聞いた。詳しい事情はわからないし、聞きたくもないが、あの寂しい背中を見るとなんとも言えない気持ちになった。
お通夜と葬儀を終え、狭いアパートの部屋に一人帰ると、猛烈な孤独に襲われた。
辻村とは、彼の仕事が多忙になったことや母のことで離婚以来ほとんど会っていない。そんな気持ちになれなかったというのも大きい。
また同じ苦しみを繰り返すかもしれないと思うと、もういっそ一人で生きたほうが楽に思えた。
葬儀にかけつけてくれ、そのあと求婚された。来年から仕事でフランスと日本を往復する暮らしになるからついてきてほしいと。
『こんな時に言うことじゃないのはわかってる』
『今はそんなこと考えられません』
『まだ心の整理がつかないのはわかってるけど、待つから』
『私、結婚なんてこりごりです』
『遠回りしたけど、俺は沙羅と一緒に生きていきたい』
『少し時間をください』
母のことで、出社が難しい時は、テレワークでできる仕事を回してくれて、沙羅を支援してくれた。
恋人だからそうしたわけではなくて、普段から従業員の私生活にも極力配慮して経営していた。
そういうことができるのも商才があって、経営資金に余裕があるからだ。
結局、辻村の好意に甘えていた。けれど、もし辻村の愛情を失ったら、どうなってしまうのかと思う。
──これからのことなんて、考えられないよ。
徐々に回復しているように思えても、根っこにある人間不信は簡単にはぬぐえない。
一人ぼっちの部屋は、静かすぎて、怖くなってテレビをつけた。
画面には、ネパールの旅番組が映っている。壮大な山々、雄大な川、青く澄んだ湖、そして広がる緑の森林。
ぼんやりと見つめているうちに画面に引き込まれていく。
学生時代、あちこち飛び回っている辻村が自由でまぶしくて羨ましかったことを思い出す。自分は自由ではないような気がずっとしていた。
けれど、それは本当なのだろうか。自分で自分を縛りつけていただけではないのか。
──私はもう自由なんだ。
夫も母も、もういない。あるのは、落ち込んで元気をなくした心。
──行こうと思えばどこだって行けるんだ。やりなおしたい。リセットしたい。この泥濘から抜け出したい。
沙羅はおもむろに起き上がり、引き出しからパスポートと父親がくれたお金を出す。
「よかった。有効期限切れてない」
仕事は忌引きで一週間休んでいる。今しかない。
スーツケースを取り出し、一心不乱に荷物を詰めていく。スマホから航空券を予約して、空港へと向かった。
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