不穏な邂逅
皆川から会社に手紙が来てから一か月。
麗香から会社には退職届が送られてきたと聞いている。誠も不倫が会社に知られたせいで、今期で本社は追われるだろう。
沙羅に好きな男ができたと言われて以来、精神的に追い詰められていた。
仕事も当然集中できない。そんなそぶりはなかった。いつからだ。
麗香や仕事にかまけて、沙羅の変化に気づかなかった。最近綺麗になったのはその男のせいなのか。
今更ながら、安定した居場所があるからこそ仕事にも打ち込めたという当然のことに気づいた。ただの火遊びに、家庭を失うほどの価値はなかった。
──なんとしても離婚は避けたい。
沙羅は母親の体調が悪化し、週に半分ほどは母親の借りているアパートから病院と仕事に通っている。
車で送ると言っても、かたくなに拒否をされている。
沙羅の母親のアパートは、電車で片道2時間もかかる。仕事に行くにもかなりきついスケジュールだし、本当なのか疑わしく思い、こっそり沙羅の鞄にGPSつきのタグを忍ばせた。
どうやら母親のアパートにいるのは本当だと確認し、胸を撫でおろす。
沙羅に男がいると思うと、足元から世界が崩れ落ちるような思いだった。沙羅の性格を考えると、離婚もせずに男と深い仲になるとも思えず、だとすればただ自分の不貞中に寂しさから誰かに心が揺れたというだけだと思いたかった。
「泉さん、今度撮影するCMの概要が広報から届きましたよ」
部下から渡された書類の中に見たことのある会社名を見つける。沙羅が働いている会社名だった。そこの経営者も撮影に協力するらしい。
──辻村裕也。
沙羅の好きな男というのは、職場にいる可能性が高いと思っていた。ふと思いついてパソコンでその名前を検索すると経歴が出てくる。
「沙羅と同じ大学……?」
胸のざわめきが一気に大きくなる。最近有名になってきたフラワーアーティストらしく、今までにない新しいコンセプトの店舗を増やしている伸び盛りの事業家らしかった。
──この男に会ってみたい。
沙羅の言っていた好きな男とは辻村ではないか。そんな思いに囚われる。
「今後のために、撮影に参加したいんだけど」
「もちろんいいですよ」
今後の営業のためにも撮影に同席したいと広報にかけあうと、快諾された。
撮影当日。
場所は都内のウェディング会場で行われる。結婚をテーマにしたCMは、大量の花を使うため企画段階から辻村が参加していたらしい。
──もし沙羅と関係しているなら……。
準備中、中心でてきぱきとスタッフに指示している男が辻村だと聞いた。じっとその様子を観察する。
花々を一つずつ選び、全体のバランスを見極めながら、配置していく。辻村が動くたびに、会場が美しく彩られていくのを見て、感嘆の声が上がった。
花嫁役の女優も感極まっていた。
大勢いるスタッフたちも、その美しさに見惚れている。
「いや、凄いですね。今話題の人らしくて、頼み込んで企画から参加してもらったんですよ」
「あぁ……」
今まで数多くのCMを手掛けてきたというディレクターも辻村のセンスと技術に感銘を受け、彼の才能を高く評価しているのだという。
いくつかのパターンを撮影し、その度に会場の花を入れ替えたが、出来栄えには目を見張るものがあった。
撮影後、打ち上げに誘われ、辻村も顔を出すということで飲み会では敢えて隣に座った。
「初めまして。泉と申します」
「辻村です」
名を名乗り、名刺を差し出すと辻村がまっすぐに誠を見た。なにか感づいているのか、ただの仕事相手と思っているのか、皆目見当がつかない。
淡々と名刺交換をしたあと、何気ないふうを装って話しかける。
「もしかしてうちの妻が働いている会社ですか?」
「沙羅さんですか」
泉という苗字にぴんと来たのか、すぐに沙羅の名前が出る。
「偶然ですね。まさかうちの会社のCMに関わっているとは」
「ええ」
「あの演出ロマンチックでしたね。花嫁と花婿に花びらが降り注ぐところ」
辻村が妻を奪った相手かもしれないと思うと、いつもより多弁になった。もし本当なら絶対に許せない。自分は遊びだが、沙羅がどうやら本気なのは様子を見ればわかる。沙羅が署名した離婚届がまだリビングの戸棚に入ったままだ。
「結婚は現実だけど、結婚式は夢ですからね。美しく仕上げたかったんです。たとえ泡沫の夢であってもね」
「現実……ね。辻村さんは独身なんですか」
「あいにくご縁がありませんで」
柔らかく笑う。食えない男だ。営業という仕事柄、色々な人間と関わってきたが、つかみどころがなく全く本心が読めない。
「沙羅さん、よくやってくれてますよ。人柄もよくて、スタッフからも慕われています」
「そろそろ、仕事は辞めてもいいんじゃないかって夫婦で話し合ってるんです。沙羅が子供を欲しがっていて」
黙ったままの辻村の目が誠を見据える。その時、沙羅の相手はやはりこの男だと確信する。
「今まで仕事が忙しかったんですが、これからは夫婦の時間を作ろうかと」
「家庭を大切にできる人間は幸せだと思います」
もしも沙羅の相手が辻村ならば、この言葉は挑発的だ。やはり何か知っているのか。
自分だって沙羅と結婚式を挙げた時は、傷つけるようなことをするとは思わなかった。いつのまにかまっさらだった気持ちは日常の怠慢によって、濁っていった。
沙羅だっておそらく同じだ。
一時的に別の男がよく見えただけで、まだやり直せる。
本気でよその女を愛して出ていった沙羅の父親とは違う。そのことをわかってもらわねばならない。
皆川から会社に手紙が来てから一か月。
麗香から会社には退職届が送られてきたと聞いている。誠も不倫が会社に知られたせいで、今期で本社は追われるだろう。
沙羅に好きな男ができたと言われて以来、精神的に追い詰められていた。
仕事も当然集中できない。そんなそぶりはなかった。いつからだ。
麗香や仕事にかまけて、沙羅の変化に気づかなかった。最近綺麗になったのはその男のせいなのか。
今更ながら、安定した居場所があるからこそ仕事にも打ち込めたという当然のことに気づいた。ただの火遊びに、家庭を失うほどの価値はなかった。
──なんとしても離婚は避けたい。
沙羅は母親の体調が悪化し、週に半分ほどは母親の借りているアパートから病院と仕事に通っている。
車で送ると言っても、かたくなに拒否をされている。
沙羅の母親のアパートは、電車で片道2時間もかかる。仕事に行くにもかなりきついスケジュールだし、本当なのか疑わしく思い、こっそり沙羅の鞄にGPSつきのタグを忍ばせた。
どうやら母親のアパートにいるのは本当だと確認し、胸を撫でおろす。
沙羅に男がいると思うと、足元から世界が崩れ落ちるような思いだった。沙羅の性格を考えると、離婚もせずに男と深い仲になるとも思えず、だとすればただ自分の不貞中に寂しさから誰かに心が揺れたというだけだと思いたかった。
「泉さん、今度撮影するCMの概要が広報から届きましたよ」
部下から渡された書類の中に見たことのある会社名を見つける。沙羅が働いている会社名だった。そこの経営者も撮影に協力するらしい。
──辻村裕也。
沙羅の好きな男というのは、職場にいる可能性が高いと思っていた。ふと思いついてパソコンでその名前を検索すると経歴が出てくる。
「沙羅と同じ大学……?」
胸のざわめきが一気に大きくなる。最近有名になってきたフラワーアーティストらしく、今までにない新しいコンセプトの店舗を増やしている伸び盛りの事業家らしかった。
──この男に会ってみたい。
沙羅の言っていた好きな男とは辻村ではないか。そんな思いに囚われる。
「今後のために、撮影に参加したいんだけど」
「もちろんいいですよ」
今後の営業のためにも撮影に同席したいと広報にかけあうと、快諾された。
撮影当日。
場所は都内のウェディング会場で行われる。結婚をテーマにしたCMは、大量の花を使うため企画段階から辻村が参加していたらしい。
──もし沙羅と関係しているなら……。
準備中、中心でてきぱきとスタッフに指示している男が辻村だと聞いた。じっとその様子を観察する。
花々を一つずつ選び、全体のバランスを見極めながら、配置していく。辻村が動くたびに、会場が美しく彩られていくのを見て、感嘆の声が上がった。
花嫁役の女優も感極まっていた。
大勢いるスタッフたちも、その美しさに見惚れている。
「いや、凄いですね。今話題の人らしくて、頼み込んで企画から参加してもらったんですよ」
「あぁ……」
今まで数多くのCMを手掛けてきたというディレクターも辻村のセンスと技術に感銘を受け、彼の才能を高く評価しているのだという。
いくつかのパターンを撮影し、その度に会場の花を入れ替えたが、出来栄えには目を見張るものがあった。
撮影後、打ち上げに誘われ、辻村も顔を出すということで飲み会では敢えて隣に座った。
「初めまして。泉と申します」
「辻村です」
名を名乗り、名刺を差し出すと辻村がまっすぐに誠を見た。なにか感づいているのか、ただの仕事相手と思っているのか、皆目見当がつかない。
淡々と名刺交換をしたあと、何気ないふうを装って話しかける。
「もしかしてうちの妻が働いている会社ですか?」
「沙羅さんですか」
泉という苗字にぴんと来たのか、すぐに沙羅の名前が出る。
「偶然ですね。まさかうちの会社のCMに関わっているとは」
「ええ」
「あの演出ロマンチックでしたね。花嫁と花婿に花びらが降り注ぐところ」
辻村が妻を奪った相手かもしれないと思うと、いつもより多弁になった。もし本当なら絶対に許せない。自分は遊びだが、沙羅がどうやら本気なのは様子を見ればわかる。沙羅が署名した離婚届がまだリビングの戸棚に入ったままだ。
「結婚は現実だけど、結婚式は夢ですからね。美しく仕上げたかったんです。たとえ泡沫の夢であってもね」
「現実……ね。辻村さんは独身なんですか」
「あいにくご縁がありませんで」
柔らかく笑う。食えない男だ。営業という仕事柄、色々な人間と関わってきたが、つかみどころがなく全く本心が読めない。
「沙羅さん、よくやってくれてますよ。人柄もよくて、スタッフからも慕われています」
「そろそろ、仕事は辞めてもいいんじゃないかって夫婦で話し合ってるんです。沙羅が子供を欲しがっていて」
黙ったままの辻村の目が誠を見据える。その時、沙羅の相手はやはりこの男だと確信する。
「今まで仕事が忙しかったんですが、これからは夫婦の時間を作ろうかと」
「家庭を大切にできる人間は幸せだと思います」
もしも沙羅の相手が辻村ならば、この言葉は挑発的だ。やはり何か知っているのか。
自分だって沙羅と結婚式を挙げた時は、傷つけるようなことをするとは思わなかった。いつのまにかまっさらだった気持ちは日常の怠慢によって、濁っていった。
沙羅だっておそらく同じだ。
一時的に別の男がよく見えただけで、まだやり直せる。
本気でよその女を愛して出ていった沙羅の父親とは違う。そのことをわかってもらわねばならない。
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