さらなる不幸 止まらぬ想い

 誠に離婚を切り出した翌日、暗澹たる気持ちで母のいる病院へ向かった沙羅は、追い打ちをかけられるように医師から、母が末期のすい臓がんであると知らされた。

 悪いことは重なるものなのだろうか。耐えがたいことの連続に、現実を受け止められそうにない。 


「残念ですが……進行がとても早いのです」

「そんな……」


 孫ができるのだけを楽しみにしていた。小さなアパートで、娘には迷惑をかけたくないとパートを掛け持ちして静かに暮らしていた母に突然降りかかった不幸に、沙羅はショックを受けた。


 ──この前まで元気だったのに。


 病室にいる母親は、小さくなった気がした。


「もう少し元気でいれると思ったんだけど」


 気丈にも沙羅を気遣う母に、胸が痛くなる。


「謝らないでよ。なにかしてほしいことはある?」

「私は、沙羅が誠さんと仲良く暮らしてたらそれでいいよ。誠さんが初めてうちに来た時、この人なら大丈夫って安心したもの。親は先に逝くものだから」


 色々な想いが押し寄せてきて、涙がこぼれた。


「食べたいものとか、欲しいものがあったらなんでも持ってくるから……」

「泣くんじゃないよ」


 そう言う母も泣いている。きっと体も辛いはずなのに、口には出さない。


「医療費くらいはなんとかあるから、沙羅は誠さんとの生活だけ考えなさい」

「少しは頼ってよ。私だって働いてるし」

「仕事もいいけどさ、やっぱり人間家族を大切にするのが一番よ。仕事の代わりはあるけど、家族の代わりはいないから」


 自分の家庭がうまくいかなかった悔恨を滲ませるように語る母に、自分たち夫婦が離婚の危機にあるとは言えなかった。


 ──誠は私を裏切って、私は私で別の人に心を奪われている。


 それは母が願った平穏な家庭からはほど遠い歪で歪んだものだった。余命わずかな母にとてもじゃないが、そんな事情を言えるわけもない。


 ──心配させるわけにはいかない。誠とのことは隠し通さないと。


 病院を出ると、辻村から電話がかかってきた。


「もしもし。どうかしましたか」

「いや、有給とって病院行くって言ってたから気になって。あと声が聞きたくなった」


 本来なら人妻に言うべき言葉ではない。公園でキスをしてから、辻村はもう沙羅への好意を隠そうとしなかった。

 そのことに戸惑いつつ救われている自分がいる。

 寂しいから、優しくしてくれる人にすがりたいだけだとわかってはいても、もう自分の気持ちが止められなかった。


 ──もう駄目。頑張れない。


 おさえていた感情が溢れて、言葉にならず声を押し殺して泣く。


「今どこ? 迎えに行く」


 誠からも今日は早く帰るから話そうとメッセージが来ていたが、無視した。

 父の浮気が最初に発覚した時、母は許した。いや許した振りをした。

 けれど、寛容さは一度冷めた愛情を温めなおすことはできず、結局父は出ていった。

 

 許したふりをして一緒に暮らしたら、きっと自分の心は本当に壊れてしまう。



☆正しさだけでは救えない



「ん」


 迎えに来た辻村の部屋へ、ダメだと思いつつ入ってしまった。

 扉を閉めた瞬間、唇を貪るように奪われ、体の力が抜けていく。


「駄目、こんなこと」


 小さく呟く沙羅に辻村が囁く。


「まだ離婚してないから?」

「これからのことちゃんと決めてない」


 自分たち夫婦のいざこざに辻村を巻き込みたくはない。もはや破綻しているとはいえ、まだ沙羅は誠の妻には変わりなかった。


「これ以上道を間違えたくはないの」


 沙羅の言葉を、辻村が淡く笑う。


「その正しさは、沙羅を救ってくれるの?」


 道徳的に正しい人間が報われるとは限らない。昔話では悪い人間にはばちが当たるけれど、現実はそうはいかない。

 そんなことはわかっている。溜めこんだ不満と怒りと悲しみ、そして孤独。

 手に入れた平穏な日々は、脆く儚く全て無に還ってなにも残ってはいない。


 全て忘れて許した振りをして元に戻ったとしても、割れた皿はもう元の形には戻らない。真帆の夫のように、早めに話し合っていればこうはならなかっただろうけれど、もう遅すぎる。


「自分を偽って生きても報われない」

「もう言わないで」


 向き合うべき現実の重さに、逃げ出したくなる。

 泣き出した沙羅を辻村が抱く。


「だってもうとっくに限界じゃないか。我慢した先に何がある?」

 

 質問に答える前に唇を塞がれる。駄目だと思う心とは裏腹に、体が熱を帯びてくる。首筋を吸われ、甘い声が漏れた。

 誠に疑いを持ってから、不感になっていた体が、辻村の手で忘れていた感覚を思い出していく。


「は……」

「好きだよ、沙羅。沙羅が婚約したって人づてに聞いた時、諦めないで奪いにいけばよかった」

「え……?」

 

 どういうことなのか、聞く余裕もない。

 低く甘い囁きは、現実の辛さを忘れさせてくれる。彼をただの逃げ場にしたくはない。けれど、抗えない自分がいる。


「こんなことしちゃ駄目って思ってたのに」

「もう十分耐えただろう。今は傷ついた沙羅を甘やかしたい」


 抱き上げられ、寝室のベッドにおろされた。すでに夫婦仲は破綻してはいても、一線を越えるのは怖い。


「辻村さん、私」

「責任は俺が取るよ」


 押し倒され、残っていた理性もなくなっていく。


 ──この人が好き。


 その手を、優しさをふりほどくことができなかった。


※R15バージョンなので朝チュンにします。

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