修羅場

「送るよ」

「駄目。人に見られたらまずいもの」


 すでに結婚生活が破綻している自分はともかく、独身の辻村に悪い噂が立つのはまずい。辻村の申し出を断り、彼の部屋を出ると、マンションの前に誠の車があった。


 どうしてこの場所がわかったのか、息が止まりそうになる。沙羅を見て、誠が車から降りてくる。


「辻村のところに行ってたのか?」

「どうしてここに……」

「どうしてだろうね」


 どんな手段でこの場所を調べたのか、恐ろしくなる。自分が愛し、信頼していた誠はもういなくなってしまったのだろうか。


「私……もう一緒に暮らせない」


 夫の不貞を責める資格は沙羅にはもうない。離婚に応じてくれなくても、出ていくことは決めた。

 しばらく母のアパートでもいい。とにかく離れよう。

その場を去ろうとすると、後ろから冷たい言葉が降ってくる。


「昨日、あいつと会ったよ。殴ればよかった」

「やめて、そんなこと」

「俺が先に浮気したから寂しかっただけだろ?」

「……」


 自分でも本当のところはわからない。


寂しいから、辛いから辻村を頼っているだけなのだろうか。

自分が感じている愛情は、ただの思い込みなのかもしれない。


少なくとも誠の不倫がなければ、好意を抱いたとしても一線を越えることはなかっただろう。けれど、体を繋げてから自分が辻村との関係にどんどんのめりこんでいることは確かだった。


「俺はただの遊びだった」

「だからなに? 遊びなら私が傷つかないと思った?」

「男と女は違う。俺のはただの仕事の憂さ晴らしだよ。沙羅も寂しさにつけこまれてるだけだよ。むこうは遊びだ。独身で金もある。人妻相手に本気になるわけがない」

「……これ以上あなたを軽蔑させないで」


 意図的に沙羅を傷つけようとしている。裏切った側の誠が今裏切られた側となった。その怒りと絶望を間近に見る。

 もうなにもかもが遅すぎる。


 結婚した時は、この人が自分を傷つけることはないとなんとなく思っていた。それは若さゆえの傲慢さだったのかもしれない。

 沙羅だって、ほかに好きな人ができるなんて思わなかった。


「今週中には出ていくから」

「沙羅! 話を聞いてくれ。俺は麗香とは別れた。沙羅も別れてくれ。今ならまだやり直せる」

「イヤ。辻村さんと別れてもあなたとはもう暮らせない」

「俺は離婚はしない。出ていくなら取り戻しに行く」


 誠が意地になっているのがわかる。どうしてこんなことになってしまったのか、もつれにもつれた感情の糸で互いに身動きができなくなっている。

 わかっているのは、このままだと皆不幸になるということだけだった。



☆修羅場 誠視点


 

 自分がどんどんおかしくなっているのがわかるのに、どうにも止められない。

 仕事もはかどらず、大きなミスをした。自分の妻が奪われたと思うと夜もろくに眠れなくなった。

 もうすぐ出ていくという沙羅にかける言葉も見つからず、ただ漫然と時を過ごしている。沙羅は着の身着のまま母親のアパートへ行ってしまった。


「泉さん、顔色悪いですよ」

「悪い……早退する」

「余計なお世話かもしれないけど、あんまり思いつめないほうがいいですよ」


 社内不倫については、人事からなんらかの処分が下るはずだが、そんなことはどうでもよかった。いくら出世したり仕事で成功しても、安らげる場所や守る人がいなければ無意味だと今さら気づく。


 沙羅が不妊に悩み始めた頃、ちょうど仕事もうまくいかず色々なことから逃げたかった。不倫という一時の快楽は麻酔によく似て、日常の憂さを忘れさせてくれた。

 沙羅や、生まれてくるであろう子に苦労させたくないとがむしゃらに頑張っていた時期もあるのに、いつから自分は道を間違えたのか。


 仕事に忙殺されて、荒んだ時期に麗香を逃げ道にしてしまった。


 ──沙羅とちゃんと向き合えばよかった。


 電車に乗り、ふらりと沙羅の職場に向かう。

 外から見ると店の中で忙しそうに動き回る沙羅がいた。充実した様子を見て、今の自分との落差を感じて辛くなる。もう長いことあんな笑顔を家では見ていない。


「こんにちは」


 振り向くと辻村がいた。


「なにかご用ですか」


 余裕のある顔に殴りかかりたい衝動を必死で抑える。


「妻の様子を見に来ただけです」

「そうですか」

「……いい度胸だよな。しれっとした顔して」


 こいつを訴えてやれば、争い嫌いの沙羅は別れるかもしれない。だが、そんなことをしても沙羅の心は戻るまい。行き場のない感情が、大切だった人を傷つけることばかり考えさせる。


「誠……どうして」


 沙羅が二人に気づく。辻村が沙羅をかばうように、間に入った。守っているつもりかと、余計に怒りが込み上げる。


「少し男同士の話をしているだけだから」


 沙羅を店内に戻すと、辻村は誠を近所の喫茶店へと誘った。


「自分の立場をわかってるのか」


 妻を奪った男が目の前にいて、冷静でいられるわけがない。怒りと憎しみで我を失いそうだった。


「わかってますよ。殴られても訴えられても仕方がない」

 

 誠と違って、辻村は冷静そのものだった。殴ろうが訴えようが、おそらく動じないだろう。


「母親が倒れた時も沙羅はあなたに連絡しなかった。なぜだかわかりますか」


 麗香といた時のことだ。


「弱ってる沙羅につけこんだのか」

「ええ。でもあなたの浮気と違って、自分は沙羅に本気です」

「よくそんなことが言えるな」

「あなたが大切にしていたら、こちらがつけこむ隙なんてなかったはず。あのとおり身持ちの固い女性ですから」


 思わず拳を握りしめ、悔しさに耐える。


「長いこと一緒にいたんだ。簡単に別れるなんてできない」

「沙羅が争いごとが苦手なのを逆手に取るのは卑怯だ」

「あんたはただの間男だろう。出過ぎたことを言うんじゃない」

「立場はどうであれ俺は沙羅を傷つけたりしないつもりだ。法も戸籍もどうだっていい。訴えるならどうぞ。金で済むなら、話が早い」

「あんただって、長年一緒にいたらどうなるかわからないさ」

「ぜひ長年一緒にいて証明したい」


 挑発的な言葉を顔色一つ変えずに話す辻村とこれ以上話したら、殴りかかってしまいそうで、無言で店を出る。


 街で幸せそうなカップルが目に入った。初めてデートに誘って、OKを貰った時は嬉しくて、沙羅の笑顔が見たくて必死に頑張った。

 仕事を頑張ってきたのも、よい家庭を築くためだったのに。

 目的と手段がごちゃ混ぜになり、大切なものがいつしか見えなくなっていた。

 


☆全てを壊したい ※麗香視点



 ──あれから何日経ったんだろう。


 麗香は会社を休職し、一人で部屋に籠っていた。

 皆川は麗香の両親にも婚約を破棄する理由を伝え、厳しい両親はそれに激怒し、帰る居場所すらなくなった。

 皆川は金銭目的ではないと言いつつ、けじめとして慰謝料と婚約指輪、式場のキャンセル代を要求してきた。


 支払わなければ訴訟すると言われている。

 優しかった皆川の豹変ぶりに、裏切られた人間の怒りの恐ろしさを知った。自分が侮っていた人間からの攻撃に、精神的に追いつめられている。


 会社でもどうせおもしろおかしく噂されているに決まっている。

 周りからどう言われているか考えただけで狂いそうだった。

 一番悔しかったのは、この前結婚した後輩から心配を装ったメッセージが来たことだった。


[大丈夫ですか? 結婚するって聞いて、嬉しかったのにダメになっちゃって心配してます。元気がなかった泉さんは、奥さんとの子供が欲しいって飲み会で言ってたんで、大丈夫だと思います。麗香さんが出社するのをみんな待っています]


 結婚式で誠との不倫を知っているとにおわせ、さらに追い打ちをかけるように麗香の不幸を喜んでいるのが目に浮かび、スマホを壁に投げつけて泣いた。

 婚約破棄を自業自得だと笑っていたのだろう。


 ──泉さんは奥さんに許してもらって、幸せに暮らすつもりなの?


 情と未練が一気に憎しみに変わる。麗香は精神的不調で休んでいたが、誠は出社している。男と女では不倫で負うダメージの大きさまでも違うのか。

 もうまともな相手と結婚できるとは思えない。


 ──私にはなんにもない。そう、家族も仕事も婚約者も全部なくなったのに。


 お酒と一緒にメンタルクリニックで貰ってきた安定剤を多めに飲み、ふらふらと引き出しからカッターナイフを取り出す。


[私、死ぬから。泉さん、忘れないで]


 誠にメッセージを送り、手首にカッターを当てる。

 誠の妻の笑顔を思い出す。今頃自分のしたことを忘れて妻とやり直しているのだと思うと、もう耐えられそうになかった。せめて自分の死で彼の心に爪痕を残したい。

 この世の全てが憎かった。


 ──さようなら。


 自分は一体なにを欲していたのか。もうわからないけれど、なにひとつ麗香には残りはしなかった。



☆たとえ許せなくても



 誠と辻村が対面したあと、沙羅は辻村にメッセージを送った。


[トラブルに巻き込んでごめんなさい]

[俺も当事者だから]

[夫になにか言われた?]

[大したことは話してないよ。俺の気持ちは伝えた。俺は沙羅を守りたい]

[ごめんなさい。しばらく一人で考えさせて]


 誠は沙羅にその件について、なにも言わなかった。


 あれから、辻村とは距離を置いている。職場で会っても、極力話さないようにしていた。

 毎日連絡は来ていたが、しばらく会えないと伝えた。誠が感づいた以上、迷惑をかけるかもしれないからだ。

 別居の準備を勧めているが、保証人なしで借りられる部屋が見つからず、母のアパートにひとまず引っ越す準備をしていたが、夫が日に日に弱っていく姿を見て複雑な気持ちでいた。


 誠がまた職場に乗り込んでくるかもしれないと思うと、仕事も辞めた方がいいとも思う。

 店で辻村と噂になるのもまずい。ダメだと思うほど、好きな気持ちに気づいていく。

 けれど好きなだけで人間関係は続かないのだと結婚生活で思い知った。


 ──変わらないと、私も。同じことを繰り返してしまう。


 沙羅が荷物を取りに久々に家に戻ると、普段なら仕事に行っているはずの時間に誠がいた。


「どうしたの?」

「……」


 顔色が悪い。


「どこか悪いんじゃないの?」

「いや、そうじゃなくて」


 ただ事ではない様子だった。


「麗香から今死ぬってメッセージが来た。婚約者に訴えられてこれ以上恥かきたくないって」


 衝撃的な話に思わず息を呑む。


「今すぐ行って。警察と救急車にも連絡して。住所はどこなの」


 沙羅はその場から動けない誠の代わりに、警察に連絡した。誠が動揺して事故を起こすといけないから、タクシーも呼ぶ。

 夫がこれから愛人だった女性のところへ行くのにも、不思議なほど冷静だった。虚しさはあっても、もう憤りすら感じないのはどうしてだろう。


「早く行って。死なせちゃだめ。死ぬほどの過ちなんて存在しないでしょう」


 誠が涙ぐみ、沙羅の手を握った。


「ごめん……沙羅のこと傷つけたのに」

「私もあなたと同じ。もういいの」


 辻村と関係をもった以上、もう誠を責める気はない。

 出ていく夫を見送ったあと、沙羅は引き出しから書類を取り出した。以前皆川から送られてきた不倫の証拠だった。そこには皆川の電話番号も載っている。


 電話をかけると、皆川はすぐに出た。


「もしもし、泉誠の妻です。突然ごめんなさい」


 そう言うと、一瞬驚いたのか返事がなかった。


「あ、いえ。突然あなたの職場に手紙を送りつけたことをお詫び致します。あの時は頭に血がのぼっていて……。あなたも被害者なのに無神経でした」

「時間がないので単刀直入に言います。麗香さんから自殺するって連絡が来たそうなの」


 再びの沈黙。


「あなたの怒りはわかる。裏切られた絶望も。うちの夫がしたこと、心よりお詫びします。私も許せない気持ちはまだある。だけど、あなたにも知らせないといけないと思ったんです」


 麗香と皆川の事情はわからないけれど、皆川からの手紙の文面から生真面目さゆえに、悪いと思ったらどこまでも追いつめるタイプのように思えたから、電話をした。


「私のことを偽善者って思うかもしれないけど、やっぱりこんなことで死んでほしくない」

「ええ」


 もちろん、彼には怒る資格はある。けれど一度でも好きだった人を死なせてしまったら彼も後悔するのではないかと思った。

 沙羅の職場にまで送るくらいだから、相当憎しみは強かったのだろう。

 

 もちろん沙羅だって思うところはある。けれど、どうして自分が冷静なのかというと、幼少期に一度信じていたものが崩れ去る経験をしたからかもしれない。

 根っこにある強烈な人間不信。

 あの絶望を一度経験していたから、皆川のようになることはなかっただけだ。


 大切なものを自ら壊してしまう人間に感じるのは憐れみだった。追いつめたところで、報われるとも思えない。 

 不倫していた誠が、沙羅のことは大切だと言う。どうやらそれは本当らしい。ならばなぜ? 聞いても納得できる答えは返ってこない。

 ただ己がかわいいだけで、彼に必要なのは都合のよい妻だったのだろう。


 けれど自分を裏切った相手が不幸になったら幸せになれるのだろうか。そうは思えない。

 人の心は複雑だ。一人の人を愛しぬくと決めても、時間とともにその決意も色あせることもあるだろう。

 不変の愛など存在しないと、本当は誰もが知っている。結婚という制度は変わらぬ愛を保証するものではない。


「ありがとうございます」


 意外な言葉が皆川の口から出た。


「憎しみに我を忘れていました。死ぬほど追いつめたことに関しては、少し頭を冷やします」

「出過ぎたことをしてごめんなさい。あなたの心の傷が癒えるのを祈っています」


 沙羅が早く気づいて誠を止めていたら、麗香と皆川にも幸せな未来があったかもしれない。けれど、そんなことを考えても虚しいだけだ。一度失った信頼はもう取り戻せないし時間も巻き戻せない。


「ええ。あなたも」

「ありがとう」


 電話を切り、ため息をついた。麗香は無事なのだろうか。

 死んだらおしまいだ。そうしたい気持ちは痛いくらいわかるけれど。


 たとえ許せなくても、一度その感情の重荷を置くことも必要だ。

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